興梠警部
里見は、
静かに、
障子戸を閉めた。
噂に違わぬ、たたずまい。
仕入れた情報は、伊達ではなかった。
拭き掃除の徹底ぶりと
執念すら感じさせるワックスがけの効果で、
廊下の板は・・飴色に・・底光りしていた。
神経質なほどに細部まで、
手入れの行き届いた庭。
蒼い月の光を浴びて、
庭の池を、
滑らかに泳ぐ錦鯉は、ため息が出るほど美しい。
特に、
金色の錦鯉ときたら、
光彩が水中に帯を引いて、神々しくすら見えた。
ここは・・
神楽坂にある料亭の個室。
企業のトップクラスが贔屓にする、
一見さんお断りの、高級店であった。
知り合いの伝手をたより、
交渉事のために、
一室を、確保してもらったのだ。
「ごめん下さいまし」
ふすま越しに仲居の声がした。
「お連れの方が、お見えになりました」
スリムな体型のブロンドの客は、
仲居にコートを預けると、
黒革のバッグを提げ、
警戒心をにじませつつ、
里見に招じ入れられるまま、
神経質そうに、
床柱を背にして、座った。
仲居が下がると、
客は、
物珍しそうに室内を見まわす。
息を呑むような、
深い森の描かれた襖絵は、
有名画家の筆によるものであった。
料亭の一室が、
まるで・・
別世界に繋がっているかのような錯覚を、見る者に与えた。
「怖いですなあ・・ミスター・里見。
私は、
こんな立派なところへ、
招待を受けるような、
社会的身分にないですから」
「なにをおっしゃる・・興梠警部。
このたびは、
ご昇進、まことにおめでとうございます」
正座した里見は、
スーツの内ポケットから、
薄くはない封筒を抜き、卓の上をすべらせた。
興梠警部は、
封筒の上に細長い指を二本置くと、
無言で、押し戻した。
「ワイロは受け取らん主義でしてね。
それでなくとも、
警察に対する風当たりは強い。
面倒を避けることが懸命な判断であり、
賢い選択といえるでしょう」
「警察 大学校の同期じゃないか。
友人として、
些少ながら、お祝いをさせてくれよ」
これは・・
結構な殺し文句で、
警察学校の厳しい環境の中で、
濃密な時間を過ごした者同士には、
強い連帯感が生まれるものなのだ。
興梠警部は、
飛び級進学なので、
実質(里見よりも)二歳下であった。
「お世話になった、
あなたを前にして、
心苦しいのですが、
組織から去って行った人を、
私は同期とは認めません。
いかなる理由があろうともです。
責任放棄した人間と見なします。
・・迷宮入り事件に遭遇しない刑事など・・
・・皆無なのに・・
あなたなら、
相当な出世も望めたはずデス」
興梠は、
運ばれてきた、温燗の酒を、
和服姿の、
美女二名のお酌で飲んだ。
芸者の一方は ━ 清楚。
もう一方は ━ 派手目なタイプ。
ふたり共に美人であった。
里見が慎重に吟味して、
お座敷に迎え入れた。
昔から、興梠は、
(自身がハーフのせいか)
純和風なタイプの、
どこか、処女性を感じさせる、清楚な女性を好んだ。
DNAに組み込まれている、
好みのタイプというものは、
おいそれとは、変わらないものだ。
清楚な方の女性は、
興梠警部の指に、
自然を装い、
さりげなく触れ、
自身の体温を、繰り返し、伝達した。
男の好みが、
ヘテロであれば、
(なおかつEDでなければ)
効果的な漢方薬的ボディブローだ。
しだい、
しだいに、
効いてくる。
興梠警部の表情が、
微妙に緩んできているのは、アルコールのせいだけではあるまい。
女性の体温は、
男性のリビドーに、
(雄の)
化学反応を起こさせる。
使い方しだいでは〈媚薬〉になりうる。
それに、プラスして、
ブレス(吐息)と品が組み合わされば、
相手が堅物の警部であろうと、
籠絡するのは、難問題では決してない。
ほど良く、
アルコールが回り、
男性ホルモンが活性化してきたところを見計らい、
里見は手を叩き、
急転、
人払いした。
警部と、いいムードになりかけていた、
清楚な方の女性は、
未練の残り香ただよう、
秀逸な表情を引いて見せた。
彼女は、
退室時に、
出口と勘違いしたのか、
別のふすまを・・開けてしまった。
ふすまの向こう側は、
小部屋になっていた。
そこには・・
二組の布団が、並べて敷かれていた。
ギョッ!として、
青い目の玉が・・
一瞬飛び出た、興梠警部!
「失礼いたしました」
彼女は、
そそくさと、襖を閉め、
もう一人の派手な女性と共に、退室していった。
興梠の硬質な表情の、
縫い目が プツン・プツン とほころんだ。
「ミスター・里見!
(ニヤリとして)
あなたというヒトは。
まったく!
昔から、囲い込みに長け。
そしてタンゲイスベカラザル仕掛けのオーソリティーだ。
(人さし指を立てて)
ウエル!
