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本の仲介所

作者: kuroto

夏らしい夕日の日差しに照らされ、室内はオレンジ色に染まった。その中にたたずむ少年、御雲栄人は目の前に並ぶほんの背表紙を撫でる。流れるように背表紙を這う指は、ある一冊の本のところで止まった。栄人はそっとその本を取り出し、見つめる。そうして色あせた古い本をゆっくりと捲った。

「直せたらいいんだけど・・・」

パラパラと捲った本を閉じ、寂しそうに本を眺める。

この時代において、本というのはその大半が電子書籍となっている。授業で使う教科書も、ノートも、紙そのものが消えつつあり、それに伴い以前はあった紙媒体の本を修理してくれる場所も、その需要のなさから激減し、修理できる人間も少なくなったと聞く。手にした本は栄人にとって大切な思い出の詰まった本であり、できれば直したいと思うが修理をしている場所に心当たりもない。だからずっと崩れそうなこの本を丁寧に保管しているだけにとどまっている。パタリと本を閉じ、栄人は本が壊れないようにそっと元の位置に戻した。

 いつも通り大学へ行き、いつも通り日常を過ごすとあっという間に夕方になった。今日は午後も授業で埋まっており、終わったと同時にカバンを手にした。すれ違う中で数人に声をかけられたが、その声に歩きながら返事を返して駐輪場へ向かう。通学に使っている自転車にまたがり、空を見上げた。天気もいいし、まだ帰るには早い時刻なので少し町を散策してから帰ろうと決め、ペダルに足をかけて踏み込んだ。

適当に道を走り、風を感じながら流れていく景色を見る。その風景が馴染みのないものに変わった頃、ブレーキをかけ足を止めた。いつの間にやら自分の知る道からずれてしまったようだ。栄人は息を吐きながら辺りを見回す。この町に来て数年経つが、まだ自分の知らない場所があるのかと少し気分が高揚した。きょろりと辺りを見ていた栄人の目がある一点で止まる。そこには自転車が通れるほどの路地があった。一度気になってしまえば浮上した好奇心が満たされるまで行動するのが常だった栄人は、湧き上がったそれに従って路地を進んでいく。すると目の前に今時珍しい年季の入った木造の建物が視界に入ってきた。

「こんな建物、まだ残っていたのか」

ほとんどコンクリートなどで出来た建物しか見たことのなかった栄人にとって目の前にある建物はもの珍しく興味が沸いてきたため、近くまで行き外観をじっと見つめた。どのくらいそうしていたのだろう、目に焼き付けるように建物の前をうろうろしていると

「こんにちは。もしかしてお客さん?」

背後から響いた声に驚いて肩を跳ねさせた。振り返るとそこには笑顔を浮かべた青年が立っていた。手には紙袋を1つ提げている。

「え・・・あ、はい」

咄嗟に頷いてしまった自分に、何で頷いたのだと心の中で突っ込みながらオロオロしていると、青年はポケットから鍵を取り出し

「今開けるから少し待っていてね」

と言い、扉に鍵を差し込んだ。これもカードキーやオートロックといったものが多数を占める中、実際に目にすることは少なかったため栄人は珍しそうに見ていた。ガチャリと音を立てて扉が開くと、どうぞと一声かけてから青年は中に入っていった。栄人も彼の後に続き扉を閉める。先に入った青年は手に持っていた紙袋をそっとカウンターのような場所に置き、ゆっくりと栄人に向き直った。

「それで、今日はどのようなご用でしょうか?」

そう問われた栄人はここがどんな店なのか(そもそも店だとは思いもしなかったが)知らぬまま頷いてしまったことを思い出した。

「あ、えっと・・・」

何を言えばいいのか、ぱくぱくと口を開いている栄人に青年が首を傾げる。もう、そのままのことを話そう。そう決意した栄人は、ここに迷い込んだこと、この建物が店だと知らなかったこと、勢いのまま頷いてしまったことを話した。全てを話し終え青年を見ると、彼は虚を突かれたような顔をし、次の瞬間ふっと笑って

「そうだったのか。ここは古書店兼本の仲介所もやっているんだよ」

と、ここが何の店であるかを話しはじめた。

古書店という言葉に改めて周りを見れば、壁一面の本棚には見たこともないほどの本がところせましと並んでおり、壁だけではなく床に備え付けられた本棚にも本が並べられていた。紙媒体の本が減っている今、この場所に多くの本が残っていたことに衝撃を覚えながらも、後半に言われた仲介という言葉が気に掛かり

