吉田勝頼
◎吉田勝頼
真・国際プロレスの若きエース。元司の後輩。
不意に、インターホンが鳴った。
いったい何者だろうか。元司は体を起こし、時計を見る。昼の十二時を少し回ったところだった。
もう一度、インターホンが鳴った。どうせ訪問販売か、その類いだろう。少なくとも、この時間帯に彼の家を訪れる者などいないはずだ。
ならば、無視しておこう……と思った次の瞬間、今度はドンドンと扉を叩く音が響く。いったい何事だろうか。
「おい、うるせえよ。あんまりふざけてると、怪我するぞ」
言いながら、元司は扉を開ける。どうやら、しつこい訪問販売らしい。ならば人相の悪い顔を見せ、追い払おうと考えたのだ。
しかし、そこに立っていたのは想定外の人物であった。
「よ、吉田?」
唖然となりながら、元司は呟く。
目の前にいるのは、真・国際プロレスのエースである吉田勝頼だった。苛立ったような表情で、元司に向かい口を開く。
「女でも来てんのか?」
横柄な口調である。一応、吉田は元司の後輩なのだが。
「いや、来てねえよ」
「じゃあ、入らせてもらうよ」
「ちょっと待て。何しに来た――」
言いかけたが、吉田の顔には不退転の意思があった。元司の言葉を無視し、ずかずか入り込んで来る。元司は、招き入れるしかなかった。
「汚い部屋だな」
辺りを見回し、吉田は呟いた。この男は、昔からこうだ。先輩も後輩も関係ない、全ては実力次第……そんな信念のもとに実績を積み上げ、団体のエースとして君臨してきた。
無論、その裏には血のにじむような努力がある。吉田はタバコはもちろんのこと、酒も飲まない。自身で車も運転しないし、食事にも異様に気を遣っている。試合が終われば、体のケアのためのサプリメント摂取やマッサージを欠かさない。昭和のレスラーのように、試合が終われば取り巻きを引き連れ飲み歩く……というようなことは、今までにしたことがない。
もっとも、プロレスに馴染みの深いマスコミは、吉田を「小さくまとまりすぎ」などと書いているが。
「何しに来たんだよ。お前、今日も試合だろうが」
「ああ。だから話は手短に終わらせる」
そう言うと、吉田は真剣な表情になった。
「モトさん、悪いことは言わねえ。やめとけよ」
「何をだ?」
とぼけて聞き返したものの、吉田が何を言わんとしているかは理解していた。
「あのなあ、俺は社長から聞いたんだよ。あんた、Dー1でマルコとやるそうだな」
「そうだよ」
「おい、試合で頭でも打ったのか? あんたが勝てるわけねえだろ。四十過ぎたおっさんが、今さら何をする気だよ。怪我するのがオチだ」
口調はふざけているが、吉田の表情は変わらず真剣なものである。元司は思わず苦笑する。
「別に、勝てるとなんか思ってねえ。ただ、社長に言われたから――」
「だったら、俺がやる。俺がマルコと闘う」
その言葉を聞いた瞬間、元司はまじまじと吉田の顔を見つめた。だが彼の鋭い眼差しは、元司をしっかりと捉えている。その顔のどこにも、冗談だとは書かれていない。
絶句している元司に向かい、吉田は一方的に語り続ける。
「今は、あんたらの時代とは違うんだよ。藤吉組のセメント技術が通じるような相手じゃねえんだ。予選の段階すら、クリアできるかどうか怪しいもんだ。だったら、俺が行く」
「お前、バカか?」
ようやく、元司が言葉を返した。すると、吉田の眉間に皺が寄る。
「んだと……」
「お前こそ、自分の立場を分かってんのかよ? お前は、ウチの看板エースなんだぞ。お前が負けたら、ウチにとって痛手になるだろうが」
その言葉に、吉田は黙りこんだ。
元司の言葉は間違っていない。吉田は、まがりなりにも真・国際プロレスのエースである。これから先、吉田と小杉の二人を軸として興行をしていかなくてはならない。
しかし、その吉田が格闘技の試合で敗れたらどうなるか……吉田の評判が高まるとは思えない。
格闘技は怖いものだ。リングの上では、何が起きるか分からない。まして、マルコのような打撃系は危険である。ヘビー級の選手は、たった一発のパンチやキックで試合を終わらせることが可能なのだ。一発のパンチで吉田が倒れた場合、ほとんどのファンは吉田を「弱い」と評するだろう。それがラッキーパンチによるものであったとしても。
これが、打撃の怖さである。どれだけ実力の差があったとしても、たった一発のジャブで形勢が逆転することもあるのだ。
