高いハードル
9月中旬のある深夜・・
乙骨は、
ラジオ局のスタジオでひとり、
ウイスキーグラスを片手に・・黙考していた。
P の頭の中を巡っているのは、
偶数月である、
来月に実施される、
レイティング《聴取率調査週間》に放送予定のラジオドラマのことであった。
デスクの上に置かれている古びた文庫本を手に取り、パラパラとめくる。
厚めの、その文庫本は、
手アカにまみれ、付箋と書き込みだらけであった。
『火の接吻』(1953)
寡作家・・コーネル・レヴィンの、
23歳時の処女作にして、ミステリー史上に輝く傑作。
幾何学レヴェルの緻密な構成、
驚異の伏線回収力、
そして、巧みなサスペンス醸成は、
間然とするところが (一か所を除けば) なく、
ため息が出るほど、見事な出来栄えを示していた。
発表と同時に古典となった、希有な作品である。
小説は、三部構成になっていた。
□内容□
第一部は、
貧しい大学生である犯人の側から、犯行が描かれる。
いわゆる・・倒叙形式・・『刑事コロンボ』スタイル。
次いで・・第二部は、
被害者の弟による・・犯人探し。
第三部では、
ついに姿を現した犯人と、
復讐を誓った・・
(被害者二人の)長兄との対決!
あっ!!と言わせる仕掛けは・・
第一部にある。
倒叙形式で
綿密に描写されているにもかかわらず、
犯人の正体が・・不明な・・ところだ。
犯人は、徹頭徹尾、
『彼女』という、
三人称で描かれており、
読者には、
犯人=ブロンドの美人女学生 としか、
手がかりは与えられない。
倒叙形式にして=犯人探しという、
・・離れ業を成立させた・・
画期的なミステリーなのである。
第二部では、
次男である兄の死に、疑問を持った弟が、
次男の在籍していた大学へ編入して、
兄がくれた手紙に記された・・一文。
━『GFは、ブロンドの美人女学生』━を、
唯一の手がかりに、犯人探しに乗り出す。
しかし・・兄のクラスには、
ブロンドの美人女学生が 『二人』 いたのである。
どちらが ━『兄を殺めた 真犯人』━ なのか?
それぞれ個別にコンタクトを取り、
探りを入れていく・・探偵役の弟。
しかし・・弟もまた、
犯人の奸計によって、抹殺されてしまう。
そして・・真犯人の、ブロンド女学生は、
財産家の家系である、最後の砦。
三兄弟の長男へ・・接近を開始する。
□ □
乙骨自身、取り立ててミステリー小説に思い入れは、ない。
ミステリーの持つ、作り物感が、
どうにも、性に合わなかった。
ただし・・いくつかの短編と、
以前、ドラマ化した『幻影の女』、
そして・・この・・『火の接吻』だけは例外だった。
中学1年の夏休みのときに受けた、
落雷のようなインパクトは、いまも鮮明だ。
読書の幸福を実感したものだ。
乙骨は、
真犯人である・・
『ブロンドの美人女学生』を
汐坊に、演じさせてみたかった。
映画の大ヒットで、いささか天狗になっている、
十七歳のDJアイドルへのゲンコツの意味合いも含まれていた。
ハードルは高い!
なんせ、
二人のブロンド女学生を、演じ分けなければならないのだ。
このミステリーの眼目である、
「いったい、どっちのブロンド女子学生が真犯人なのだろう?」の、
サスペンスは
リスナーを釘付けにする、声の技量が必要だ。
二人のブロンド女子学生の、
━〈似たようなで声質でありながらも、微妙に違う感じの表現〉━
細密な演技設計も、
右脳と左脳の絶妙きわまる、
信号のやり取りが不可欠とされるだろう。
十七歳の汐坊には・・荷が勝ちすぎるかもしれん!?
そもそも・・
汐坊は、
計算には、
ほとんど頼らずに、
感性で役作りをして、
ツボを撃ち抜いてしまえる、
直観型・・天性の女優・・であった。
だが・・
今回ばかりは、そうはいかんだろう。
腕組みをして熟考する・・乙骨P。
五分経過。
短い着信音♪がして、
乙骨のPCに圧縮メールが届いた。
メールを開く。
送信者は・・
『哉カナ☆』の脚本家チーム。
圧縮メールの中身は、
『火の接吻』ラジオドラマ用の、完成台本であった。