「仲介所ですか?」と青年に問う。

「そう。ここ数年の電子書籍の急増で紙媒体の本が減り、その本を直すことを仕事にしている人が少なくなっているのは知っているだろう?ここは、本を直したいと考えている人に直してもらえる場所を紹介することもしているんだ」

修理を承っている人たちのことを少しだけ説明すると、彼らは装飾を直したり、汚れや古くなって読むのが難しくなった本を元の状態に戻したり読めるようにしたりすることを職としている人たちのことを指す。

その説明に頷きながら、はっとして栄人は青年の顔を見た。

「あの、それって僕でも頼むことできますか?」

勢いよく顔を上げて聞けば、彼はこくりと頷いた。

「できるよ。それがオレの仕事でもあるから」

彼の返事を聞いて栄人は今朝見ていた本のことを思い出す。

「あの、一冊見てもらいたい本があるんですけど」

そう切り出すと青年は頷く。

「すぐ戻ってくるので、本取ってきます」

あいにくといつも持ち歩いているわけではないので、そう言い残すと店の扉から外に出た。すぐそばに止めてあった自転車に飛び乗り自宅を目指す。大切にしていた本が直るかもしれないという期待を胸に、力強くペダルを踏んだ。

 家に着き、自室から本を持ってくると急いで元来た道を戻る。ちゃんと店までたどり着くことができるのかが不安だったが、無事に着くことができ、店の扉に手をかけた。カウンターに目をやるが青年の姿はなく、辺りを見ていると

「たくさんあるだろう?ここの本はそのほとんどが人から譲り受けたものなんだよ」

ひょっこりと本棚の間から顔を出した青年がそう言った。

「全部ですか」

「どうしても手放さなければならなくなった人とか、他にも様々な事情を抱えた人たちが本を求めている人にって持ってくるんだ」

「そうなんですか」

棚に並ぶ本を見てから栄人は自分のカバンへと視線を移す。この本も自分の手に渡っていなかったらここに並んでいたのだろうか、そんなことを思いながら中から一冊の本を取り出した。

「この本なんですけど」

そう言いながら青年に見せると、彼は失礼しますと本を手に取った。

「いろいろ、思い出が詰まっているので直せたらなとは思うんですが」

ところどころ汚れていたり、表紙がよれていたり、珍しく糸で綴られた本でもあることから糸が解れていたりする本を見ながら言う。

「大切にしていたんだね」

「はい。初めて自分で買った本なんです。だからそれだけ思い入れがあって」

その本は自分が初めて親からお小遣いを貰い、初めて一人で出かけ、初めて手にした本だった。貰ったお小遣いを何に使おうかと町を歩く中、本を売り歩いているおばあさんと出会い、台車に並んだ本の中で唯一目を引いて気に入った一冊がこの本だった。そんなたくさんの初めてが詰まった本だからこそ、大切にしてきた。青年の言葉をドキドキしながら待っているとカウンターの上にそっと置き

「大丈夫ですよ、お預かりしますね」

にこりと笑ってそう告げられ栄人はほっと胸を撫で下ろした。もろもろの手続きを終えて、後日こちらに連絡が来ることになり、栄人は店を後にした。

 連絡が来たのは一週間後だった。目の前に差し出された袋を手に取り、中を見て本を取り出すと、預けた時よりも綺麗になっている表紙に感動した。

正直想像以上の出来栄えで、栄人にはあの本をこれだけ元の形に戻すことのできる人がまるで魔法使いのように思えた。そして自分の中にあった興味が大きく膨らんだのがわかった。自分も学べば本を直せるようになるだろうか。そう思った時には

「あの、僕をここで雇ってもらえませんか?」

そう口から言葉が出ていた。直す方法はもちろん学んでみたいと思うが、本で溢れたこの場所にとても魅力を感じたし、本を買いに来る人や直したいと思っている人の手伝いをしてみたいと思った。ここで働けたなら、その気持ちが僅かに勝っていた。

「興味湧いてきた?」

笑ってそういう青年に頷く。

「ちょうど人手が足りなくてどうしようかと思っていたんだ。君みたいに本を大切に思ってくれている子なら安心だね」

そう言うと、近くの席を指され、座ると簡単な質疑応答に答えた。


「ああ、まだオレの名前言ってなかったね。オレは鴻屋晴樹。これからよろしく栄人くん」

そうして僕はここで雇ってもらえるようになった。

 次の日、指定された時間に店へとやってきた栄人は、中を案内するという晴樹について回った。自分も何度か入ったことがある店内をぐるりと見終わりカウンターの奥にある扉の中に入る。もちろんここに入ることは初めてであり、辺りをキョロキョロと見回してしまう。

