第38話 夜月の下にて
外に出ると夜の空気がライムを出迎えた。グレンはもう真っ暗だと言っていたが、月の明かりによって真の闇とは言えはしない。
この世界の月の数は一つではなく、複数存在している。月と呼ばれている天体は六つある。
今、空に見えている月の数は四つ。一月周期の双子の赤月。七日周期の白月。一年周期の縞月。一日周期の小さな月である夜月だ。
今、見えていない月は、二月周期の二つ月の青月と、赤月とは決して同じ空には浮かばない一月周期の双子の黄月だ。
ライムが空を見上げて位置を確認する月は夜月だ。白っぽい一番小さな月だが、この世界の人々にとって、夜に時刻を知るためにもっとも頼りにする天体だ。
なにせ毎日、日が沈む頃に東の地平線から顔を出し、日が昇る頃に西の地平線に姿を消す。この世界の人々にとって時刻を知る方法は、昼には太陽を、夜には夜月の位置を確認する事だ。
そのため夜月は時計月とも呼ばれている。
夜月は東の空の低い位置にある。つまり、まだ日が沈んで間もないということだ。
「真夜中までには帰れるかな?」
ライムはつぶやき、森へと歩き出す。家の近くから森になっているので、すぐに森の中には入れる。
月の明かりが届いていた家の周りとは異なり森の中は鬱蒼とした木々の陰に光は遮られ、非常に暗くなっている。人間であれば明かりも無しに歩くことは困難だろう。
けれど、ライムにとっては十分な明るさだ。単純に夜目が利くという事ではなく、可視光線以外も見えているようだと、ライムは自分の知覚能力を推測していた。
そのため、森の中を奥に向かって歩くライムの足取りは軽やかなものだった。
ある程度、森の中を進むと、ライムは周囲を見回し、人の姿がないことを確認する。
「よし……。行こう……!」
覚悟を決め人への擬態スキルを解除する。
とたんにライムは人の姿を失い巨大なスライムへと変化した。
人の姿を失う事に強い拒否感を覚えてしまう。けれど、狩りのために泥水を全身に浴びるようなものだと思えば我慢ができる。
スライムの体を蛇のように細長くさせると、蛇のようにするすると木を登る。
これから先はいつも通りの狩りとなった。
ライムにとってのいつもの狩りとは、音もなく樹上を伝い進み、獲物となる動物を見つけると、正確無比な投石で仕留める。
今回の狩りで仕留めた獲物の数は二頭だ。
イノシシとシカが一頭ずつ。イノシシを仕留める事には何の問題もなかった。
しかしシカ相手には、攻撃を仕掛けるまでに覚悟を決める時間が必要だった。
一度は別の獲物に変えようとも思ったほどだ。それでもフリーズホーンか否かの確認を行ったと後に狩りを行う事ができた。
結果として、シカの方も何の問題もなく仕留める事ができた。
二頭の獲物のほぼ全身を食らった事で、ライムはようやく空腹から逃れた気分を味わった。
わずかでも食事を取れば、空腹を誤魔化す事ができるとは言っても所詮は誤魔化しにすぎないということだろう。
ライムには一つの懸念を懐く。もし、これほどの量を食べて来たということを知られれば、嫌悪を抱かれないとかいう不安だ。
けれど同時に、この事を知られる事すらも今更な事だと、半ば開き直った思いも懐く。
今回は獲物のほぼ全身を食べたが、お土産用に残した部位もあった。
お土産としたのは、イノシシとシカの毛皮。それとシカのサーロイン肉とヒレ肉だ。
獲物の胸に尖らせた触手を突き入れて、毛皮以外の内側の肉を消化吸収する事で綺麗な毛皮だけを残した。
食事の仕方としては丸呑みの方が楽なのだが、お土産を残す方法としてはこれが一番楽な方法だ。
お肉のお土産は、さすがにそのやり方ではマズいだろうと思い、先に周辺の肉ごと残す形で消化し、その後に刃物へと変化させた手でその肉の表面を切り取った。
後でもう一回、肉の表面を包丁で削りとったほうが良いだろうとライムは思った。
ちなみにサーロイン肉とヒレ肉は共に腰部の脊椎骨の上下に付いている肉の事だ。ゆえにその辺りの肉を脊椎ごとサッグリと切り取った。
次に狩りに来る時は解体用のナイフを持ってこようと決める。
イノシシとシカの毛皮。それにシカの肉を包んでお土産に拵えると、ライムはそれを抱えて村へと向かう。
ライムの姿は食事を終えた時点で、人の姿に戻している。必要も無いのに、人の姿を失っていたくはない。
実利的な面から言えば、狩りが終わった後にすぐに人の姿に戻しても良かったのだが、人の姿で獲物の丸呑みは、流石にダメだろうと自重した。
木々の隙間から見える時計月の位置を確認すると、高い位置に移動していたが、まだ東の空にあった。まだ深夜には入っていない。
もう少し時間が掛かるかと思っていたのだが、想像以上に時間がかからなかった。
狩りに必要とする時間は、ほとんどが獲物を探す事だ。
しかし、夜の時間でかつ、蛇の姿をとったライムに警戒する獲物はほとんどいない。それ以前にライムの気配に気がつく獲物すら珍しい。
気配を察知されて逃げられることがないので、捜索に時間がかからないのだ。
そして次に時間と手間が掛かるのが解体作業だ。ライムにとっては食事を兼ねた解体作業にまた時間がかかる行為ではない。
このまま真っ直ぐ家に帰る事も考える。
だがそこでライムは、一つの事を思い付く。
早く狩りが終わった分、少し位なら遅くなっても大丈夫だろう。
これから少し寄り道して、思いついた事を実行しても、師匠とアリティアにバレることは無いだろうか?
