第二部 取調室
第二部 『サスペンス編』のスタートです。
第二部 『サスペンス編』
脳裏に・・
冴子の白い柔肌が、浮かび上がった。
吸い尽くような・もち肌。
濡れて・かすれた・吐息。
甘い蜜の・香り。
涼を・桃源郷に誘う・精妙な舌戯。
「ドン!!」
机を強か叩く音で、
涼は、
現実へと、引き戻された。
「だから、お前がやったんだろう? 設楽?
このナイフが、動かぬ証拠なんだよ。
お前の指紋が、検出された。
少しは、仏さん━(被害者)━のことも考えてやれや。
あん?
本当のことを、話して、楽になったらどうだ。ん?」
刑事は、ジップロックに入った、
赤い柄の、
葉巻 専用 小型ナイフを、
涼の目の前に、差し示した。
「そのナイフは・・
以前、失くしたものなんです」
「ほーう・・設楽・・」
刑事はグン!と顔を近づけてきた。
(タバコの匂いがキツイ)
「いつ?どこで?失くしたんだね?
正確な日時を言ってくれるか?
頼むよ!」
「・・・・・・」
何度目の質問だろう・・
涼は、思わず、額の汗をぬぐう。
記憶があいまいで、判然としなかった。
取り調べが開始されて、三日目に入った。
二日の時を経て、
どうにか・・
平常心を取り戻せた感じだ。
サウナの休憩室へ、
だしぬけに、
二名の刑事が現れ、有無を言わさずに連行された。
日常とは、
全く異質の場所に隔離されたときの、
驚き!
心細さ!
疎外感!
拠りどころの無さは、
かつて、経験したことのないものだった。
いつも・・
意識の片隅に引っかかっていた、
充分なリラックスを阻害する、緊張感。
内面の奥に埋まっていた、
極小だけれど、
鋭いガラス片のような不安が、具現化されたかのようだ。
取り調べ室では、
同じ内容の質問が、
角度を変えて、
うんざりするほど執拗に、繰り返された。
繰り返し、
繰り返し、
繰り返し、
同じことを訊かれるのだ。
鈍い人間を相手にしているとイライラする。
しかも、
それは、
ある種、
計算された鈍さなのだ。
鈍くて分厚い壁 相手の問答は・・延々と続いた。
・・「いい加減にしてくれ!」
・・「証言を拒否する!」
そう、吐き捨ててやりたかったが、ぐっとこらえた。
冷静さを失ったら、負けなのだ。
刑事の意図するところは、分かっていた。
涼の証言に矛盾はないか?
整合性を、確かめているのだ。
僅かでも、穴を見つければ、
そこから、一気呵成に、攻め落とす。
現在までのところ、
ある一点を除いて・・
知っていることは、
正直に包みかくさず、話してきていた。
曖昧なこと、うろ覚えなことには、
すべて、口をつぐんた。
中途半端な受け答えは、
身を滅ぼしかねない。
自ら発した、ひと言が、
漏らさず証拠として、採用されてしまう、世界なのだ。
誘導尋問には、
極力乗らないように、意志を固めていた。
作成された調書は綿密に、
「査読」と言っていいくらい・・読みこみ、
自分の証言と、
意味合いの違う個所を、
発見した場合は、
妥協せずに、記述の訂正を求めた。
刑事は、凶暴な目でにらみつたり、
机をたたいたり、
稀に、懇願したりしてきたが、
絶対に、譲らず、
訂正のなされるまで、調書にサインはしなかった。
現在のところ、取り調べは、平行線。
根比べの様相を呈してきている。
刑事の狙いも、
今ひとつ・・読めない。
なにか・・ズレを感じるのだ。
世の中の動きは、どうなっているのだろう?
情報が遮断されているので、
まったく、分からない。
不安は増し、いらだちがつのる。
社会との窓口は、
接見の弁護士だけだ。
オーナーが雇ってくれた、
私選弁護人で、
過去に、いくつかの冤罪事件を、
担当し、
解決に導いた経歴を持つ、初老の人物だった。
小柄ながらも、
存在感があり、
信用できそうな人だった。
接見の時間には、
ストレスを吐き出すべく、
取り調べの内容を、こと細かに、聞いてもらった。
弁護士曰く、
「意志を強く持つこと。
安易に、調書に、サインしないこと。
そして・・なにより・・
一貫性を失わないことが、大事です」
重い言葉だった。
目を閉じ、集中を深くする。
葉巻用ナイフを・・
いつ、
どこで、
失くしたのか?
記憶の回路を、探ってみる。
ほぼ毎日、
習慣となっている、葉巻の喫煙。
専用ナイフを失くして、
代わりにカッターナイフを使い、
葉巻の喫い口を切り落としたのは?