少し薄暗い廊下の両側には三つほどの扉があった。晴樹は一番手前の扉に手をかけ引く。

「ここは仲介だけでなく、本を売っているって話しただろう?この部屋は表に並んでいない本が保管されているんだ」

パチ、とスイッチを入れる音が響き、室内が明るく照らされた。そこには店に並んだ本と同じくらいの量の本が眠っていた。

「こんなにたくさんの本、見たことないです」

ほう、と息を吐きながら言えば晴樹は

「それだけ本が少なくなってきているんだよね。それが悪いとは言わないけれど」

それぞれ違った一冊一冊の重みを感じながら読むっていうのもいいものだと思うんだけれどね。

そう言って部屋の扉をとじた。

次いで開け放たれた部屋は先ほどと似たような造りの部屋だった。ここもそうなのだろうかと思っていたが

「ここは、仲介を頼まれた本が置いてあるんだよ。向かって左側が修理待ちの本で、右側が引き取り待ちの本かな」

その説明で仲介に関して自分の想像していた仕組みとは違っていたことを知る。

「あの、修理待ちって・・・」

「ああ、一言に修理と言っても、一人で全てをこなすわけではないんだよ。もちろん全員、一冊の本を丸々直せはするんだけど、それぞれ得意分野っていうのがあって、効率は悪いだろうけれど完璧に仕上げられた本を持ち帰ってほしいから、こういう方法を取らせてもらってる。急ぎの場合は他の仲介所を紹介したりするんだけどね。」

中をぐるりと見回して言った言葉に、この人なりの理由や思い入れもあるのだと思った。

このような感じで最後の部屋も案内してもらい、廊下に戻ると一番奥に上に繋がる階段があるのが見えた。外から見た時に二階があるのはわかっていたけれど、上はどうなっているのだろうと階段を見つめていると

「あの階段は上に続いていてね、上はオレの居住スペースになっているんだよ」

そう教えくれて、ああ、と納得する。軽くあたりを見回し、階段近くにひっそりと存在している扉に目が行った。

「あそこの扉は何なんですか?」

指をさして聞けば、晴樹は一拍置いて

「・・・あそこは物置きだよ」

ぽつりと呟くように言った。そろりと横目で見た晴樹の寂しそうな、悲しそうな表情が栄人の印象に残った。

 ここで与えられた栄人の仕事は、店内に並ぶ本の整理と清掃、晴樹が不在の時の接客などだった。接客といっても、店の奥で作業をしている晴樹を呼びに行く程度のことが多かったが。この日も店にやってきた栄人に晴樹は

「奥にいるから、誰か来たらよろしくね」

と一言残し、奥の扉に消えていった。栄人は返事を返し、本棚のチェックとともに埃がかぶらないように、はたきで落としたりしながら店内を歩き回っていた。

清掃も一段落し、次にやることを頭の中で整理していると

「こんにちはー」

間延びしたような声とともに入口から誰かが入ってきた。

「いらっしゃいませ」

取りかかろうとした作業を中断してカウンターに戻る。少しして先ほどの声の主が姿を見せた。長身で薄い茶色の髪は長めの前髪が真ん中で分けられている。白のカッターシャツに黒のスラックスの彼の手には大きめの紙袋が握られていた。にこにこと笑顔でいる彼は

