ホワイトラビット
━○━○━
かつて、笹森汐は、
おでんの屋台を引いている、
母親とふたり、
ビジネスホテル『設楽』のシングルルームに、
数年間の、
長きにわたって滞在していた。
控え目でありながらも、
生来の魅力でもって、
ホテルの従業員たちに、
好まれていた・・汐。
人懐っこいタイプではない彼女は、
どこか・・遠慮がちに、
アプローチしてきては、
いつの間にか人の心をとらえてしまう。
出しゃばらず、
控えめすぎず、
絶妙な対人バランスは、
天性のものであった。
当初、
従業員のあいだでは、
「水商売の子」という、
ありがたくない陰の呼び名が、
大勢を占めていたが、
いつの間にか、
親愛と敬意のこもった、
「汐坊」へと、
変化していった。
学校が終わり、
ホテルに帰ってくると、
汐は、
清掃のおばちゃんの仕事を、
ベッドメイクや客室清掃を
(時には トイレも)手伝った。
朝食サービスの、
時間帯には、
登校時間ギリギリまで、
喫茶室で、
奥さん(涼の母)をヘルプ。
小さなウエイトレスとして活躍した。
その頭の回転の速さと、
ツボを押さえた働きぶりは、
見る者を、
感心させずには おかなかった。
なによりも、
汐の働きぶりには、
一生懸命さが溢れていた。
その光芒が、
テクニックの部分を覆い隠してしまう。
お茶の時間に、
休憩室で、
清掃のおばちゃん達にまじり、
和気あいあい、
お菓子やケーキを、
美味しそうに食べる姿は、
忘れようにも・・忘れられない。
フロント主任の、
脳裏に強く焼きついていた。
そんな汐が、
熱いまなざしを、
注ぐ対象が、
家業を継ぐために、
フロントで働きだした、若き日の涼であった。
当時はまだ、
大学を(二度留年して)出たばかり。
長髪で、
クールな印象の若者だった。
フロントに、
涼が入る日は、
ウレしくて、
自分をおさえきれない 汐であった。
━「なんとか、笹森汐を印象づけたい」━
生まれて初めて、
積極的なアプローチを仕掛けた。
・・子供なりに・・
頭を絞って作戦を練った。
作戦コード・・『ホワイトラビット』
極秘内容は、
以下の通り。
『フロント業務を手伝うべし!
ただし・・汐の流儀で』
至って、
至って、
シンプルであった。
ビジネスホテル『設楽』・・
フロント上陸作戦準備開始!
たった一人で、
戦闘配備につく、汐。
PM8:00━作戦敢行!
フロント正面に立ち、
軽く会釈して、
ちょこまかと、フロント横に回り、スイングドアを通り、
フロントの内側へ潜入。
邪魔にならないところに、
自分の居場所を確保。
真横から・・
上目使いに・・
設楽涼を・・見上げる。
彼の方は、
となりにいる、
汐の存在を、
とくに気にしている風はない
とはいえ・・
(微量ではあるが)、
警戒オーラを発していた。
軽い会釈を、
初対面の汐にくれると、
椅子に腰かけ、
難しそうな内容の、
文庫本を読みはじめた。
チェックイン客が、階段をのぼって来た。
汐は、
集中を高め、
・・同時に・・
肩の力を抜く。
涼の動きを・・真剣に読む。
チェックイン手続きの、
効率を高めるべく、
頭をフル回転させて、
ヘルプに動いた。
涼が、
チェックインシートと記入用のペンを、
お客に差し出せば、
汐は、
背後のハチの巣、
(コゲ茶色のキーボックス)から、
ルームキーをサッと抜き取って・・用意。
涼が、
「失礼いたします」と言って、
接客中に、
電話の応対に入れば、
汐は、
すぐさまバトンタッチ!
接客を受け持った。
・・その際・・
レジや現金には一切手を触れない。
汐の行動は的確なうえ、
テンポが速く、
なおかつ、
不快な感じを与えなかった。
息の合ったコンビネーションで、
二人は、
リズミカルにお客をさばいていった。
涼の雰囲気から、
警戒感は薄れ、
幾分かの、
親密オーラが発せられるのを、
見逃す汐では・・なかった。
間髪を入れず、
相手の扉をこじ開けようと、
ダメを押した。
涼が、
チェクイン手続きのときに、
見せる動作を、
コピーし、
相似形のロボット調で、
コミカルかつシャープに繰り出してみせたのだ。
対象者の特徴を、
見事につかんでおり、
デフォルメのサジ加減も申しぶんなかった。
汐の持つ、
生来のタレントぶりが、
いかんなく、
発揮された瞬間であった。
思わず、
涼の目が、
点になる。
ふだん・・
クールな涼の表情に、
亀裂が走った。
両手の平で、
自分の顔を押さえこむと、
こらえきれずに・・吹き出してしまった。
笑い声が、
どんどん大きくなっていく。
どうにも・・止まらない。
そのようすを見ていた、
チェックイン客も、
つられてしまい・・爆笑した。
汐の思いきった、
アプローチは、
功を奏したようだ。
その証拠に、
涼は、
フロント内に、
汐専用の、
新品の椅子を、
(パイプ椅子ではない)
用意してくれたのだから。
作戦完了。
『ホワイトラビット』成功!
戦果は上々!
歓喜!
「なるほど・・うわさ通りの子だなあ」
ファーストコンタクトを、
果たした涼の、
率直な感想であった。
この日をさかいに
「涼にいちゃん」と ━ 汐が呼び。
小さな相棒を ━ 「汐坊」と、
涼が呼ぶ、
関係が、
確立されたのであった。