ゴキゲンなひととき
若者は、
キヤップのつばをひょいと持ち上げ・・顔をのぞかせた。
「汐坊さんでしたか!」
「今晩は。
お仕事・・順調のようネ」
「どうして・・分かります?」
「ハチの巣(キーボックス)よ。
まんべんなく、宿泊カードの複写が差さってるじゃない」
「ああ、なるほど」
一階の自動ドアが開いた。
階段をのぼってくる・・音。
外出していたビジネスマンのご帰還だ。
一杯やって、鼻歌まじりの千鳥足。
「403号室!」
カウンターへ寄りかかるようにして、
シャックリまじりに・・お客は言った。
「お帰りなさいませ」
南平は、
正面を向いたまま、いつもの要領で、
素速く、
背後にあるキーボックスに手を伸ばし、
・・お得意のスキルを披露する。
「れれっ!キーがない?」
「はい、403号室ですね。どうぞ!」
一瞬 速くルームキーを抜き取っていた、汐。
キヤップをはずし、
爽やかな笑顔を添えて、
・・お客にキーを渡す。
楠 南平 秘伝 ◆ 『抜刀キーの術』 ◆・・破れたり!!
常連客は・・
汐の顔を覗きこむようにして見ると・・
けげんそうに・・訊ねた。
「あんた、新人さんかい?
どこかで・・見たことあるな?」
「ええ、よく、
アイドルの 『笹森 汐』に 似てるって言われます」
「ドハハハハハハ。
大胆な冗談を言うね。
面白い・・気に入った!」
「おやすみなさいませ」・・会釈する汐。
お客は、
上機嫌で、エレベーターに乗り込んでいった。
「さすがだ!」
リスペクトの眼差しを向ける・・南平。
「懐かしいな・・
涼にいちゃんの横で、手伝っていた頃を思い出す」
「あなたがそばにいれば・・
主任も、さぞ、心強かったことでしょう」
里見が降りて来て、ロビーでパイプと読書をはじめた。
いつもの光景である。
アイコンタクトで・・
誰もいないことを南平に確認した汐は、
勝手知ったる事務室へ・・入っていく
涼兄ィの椅子を移動させて腰かけると、
半開きの扉のかげに隠れ、
ななめ正面に・・向き合うかっこうで
南平と会話をはじめた。
「昔話をひとつ」
人さし指をピッと立てて、汐。
「シングルルームに長期滞在していた、
初老の紳士がいたの。
いつもパリッとしたスーツ姿。
口ヒゲをはやしてね、端正なルックス。
ベストのポケットにはシルバーの懐中時計をのぞかせていた。
その人は、決まって夜になると降りてきて、
ロビーで哲学書を読み始める。
ちようど、あんな感じで」
気づかれないように里見を指さした。
「いったい、なにをしている人だろうね?・・なんて・・
涼にいちゃんと噂話をしていたの。
レジ締めの時間帯でも姿勢をくずさずに、本を読んでいる。
私が早朝ジュースを買いに降りて来た時も、
その人は同じ場所、同じ姿勢で・・
本を読んでいたから、驚いちゃって!」
いったん言葉を切る。
「その人の正体は・・
なんと!『ホテル荒らし』・・ドロボーだったの!」
「ゴホゴホ」
ロビーの人物は、咳きこんだ。
「怪盗紳士という呼び名で、ワイドショーをにぎわしたものよ。
いまだに・・印象に残ってる」
汐は・・頬づえをついて、
自分語りを始めた。
「きょうの休みは、
映画のヒットのご褒美に、
社長から、与えられた貴重なものなの。
想い出の詰まった、
この『設楽』で過ごせるなんて、
もーう、ゴキゲン!」
「TVの収録と、
ラジオドラマの録りが重なると、
切り換えるのはムズカシイ。
雑誌のグラビア撮影なんかも、
イヤなことがあった直後に、
笑顔でポーズを取るという行為は、
仕事とはいえ、けっこうなエネルギーがいる。
ヒステリーを起して、
マネージャーを怒鳴りちらしているアイドルの子もいるくらいだから」
と言うや否や、
だしぬけに、汐チャンネルが切り替わった!
突じょ目を輝かせ、
普段の・・『女の子男の子な表情』・・を打ち破り、
強い表情が飛び出した!
笹森マニアのいわゆる・・『表情のビックリ箱!』・・である。
歓迎会の料理は抜群だったこと、
奥さんの、料理のセンスはさすが・・ちょっとした工夫があるの。
結婚したら、ああいう主婦になりたい。
涼の婚約者の冴子は、
意外にも、話せる女性だったと、
知と感性の深いところから・・言った。
南平の発する、かなりマニアックな質問や、
ギャランティーに関するデリケートな問いかけにも、
フランクに答えてくれた。
ラジオのギャラは、
予想以上に・・安かった。
「へっ?」・・と思わされたのは、
好きな飲み物の第一位は、
オレンジジュースではなく・・紅茶だったことだ。
笹森マニアの定説は、修正されなければ・・ならんぞ!
汐はウインクしながら、
「裏一位は・・断然ビールだけどね。エッへッへ」
目の前のアイドルは・なんとも・細くて、小さい。
実に繊細な印象を、醸していた。
まるで・・『魂を宿した人形』・・のようだ。
同じ種の・人間とは・思えない。
少女のような、
少年のような、
不思議な存在感。
「汐坊」とは、
言い得て・・絶妙!
座布団一枚ものの・・ニックネームである。
憧れのアイドルとふたりきり。
夢のような・・気分だ。
その上、
メールアドレスの交換の栄誉にも浴した。
まるで、映画の主人公になったような気持ちだ。
ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!
内なる笑いが止まらない。
しかし・・
夢とは・・儚く・・破れるもの。
耳に覚えのある足音が、勢いよく近づいてきた。
「(主任だ!)」
・・ガッカリである・・