プロレスラーとて、それは例外ではない。どんなに筋肉を付け打たれ強くなっても、ヘビー級のパンチが顎に入れば意識は飛んでしまう。意識が飛べば、その時点で勝敗は決する。
沈黙する吉田に、元司はなおも語り続ける。
「いいか、お前が負けたら会社にとっては痛手だ。ましてや、怪我して入院でもしたらどうなる? お前は今、怪我はおろか風邪を引くことも許されねえ立場なんだよ。それがエースだ……お前だって、分かってるはずだ」
「モ、モトさん……」
ようやく、吉田が口を開いた。その顔には、複雑な表情が浮かんでいる。
元司は知っている。吉田は、だいぶ前から総合格闘技の道場に週に一度のペースで通っていた。一般の道場生が来ない時間帯に、個人指導を受けていたのだ。吉田もまた、いつかはこんな日が来ることを見越していた。
吉田はプロレスも上手いが、セメントの腕のなかなかのものだった。エースに昇り詰めるだけあって負けず嫌いであり、身体能力も大したものだ。アマチュアレスリングの経験があり、打撃も上手い。今ならば、セメントの腕は元司に劣らないレベルであろう。いや、打撃の技術なども考慮に入れれば……総合的には、元司よりも上かもしれないのだ。
しかし、Dー1のリングでマルコと闘い勝てるかと問われれば……それはむずかしい、と答えざるを得ない。
「吉田、お前はウチの大将なんだよ。マルコとやらせるわけにはいかねえんだ。だが、俺は違う。マルコとやって負けても、何のダメージもねえ。仮に怪我しても、興行にはさほど響かねえ……だろ?」
元司の言葉に、吉田はうつむいた。まるで、一昔前に戻ったような雰囲気である。かつて練習生だった吉田に、元司は何度か説教したものだった。その度に、吉田はうつむいていた。人によっては、ふて腐れていると取られるかもしれない態度ではある。
だが、元司は知っている。吉田はレスラーとしては器用だが、人としては不器用な部類なのだ。でなければ、わざわざ家まで来たりしない。
そんな吉田に、元司は静かな口調で語り続けた。
「俺がいなくても、会社は困らない。だがな、お前がいなくなったら会社は困るんだよ。俺は、いわば鉄砲玉だ……だから、Dー1にカチこむ。相手のタマ獲れなくても、撃ち込むだけでインパクトを与えられる。それで充分さ」
その言葉を聞き、吉田はクスリと笑った。
「分かったよ。だがな、一つ言っておく。あんた今、鉄砲玉って言ったがな……どんな銃でも、弾丸がなけりゃあ只の鉄の塊だ。あんたに万が一のことがあれば、会社は困るんだよ。小杉だって、高津さんだって困るんだ」
「困りゃしねえよ」
「そう思ってんのは、あんただけだよ」
そう言うと、吉田は立ち上がった。
「さて、俺もそろそろ帰らないとな。ところで、言い忘れてたけどな、予選は三週間後だそうだ」
「んだとぉ?」
さすがの元司も、驚愕の表情を浮かべる。準備期間が三週間とは……短かすぎる、と言わざるを得ない。
「あとな、来週の水曜日に記者会見をやるらしいぜ。一応、そのつもりでいてくれ」
吉田が帰った後、元司はぼんやりテレビを観ていた。無論、内容など頭に入っていない。先ほど吉田に言っていないことがあり、その考えが頭から離れない。
元司が真・国際プロレスに入団したのは二十五歳の時である。決して早くはないスタートだ。それから二十年、夢中でプロレスを続けてきた。前座の悪役レスラーという仕事を、きっちりと果たしていた。
そして今、レスラー生活二十年という節目の時期に、マルコ・パトリックとの試合という大一番を迎えようとしている。
グレート高津は、家庭のためにプロレスを諦め引退する。しかし、自分には家庭がない。四十五歳という年齢まで、ずっとプロレスを続けてきた。
今までしてきたプロレスラーという仕事、そこに何があったのだろう。世間では、前座の悪役プロレスラーはどんな評価を受けるのか分かっている。少なくとも、子供の将来なりたい職業ランキングで十位以内に入ることはない。
自分は二十年の間、いったい何をやってきたのか。さらに、自分の存在は何なのか。それを確かめるために、Dー1のリングに上がる。
そして、マルコと闘う。
・・・
「なあ、この荒川元司ってのは強いのか?」
軽い口調で尋ねる石川和治に、部下の柳澤は首を横に振った。