訊きたいことは分かってますよ。
ビジネスホテル『設楽』で発生した、二つの事件について、でしょう?」
「そう。
電話で話した、内容についてだ」
「私の行きつけの小料理屋に、
公衆電話から、
暗号めいた、
もの言いで、用件を伝えてくる。
あい変わらず、周到ですね」
いったん言葉を切り、
盃をグビッと空け、
コロコロ喉を鳴らした。
以前から、
興梠は、日本酒に目がない。
警部は、
視線を鋭くして、里見を刺した。
「いいですか、
これから私が話すことは、
すべて、
ひとり言です。
メモも録音も質問も、一切遠慮していただきたい!」
「約束は守るさ!」
警部は、
革のバッグから、
タブレットを取り出した。
スイッチをオンにしてタッピングを開始する
「うちの署の管轄内で、起きた事件です。
情報を取るのは困難ではありますが、
私の立場ならば、
まったく・・不可能というワケでもありません。
さて・・
どこからいきましょうか。
事件発生日などの細々とした時系列は、
あなたも、承知だから、省くとして。
「まずは・・
『弓削 敦子刺殺事件』から、いきましょう。
被害者の女性は、
咽喉〈のど〉部と腹部の、
二ヵ所を刺され、
出血多量で死亡。
年齢は26歳。
独身。
家族あり。
精神疾患で、
ビジネスホテル『設楽』近くにある、
『相馬セラピー』という精神科、
正確に言えば・・
大学病院で、
精神科の教授をしていた人物が、
興した研究所へ通院しています。
医療機関でないため、
健康保険は、ききません。
「『相馬セラピー』の評判は上々。
回復率も、
同業のセラピー系の中では、高いと評判です。
被害者が、
わざわざ、ホテルに滞在してまで、通院する価値は、あったのでしょう。
「さて・・
容疑者の ━ 設楽涼(29歳)。
ヤッコさんは・・
限りなくブラック(黒)に近いグレイ(灰色)です。
見かけによらずシブトイ!
本人は 「失くした」 と証言しているが・・
被害者を刺した、
赤い柄の、
葉巻専用の小型ナイフの持ち主だし、
そして・・指紋は動かしがたい。
ただし、
厳密にいえば、
その他は、
状況証拠ばかりです。
決め手には・欠けますナ。
「この事件の妙は、
ヤッコさんのアリバイを、
唯一、証明できる、
シングルルームに宿泊した ━ 703号室の客というのが、
杳として、行方の知れないところです。
宿泊カードの記入はデタラメ、
目撃者もいない。
なにより・・
設楽自身が、
その一点に関して、黙秘を通している。
・・始末に負えません。
なにかニオイます。
誰かを、
かばっている可能性は、ある。
あるいは・・
不利な証言をされるのを、
回避するために、
あえて、設楽自身が、
口を、
閉ざしているのかもしれません。
どの道・・
ヤッコさんは、自縄自縛。
わが警察署きっての「割り屋」である、
山村が、
取り調べを担当している。
いずれは・・謳うでしょうな。
このままでいけば有罪は確定デス」
「具体的な、
犯行時刻は?」
「シャーラップ!サトミ!
ひとり言に、口をはさんではイケマセン!」
探偵を厳しくニラみつける。
「オレの方も、ひとり言だが」・・しれっと里見。
興梠警部は、
口端に、
不敵な笑みを浮かべた。
「あなたもご存じの通り、
死亡時刻というのは、
『何時・何分』とまでは、
正確に割り出せない。
だからこそ 『推定』 という言葉が付されます。
死後の経過時間や、
状況によっても、また変わってくる。
ケース・バイ・ケースだ。
死亡して、短時間の経過なら、
精度は高い。
しかし、白骨化していれば、その逆デス。
季節によっても、変動する。
寒ければ、
死後硬直の進行は遅れマス。
暑ければ早まる。
さまざまな要素が折り重なり、
正確に割り出すのは、至難の業。
ちなみに、刺殺された部屋には、暖房が入っていました。
今回のケースでいえば、
前後30分程度の誤差は、仕方がないでしょう。
弓削 敦子の、
死亡推定時刻は、午後10時(22時)。
死体発見は、翌日の午前10時05分。
およそ12時間のタイムラグがありマス。
清掃係の、牧田という女性が、
毎日、同時間に、
701号の清掃を行っているので、
いつもの習慣にしたがって、
各階別の、フロア・マスターキーを使用、
電子ロックを解除して、同室の扉を開けた。
ドアガードが、かかっていなかったため、
安心して室内に入ると、
ベッドに横たわった被害者の血まみれ死体を発見。
あわてて、昼番のフロント係・・鈴木サユリに、
内線電話で連絡。
鈴木から、
警察へ通報された。
これが・・主たる経緯です」
「被疑者の設楽 涼が、
事件前に、
パニックを引き起こした被害者、弓削 敦子の部屋へ、
呼び出されたというのは 「裏」 が取れているのか?」
里見は、
パイプに火を入れた。
「ええ、間違いないデス。
設楽が、
被害者の部屋へ、
入室したのと、退室したのを、
同階のツインルーム(706号室)のカップル客が目撃している。
パニックを起こした被害者の、
常軌を逸した叫び声に、
なにごとかと、ツイン・ルームを飛びだして、
扉越しに、ようすをうかがっていた。
ざっくり言えば・・ヤジ馬です!
設楽の退出時に、
ドアのスキ間から
ベッドの上に横たわった、
生きている弓削嬢を、
二人は、
目撃し、確認している。
時間の点でも、
被疑者と目撃者の、証言は一致している。
入室は・・午後8時25分ごろ。
退室は・・午後9時30分前後。
この時点では、間違いなく、
弓削敦子は生きていたことになる。
検死の結果報告によれば、
血液中から、
設楽が被害者に服ませた、
彼女の処方薬である、
精神安定剤の成分が検出されている。
報告書では、
専門家の割り出した、
薬の吸収時間から、逆算したタイムと、
設楽の証言との間に矛盾は・・ない。
この点も、信用できマス」
警部の盃に、
トロっとした極上の日本酒を注ぐ・・里見。