「鴻屋くんおるかな?」

と栄人に話しかけてきた。栄人はハッとして「少しお待ちください」と言うと奥に走っていく。

廊下を進んで開いている扉を覗き込めば中に晴樹がいた。

同じような扉が並んでいるここでは、どこで作業をしているのかが分からなくならないように作業中はその扉を開けておくことになっている。

「晴樹さん、お客様です」

扉からそっと顔を覗かせて声をかければ

「わかった」

と晴樹が頷いた。

しばらくして出てきた晴樹と一緒に店内に戻る。晴樹はカウンターの前に立っている男を見ると

「こんにちは望月さん、お待たせしてしまって申し訳ないです」

と軽く頭を下げた。

その様子にきょとんとしていると

「こちら、常連さんの望月さん」

カウンターの前の彼を示しながら言う晴樹に望月は

「新しい子?よろしく!」

と手を差し出してきた。栄人はその手を取りながら

「先日からここでバイトをさせてもらっている御雲栄人です、よろしくお願いします」

とあいさつする。望月はうんうんと頷いてから手に持った紙袋の存在を思い出し、そっとそれをカウンターの上に置いた。

「鴻屋くん、お願いしてもええかな?」

「はい、大丈夫です。いつもありがとうございます」

そう言ってから晴樹は中身を確認すると

「では、お預かりしますね」

と袋を手元に置いた。話もそこそこに望月さんは用があるからと帰ることになった。なんでも自身の店の買い付けがあるらしく

「じゃあ、よろしく!」

と晴樹に手を上げ、ちらと栄人を見ると、またね、と手を振って出て行った。

 それから数日が過ぎた。仕事にも慣れてきたが、一つだけ未だに慣れないことがある。カウンターで作業をしていると感じる視線だった。その視線に耐えかねて顔を上げれば思ったより近くに顔があり、驚いてのけぞれば、にこりと笑った表情を張り付けた青年と目が合った。ふわふわしたショートで整った顔立ちのいわゆる「王子様」といったような青年だった。栄人は、はぁとため息をつく。この男がこうして自分をじっと見てくるのは今に始まったことではなく、もう数日も前からこうしてここに来るようになっていた。

初めて彼が来た当初は、晴樹に用事があるのかと思っていたが、ちょうどその日は店に慣れてきた栄人に店を任せて少し外出しているときで、

「すみません、晴・・・ここの店主なら今少し外出しているのですが」

と言えば青年は笑顔で

「うん、知ってるよ」

と言ったのだ。晴樹さんに用でないのなら何かあるのだろうかと思っていると青年がふとカウンターから体を離し、扉の方を見たかと思えば振り返ってお辞儀をして店を出て行った。少しして裏口から入ってきた晴樹さんに先ほどの客のことを言おうかと思ったが、先に話し始めた晴樹に口を閉ざした。

そんなことがあってから目の前の青年は決まって晴樹が外出しているか、奥に籠っているときにここに来るようになった。一体この人は何なんだろうと思うが、声をかけようとするとふらりと帰ってしまうので聞けずじまいだった。栄人の作業をただにこにこと見ているだけの彼にいい加減もどかしさを覚え、思い切って

「あの、ずっとここにいますけど、何かご用でしょうか?」

と聞いてみた。少し、いやかなり棘の入った言い方になってしまったが、青年は一瞬きょとりと目を丸くして、くすりと笑うとその小さめの口を開いた。どうやら今日は答えてくれる気分らしい。

「君になら、あの子を任せられそうだね」

聞こえてきた言葉は答えになっておらず、首をかしげながら

「あの子って・・・」

と言いかけたところで青年はこちらに手を振って店を出て行った。これ以上は教えられないのか、それともただ単に時間切れだっただけなのかはわからない。

(あの子って誰だ?)

栄人はもう一度心の中でその問いを繰り返した。

それからというもの、彼はここに来ては少しだけ話すようになり、

「君はここに来てどのくらい?」

「店のほうはどう?」

「店主さんは元気?」

そんなことを一つずつ質問しては答えに満足したように出て行った。今日もいつものように少しだけ雑談をし、そういえば彼の名をまだ聞いていなかったことを思い出して

「あの、あなたの名前は・・・」

と問いかけようとしたところで

「あ、ごめんね、もう行かないと」

と彼が扉に向かう。取っ手に手をかけたところでこちらに振り返り、

「名前は、次の時にね」

人差し指を唇に当て、ふわりと笑うと外に消えて行った。閉まった扉をぼんやりと眺めていると

「ただいま。変わったこととかなかった?」

背後から声をかけられビクリと体が跳ねた。

「ああ、ごめん。驚かせちゃったかな」

頬を掻きながら苦笑いした晴樹に

「いえ、大丈夫です」

と慌てて答えると

「ならいいんだけど。ちょっとまだバタバタするから今日はもうあがっていいよ」

そう言いながら晴樹は奥へと歩いて行った。

 授業終わりに呼び止められたこともあり、バイトに入る時間ぎりぎりになって栄人は慌てて店に向かっていた。何とか間に合い店に入れば

「ちょうどよかった。今から修理してもらう本を渡しに行くんだけど、一緒に来る?」

と数個の紙袋を手に聞かれ、

「わざわざ持っていくんですか?」

と問えば晴樹は苦笑しながら

「うん。あいつには直接もって行かないといけないんだよね。ちょっと歩くけど、どうする?」

首を傾げながら聞かれた。行きたいと言いたかったが、店はどうするのだろうと思いそれを言えば、

「どっちにしろ店は閉めないとダメだからね」

と返ってきた。何でも本を持ってこられた方が急ぐようで、どうしても明日中には返してほしいとのことらしかった。本を持って行って直してもらい持ち帰ってくるには店を開ける暇がないようで、それならと栄人は同行することを告げる。