そう・・
汐坊の歓迎会を、催した夜だった。
記憶がほころびかけたとき、
「ドン!!」
激しく、机を叩く音が、
取調室に、響き渡った。
ハッ!として、
まぶたを開く。
「こらァ、設楽!
ここは、仮眠室じゃない。
居眠りしたけりゃ、
さっさと、事実を吐きだして、
鉄格子のなかで、寝ろや!」
鉄格子という言葉に、
蔑みのアクセントが付されていた。
いつも、こんな調子で、
リズムを乱され、邪魔される。
取調室で、
自分のペースを保持するには、
相当な精神力を、要する。
刑事は、どうしても、
警察の方の筋書きへ、
こちらを、引きずり込みたいらしい。
早い話、
犯行を認める自供を、欲しているのだ。
故に・・
さまざまな手を使い、
容疑者の平常心を乱しにかかる。
なによりも、腹立たしいのは、
涼のことを、「犯人」だと、
頭から決めてかかっていることだ。
刑事の態度、
言葉の端々に、
それが、ありありとにじみ出ている。
人は、それほど強くない。
ふだんの生活でも、
ほんの些細なことで、動揺を来たす。
取り調べでは、
意図的に、心理の動揺を誘い、
その瞬間をつかまえて、突き崩しにかかる。
動揺している状態というのは、
たとえていえば、
試合中に、ガードを解いてしまったボクサー。
たやすく、パンチを打ち込める。
きわめて、効果のあるパンチを!
簡単に、KOに持っていけるというわけだ。
経験を積んだ、
四十代後半の刑事が、
熟練のテクニックで、
涼の心理を掻き乱し、追いつめてくるのだ。
生半可な忍耐力では・・抗しきれない。
容疑者の、
ちょっとした表情の変化も、見逃さない、
刑事の鍛錬された、ふたつ眼が、
焦点を絞り、
容疑者「設楽 涼」の攻めどころを、緻密に探る。
正攻法では、
落とすのに、時間を要すると判断したのか?
それとも、別の理由からか?
刑事は・・
新手を、織り混ぜて来た。
それは「音」だった。
刑事は、右手の指で、
机の表面を、
ピアノの鍵盤のように叩きだした。
なんとなくヒマな時に、
人が無意識に行う、仕種である。
トン・トン・トトトン♪
トン・トン・トトトン♪
音が響いてくる。
大きな音では、なかった。
涼の表情が・微かに・揺れた。
挫折したとはいえ、
プロのミュージシャンを目指していた涼は、
生来の音感と、
訓練された聴覚を持っている。
音には、非常に、センシティブなのだ。
刑事の刻む音が、
神経に引っかかってくる。
指で机を叩く、音。
そんな些細なことで、
その人の本来持つリズム感が、
涼には、透けて視えてしまう。
この刑事は、音のセンスに、恵まれていない!
「(おい、あんた!リズムをはずすんじゃない!しっかり刻め!)」
加えて、
刑事は湯にでも、浸かっているかのように、
鼻歌を唄い出した。
樵を歌った、有名な演歌だ。
ところどころで、音程を、はずしていた。
胃の底から、
苦い液体が、せりあがってくる。
ガマンならなかった!
涼にとって、
音程をはずすというのは、犯罪に等しい。
刑事の厚かましい表情と相まって、
怒りが、沸々とこみ上がってくる。
全身が小刻みに震える。
やり場のないマイナス感情がふくれ上がってくる。
外部に、はじき出さなくては、精神が持たない!
抑えが ━ き・か・な・い!
ズリッズリッと窮地に追い込まれる。
閉じられていく、脱出口。
・・自制心・・
・・底をつく・・
・・崖っぷち!・・
刑事は相変わらず、
指でリズムを刻み、
鼻歌を唄い、
重たそうな、まぶたの下から、
無表情を装い、
冷然と、
容疑者の涼を・観察している。
「(じれったい、お遊びの時間はそろそろ終わりだ。
さあ、設楽!
本性を見せろ!
見かけに寄らず・血の気が・多いんだってな?
感情を爆発させろよ!
床に這わせてやるぜ!
いっぺん、屈辱を味わうと、
嘘のように、素直になる奴がいるもんだ。
お前は・そのタイプかもしれん!)」
涼の脳髄に深紅のイメージが広がっていく。
ひどく顔が熱い!
血管が膨張して破裂寸前だ。
力をこめて、両手を、机に叩き突けた。
バシン!
すっくと、立ち上がる・涼。
カタン!
音を立てて、椅子が倒れた。
待ってましたとばかりに、身構える刑事!
証言を記録していた刑事も、
即座に警戒棒を持ち、サポート体勢を取った!