「もともとは、武想館拳心道空手の選手でした。高校卒業後、アルバイトをしながら空手を続けていたようです。ところが二十五歳の時、真・国際プロレスにスカウトされたのを期にプロレスに転向しました。その後は、パッとしない前座の悪役としてプロレスラーを続けているようです。ガチのスパーリングは強いって話は聞きましたが、今とはレベルが違いますから」
「武想館拳心道にいたのか? だったら、俺の後輩じゃねえか。しかし荒川なんて奴、いたかなあ……」
首を捻りながら、石川は当時の関わりのあった後輩たちの顔と名前を思い出してみた。しかし、記憶にない。
石川はもともと、フルコンタクト空手団体の一流派である武想館拳心道の支部長だった。そこから独立し、道心会館を立ち上げる。
そこから、石川は才能をフルに発揮していく。あれよあれよという間に業界でも最大手の団体へとなっていった。
今では、古巣の武想館拳心道をも呑み込んでしまいそうな勢いである。
「まあ、いいや。で、他はどうなんだよ?」
石川の言葉に、柳澤が苦笑する。
「後は、ロクなのがいませんね。応募総数からして、二十人もいませんし。まともに試合できそうなのは、一人もいませんよ。中には、独学で二十年間拳法を学んでた……なんて奴もいる始末です」
「独学だあ? 勘弁してくれよ」
石川は頭を抱えた。事実、昭和の時代は独学で拳法を学んだ……という触れ込みの男が、道場破りに来たのだ。だが、本当に強かった者など一人もいない。色帯の一般道場生に倒されてしまうレベルだった。
ましてや、マルコと闘おうものなら殺されてしまうだろう。
「無名の選手にチャンスを与えるってのが、Dー1チャレンジのキャッチコピーなんだがな……これじゃあ、下手すると四十五歳のおっさんがマルコと闘う羽目になるぞ」
「大丈夫ですよ。琴岩竜なら、必ず勝ち上がりますから」
「そう願うよ」
琴岩竜……かつて力士であり、横綱も狙える逸材と言われていた。身長百九十センチ体重百六十キロの体格と日本人離れした圧倒的なパワーとで、将来を期待されていたのである。
しかし、大麻を吸っていたことが明るみに出てしまい、角界を追放された。その後は総合格闘家に転向し、今回がデビュー戦なのである。
石川も、琴岩竜には期待していた。だいぶ前からコンタクトを取り、交渉し続けてきた。結果、ようやくDー1のリングに上がることを承知してくれた。今回の興行の目玉であり、今後のスター候補生でもある。
予選は琴岩竜に優勝してもらい、年末にマルコと対戦させる。となると、今回のキャッチコピーはずばり「再生」だ。罪を犯して角界が追放した男を、Dー1が格闘家として立派に再生させる。
このイベントで優勝した琴岩竜が、試合後にマイクを持ち叫ぶ。
「私は変わりました。誰でも変われるんです! 次は、この試合を見た皆さんが変わってくれることを祈っています!」
この一言で、底辺を蠢く負け組や昭和生まれの中年たちの心を鷲掴みだ。
そして年末、マルコに挑む……ここで敗れても、一向に構わない。琴岩竜には次のテーマが出来るし、マルコは十連勝できる。
問題は対戦相手だが、その点にも抜かりはない。まず一回戦の相手はムエタイ最強の戦士、ナーク・ギアッソンリット……タイでは、あまりにも強すぎて対戦相手がいなかったという触れ込みである。
しかし、しょせんはミドル級の選手だ。普段は、七十キロまで体重を落として試合をしていた。今は百八十センチ八十五キロらしいが、どちらにせよ琴岩竜の相手にはなるまい。咬ませ犬としては完璧だ。
問題は向こう側のブロックだが、これも心配ないだろう。悪役プロレスラーの荒川元司と、古武術家の本田柔像だ。荒川は四十五歳のロートルだし、本田に至っては公式の試合の記録がない。はっきりしているのは、古武術三段の三十五歳であり達人を自称しているという事実だけだ。両方とも、完全な色物である
どちらと闘おうが、琴岩竜の優勝には変わりないはずだ。後は、いかにして感動的なシナリオに仕上げるか? である。
そう、今の時代は格闘技にもキャラクターが重視される。さらに、そのキャラが作り出すストーリーも……そのストーリー次第で、興行の出来は決まる。選手の技術や試合の善し悪しなど、二の次なのだ。
そのためには、多少の小細工はする。さらに、必要とあらば判定を曲げさせることもある。
もっとも、今回は小細工の必要もない。琴岩竜が勝ち、年末にマルコと試合をする。これは間違いない。
今のところ、全て石川の描いた絵図通りに事が運んでいる。