もう一度夜月の位置を確認して、大丈夫だろうと頷く。そう、決めるとライムは走りだす。
できるだけ音を立てないように闇に沈む夜の森を駆ける事は傍から見たら異常の一言だった。だが目撃者は居らず、また当人も気にすることもなかった。
やがてライムは目的地にたどり着く。十数分をほぼ人が全力で走る速さで走り続けたにもかかわらすライムは息を切らすこともない。
そもそもライムの呼吸は飾りに過ぎない。人の姿にとっているだけで、スライムの体は呼吸を必要とはしていないのだ。
それにこの走る速度が、ライムの全速力というわけでもない。全速力で走ろうとすれば、あと五割増しの速度は余裕でいけるだろう。
ライムがたどり着いた場所は、昼にやって来たカイロスの木の切り株がある広場だ。
森の中から広場に出る手前でライムは立ち止まり、近くの木の根本にお土産を置いた。
そしてもう一つ、ライムには広場に出る前にするべきことがあった。それは己の姿をアリティアの姿から変化させることだ。
これから行う事を目撃されて、それがライムだとバレてしてしまえば大問題だ。
この変化は、もしも姿を見られた時のための対策だ。
一言で言ってしまえば変装。ただそれだけなのだが、ライムの変装はカツラをかぶるようなちゃちなモノとは桁が違う。
まずは前髪を伸ばして、顔を隠す。
アリティアの髪にクセというものがない。ひいてはアリティアの姿に似せているライムの髪にもクセというものがない。なので、強いウェーブをかけた髪型へと変化させる。
また後ろ髪の方も、髪の長さで印象が変わるように、前髪と同様に膝の辺りまで伸ばす。
髪の色自体も、濃い赤へと変化させた。黒はライムの髪色であり、金はアリティアの髪色だ。見られた時の印象を変えるために同じ髪色は選択肢にはない。
濃い赤を選んだのは、闇夜に紛れる為に明るい髪色も選べないためだった。
そう考えると白い肌も、闇夜の中では浮かび上がるように目立ってしまう。肌の色も黒に近い褐色へと変化させる。
そして同時に緑色の服も取りあえず真っ黒へと変化させておく。
これで闇夜に溶け込む姿になれただろうかと、手を伸ばし、己の手から自分の姿を確認する。
こんなことができるのはライムの体がスライムのそれであり、スライムの体は全身が知覚器官であるからだ。
と、そこで一つだけ目立つ色が残っていることに気がついた。
ライムの薄緑色の両目だけが、闇夜と波打つ濃い赤髪の隙間から浮かび上がっている。
これはいけないと、一つまばたき。
次に目を見開いた時には、黒い瞳へと変化していた。
再び自分の体を見回し、闇夜に溶け込んでいることを確認する。
遠目で見れば赤黒い小さな人影にしか見えないだろう。万が一見られたとしても、ライムとの関係を疑う者は居ないだろう。
もし、心底ライムである事がバレたくないというのならば、人の姿を完全に無くしてしまえば良い話だ。
それでも変装の範疇に収めて人の姿からあまり離れないのは、ライム自身の感情的な問題が大きい。
人の姿から大きく離れたくないという事だ。
この変装とも言える変化をしている理由は、擬態(人)のスキルではアリティアの姿から離れた姿は不可能だからだ。
つまり、顔立ちを変えることは無理なのだ。
しかし髪や服を含めた体表面の色の変化は、色の擬態スキルの範疇に収まる。
また髪の長さとクセの変化は、擬態(人)のスキルの微調整の範囲内にある。アリティアに髪型を弄くられて、無茶なリクエストに応えてきた結果として判明した事だ。
それでいて顔を変化させる微調整は不可能だった。スキルが何処まで融通が利くのかよくわかってはいない。
そして森から出る前に、広場に人の姿が無いかを確認する。昼にも無かった人の姿は、当然のように見あたらない。
それでもライムは警戒を怠らない。
これほど人に見られる事の警戒をしなければならないのならば、一番良いのは村から離れた場所で行うことだ。しかし、これから行う事には開けた場所が必要で、丁度良く開けた場所など、ここ以外に思い当たらなかったのだ。
