中邑冴子
「ど━うして? ど━━うして? ど━うして?」
なだめること三十分・・
ようやく、
部屋へ引き取ってくれた。
息をついて、
椅子に、へたりこむ南平。
「おはよう!楠くん。調子はどうかね?」
出勤してきた、
設楽主任が声をかけた。
「おはようございます。
どうもこうもありませんよ。
ご覧のありさまです。
たった、いま、受難という名の洗礼が終わったところです。
本日・・
二件のクレームが入りました。
『弓削さんが、
七階の廊下を意味なくウロついているので、
気味が悪いから、注意してほしい』と。
同階の、
セキュリティキャメラの、
録画映像をチェックしてみたら、
暗い画面に、
そろりそろり歩く、
彼女の姿が映っていました」
ひと息ついて、
弓削さんネタを続ける。
「そのうえ・・彼女、
妄想の方もエスカレートしているようで、
『わたくしをストーキングしている人物です』と、
絵を描いて、
持ってくる始末です。
なんとかしてほしいものですね!
ほら・・この奇妙な絵。
まるで、エッシャーの『解逅』の抽象版。
ノーマルな感覚じゃあ、ありません!」
お手上げだとばかりに、
スケッチ画を渡す。
涼は、チラッと絵に目を落とし、
次いで、
心乱れた南平を見る。
「そいつは大変だったな。
しかし・・部屋代の支払いは、
申し分のない顧客だ。
クレームの件は、オレの方で処理しておくから、
長い目で見てやってくれや」
「ビジネスホテルの・・
長期滞在客というのは、要注意です。
確かに彼女、支払いの方はしっかりしていますが、
遠からず問題を起こしそうな気がしてなりません。
こういう事は、
あまり、言いたくありませんけど、
弓削さんは、
精神科のクリニックに通っています。
あのヒステリーが昂じて、
問題を起こす可能性が、
ないとは・・いえません。
なにか、適当な理由をつけて、チェックアウトしてもらいましょうよ!
胸騒ぎがするんです。
ねぇ、主任?」
「それは、断じて、できん!!
単なる偏見で、
チェックアウトさせるなんて、とんでもない話だ。
サービス業の基本精神を忘れてはいかん!
それにだ、
この絵の人物を、
実際に見た可能性だってあるだろう?」
「ジョークで流さないで下さいよ。
問題が起こってからじゃあ、遅いんですよ!」
「その時は・・その時さ!」
設楽主任は、
弓削画伯の絵を手にして、
左側の耳たぶを撫でながら、
事務室へ入っていった。
「まったく!
変に、のんきなとこがあるんだから・・主任は!」
週明けの、水曜日。
きょうは、
涼の公休日である。
勤務スケジュールの都合上、
固定ではないけれど、
週一の割合で、休みを取っている。
今宵は、
西銀座のレストランで、
夜景を見ながら、
婚約者と食事をしていた。
・・・・・・・・・・・・
中邑冴子との出合いは、
ホテルの幹部クラスを対象にした、
研修会の場であった。
研修は、グループ別に分かれ、
与えられた課題をこなしていくスタイルで行われた。
涼は、
冴子と同じグループに配された。
熱心に課題に取り組む、
冴子の真摯な姿とバイタリティー、
プラスして・・美貌は、
グループの求心力となった。
ふたりは、
たがいに、魅かれあい、
急接近・・デートへと。
まるでレールでも敷かれているかのように、
すんなり、
事は運んでいった。
ふたりは・・互いに
目には視えない━「縁」━というものを、
強く意識した。
二五歳の冴子は、
京都の老舗旅館の末っ子である。
都内の一流ホテルに、
勤務しており、
フロントマネージャーの役職にある。
仕事ができると、
評判の女性だった。
冴子の外見の特徴は、
そのコントラストにあった。
身長158センチ。
小さな顔に、大きな瞳。
小柄だが、ボディはハチ切れそう。
セックスアピールは抜群であった。
女性の女性たるパーツを、
さりげなく強調する服を、着こなしている。
明るさを演出するため、
ボブカットの髪を、
一部、ブラウンに染めていた。
鈴木サユリしかり。
女性というのは、
皆、程度の差こそあれ、
女優であり演出家だと、涼は思った。
ハッキリとした性格で、
決断力にも優れ、
リーダー向きといえる。
年下の男性にモテそうなタイプである。
リードしてくれる素敵なお姉さん、
・・そんな印象を醸していた。
ふだんは、
パーフェクトに近い標準語をあやつる冴子であるけれど、
リラックスすると・・・言葉の端々に、
はんなりした関西弁が、
顔をのぞかせた。
酔いが回ってくると、
はっきりした輪郭を持つ表情が、
別人のように、
とろんとしてくる。
ふだんとのギャップは、
なんとも愉快であり、
・・好もしかった。
彼女の話す関西言葉
「~してくれはる」が、
ややハスキーがかった濡れた声に乗って、
とても柔らかい感触をもたらす。
上質のクッションのような・・
心地好さに、包まれる・・涼であった。
レストランの窓際の席で、
ワインを飲み、
料理を口に運ぶ。
いまの・・今、
冴子と時間を共有することによって、
涼の
内部に付きまとって、
いつも離れてくれない、
心の奥底に巣食っている緊張感も、
眠りについていた。
こういう層のリラックスもあるのだなあ・・と・・思う。
キツめのメイクを施した、
冴子の顔は、ピンクに染まっていた。
「このあいだプレゼントした葉巻、喫ってくれはった?
涼さんの誕生日だから、奮発しちやった。
NBAのスーパースターも愛煙している、キューバ産の銘柄や!」
「お返しの品に、頭をヒネらさせられそうだ」
鼻の横を、
軽く掻きながら、涼。
空になった涼のグラスに、
ワインを注ぐ冴子。
注がれたワインを口に運ぼうと、
グラスを、手にしたとき、
涼は、
首すじに、
冷たいものを・・感じた。
「はっ!?」
コトン!!
倒れるグラス。