周囲の確認を行いながら、広場となっている場所の一番高い場所へ歩いて行く。
人の姿は無い。
この時間にここへとやって来るような人間など居ないと言う事だ。村の人たちは皆朝が早く、夜は自然とすぐに寝てしまうのだろう。
村の方へ視線を向けると教会の屋根の先端が見えた。だが、地球の観光地の様なライトアップなど無く闇に沈んでいる。
ライムは広場の高い場所から改めて広場を見下ろした。緩やかな下り坂となった草の平地が見て取れる。
思いっ切り走っても、足を取られるような事は無さそうだと目視で確認する。
「よし、ここなら練習するには最適だな」
ライムは両手を広げ、さらなる変化を行った。
速やかにその腕は巨大な翼へと変わっていく。昼間、アリティアにも見せた黒と白の二色の羽に包まれた翼だ。
けれどこの翼の白い部分が闇夜では目立つ。
バサリと翼を一振り。
黒と白の二色だった翼は、それだけで全体が漆黒の翼へと変化した。
ライムは軽く羽ばたく。
バサリバサリと風を起こす。
いけるだろうか。と不安に思う。
けれど、試してみれば分かることだ。
ライムは意を決して走り出す。緩やかな下り坂を全速力で走る。
大きく広げた翼に風をはらむ。
体を上へと引っ張る力が生まれ、ライムは地面を強く蹴った。
ふわりと体は浮き上がり――再び地面に足がついてしまう。
「くっ……!」
また地面を蹴る。今度はその際に大きく羽ばたく。
体が浮き上がる!
そう思った次の瞬間。失速しバランスを崩した。
「うわぁっ?!」
地面に足をつくこともできずに、頭から前転をするように地面を転がる。
数回の回転の後に、勢いを失ったライムは地面に大の字で仰向けになる事でようやく止まった。
「ダメだ……。飛べない……」
そのまま空を見上げる。地球ではない星座の瞬く星空だ。
「いや、これは始めからわかっていた事だ」
前に一度、空を飛べないかと試した時がある。
完全な鳥の姿となり、全力で羽ばたいてみたが、空を飛ぶ事はできなかった。原因としては体が重かったからだろう。
見た目の大きさに相応しい重さに自分の体重を調整できるスキルがあろうと、鳥というのは体の構造自体が空を飛ぶために軽くなるようにできている。
鳥というのは見た目以上に体が軽いのだ。
それゆえ、見た目が鳥になったとしても、空を飛べる程に体が軽くなるわけでもないし、羽ばたいて空を飛ぶ推力が得られるわけでもない。
完全な鳥の姿になったとしても、また、今の様に腕に巨大な翼を生やした姿になったとしても、所詮それは、鳥の姿に擬態しているに過ぎないという事だ。
空を飛ぼうというならば、今は完全な鳥の姿の時よりもさらに条件が悪い。
ひとの姿に翼を生やした事で、その時よりも体重が重い。たとえ人の体に見合った大きさの翼だとしても、条件の悪さは変わらない。
それらの事は始めからわかっていた事だ。
ライムは上体を起こし、立ち上がる。
派手に地面を転がったが怪我はない。
そもそもライムの体は打撲で怪我をするような、ヤワな体ではない。
下り坂の先を見ると広場となっている場所は残り少ない。諦めてスタート地点へと歩いて戻る。
そして再び空への挑戦を行う。
何度も地面を転がり、時には無理に走り続けた結果、先にある木に衝突したりもした。
結局その日、空を飛べることは無かった。
時計月が南の空に差し掛かる頃――おおよそ深夜の時刻に切り上げる事を決めた。
また今度、挑戦することを己に誓って、お土産を忘れずに回収してからその場を後にする。
空を飛べるようになるには、まだまだ時間が掛かりそうだとライムは思った。
ちなみに、空を飛ぶ事への挑戦を誰かに教えるつもりなどなかった。空を飛べるようになるまで、誰にも内緒で挑戦し続けるとライムは決意していた。
――だって、恥ずかしいではないか。共に空を飛ぶという、戯れ言のような約束を本気で実現させようとしているなんて。
余談だが、家に帰った時にグレンから随分と早い帰りだなとの言葉を頂いた。
カイロスの木の広場へと寄り道をしていたにもかかわらず、そう言われてしまい、ライムとしては反応に困ってしまった。