(本を直しているところも興味があるから見てみたい)

という気持ちが大半だったが。晴樹は頷いて店の戸締りを確認し始めた。

店を閉め、最寄りの駅まで歩くとそこから電車で5駅ほど乗るようだった。

栄人は車内を見回し、

「本、持っている人いないですね」

と隣の晴樹に声をかけた。見る限り紙媒体のものを持っている人はおらず、何かしらを見ている人はみな端末や電子機器を手にしていた。

「そうだね、少しさみしいね」

どこか複雑そうにそれを眺め、降車する駅に着いたのか立ち上がった晴樹の後に続いた。

駅を出てバス停に行き、そこから数十分揺られたどり着いたのは町中より幾分静かな場所だった。喫茶店や店が並んではいるけれど、喧噪がなく落ち着いているような雰囲気であり、町ではないが田舎でもない、そんな場所だった。晴樹は立ち止まって端末をいじっている。しばらくしてそれをポケットにしまうと再び歩き出した。

「こっちに出てきているみたいで、これから近くの喫茶店で会うことになったから、そこ行くね」

歩みを止めないまま言われ、栄人は、はいと返事をする。少し道なりに歩けば目的の喫茶店に着いたのだろう晴樹が中に入る。適当な席に着き、運ばれた水を眺めていると

机の上に影が差した。

「やあ。案外早かったんだね」

晴樹がその影に話しかける。栄人が顔を上げると、肩に付くか付かないかくらいの濃い茶色の髪をした青年が眉間に皺を寄せて立っていた。

「・・・別に。近くにいたから」

そう言って彼は空いている席に座る。この人が修理を職にしている人なのだろうか、想像していたよりも若いその青年を見ていると

「とりあえず何か頼もうか」

その声に栄人は晴樹に視線を移した。

「俺はコーヒーでいいや。栄人くんは?」

「あ、じゃあミルクティーで」

そう言うと晴樹は店員を呼ぶ。しばらくしてやってきた店員に

「コーヒーとミルクティーとオレンジジュースを」

と言えば店員がそれをひかえて下がった。

「・・・でよかったよな?」

その言葉から、オレンジジュースが目の前の彼のものだということを知り、少しだけ驚いた。当の彼は窓の外に視線をやっており、こちらを見ることはなかった。

運ばれてきたものを半分ほど飲んだあたりだろうか、彼が晴樹を見ながら

「で、どうせ今回も本なんだろ?」

と問いかける。

「ああ、これなんだけどね、依頼主の方が明日中に引き取りにくる」

そういってコップを端によけてから持ってきた紙袋を机に乗せた。

「・・・ようするに今日全部仕上げろってことだよな?」

明日中に引き取りにくるということは、明日ならいつ来てもらってもいいようにしておくということで、これまでの移動時間から考えてもそう悠長にしてはいられないことがわかる。彼は受け取った袋から一冊の本を手に取りパラパラとそれを捲った。

「出来そうか?」

「・・・『出来そう』じゃなくて、『やれ』だろ?」

パタリと本を閉じ、袋に戻しながらそう言う彼に晴樹はくすりと笑う。

「そんなことはないけど、まあ無理を聞いてもらうんだから夕飯くらいは奢るよ」

「・・・無理言ってる自覚あったの」

彼はそうため息をついてから

「肉少なめで」

そう言うと残りのオレンジジュースを一気に飲んで立ち上がった。

「あの!」

立ち上がった彼に栄人がとっさに言う。

「・・・何」

視線だけをこちらに向けた彼に

「お願いがあるんですけど、よかったら作業しているところ見学させてもらえないでしょうか」

と言えば彼は間を置いた後

「・・・は?」

何を言っているんだというような顔をしてじっとこちらを見た。

「少し興味があって・・・」

声が小さくなりはしたが、それを伝えると

「・・・断る。見てて楽しいもんじゃねーし、見せるようなものでもない。それに気が散る」

そう言われ少し気落ちする栄人に晴樹が

「無理ついでにお願いできないかな」

俺からも頼むと頭を下げた。その様子を見た彼は

「あんた、変わったな」

とぽつりと呟いた。

(変わった・・・?)

栄人はその言葉を拾い晴樹を見るが

「はぁ、わかったよ」

見せてくれると言った彼に視線が行った。彼は袋を下げ歩き出す。

「え、あの・・・」

その行動に戸惑っていると

「見たいんじゃねーの?」

少しだけ振り返って言われた一言に

「あっ、はい!」

と返事をして慌てて彼の後を追った。

彼の工房に向かう途中で晴樹から目の前を歩く彼のことを聞いた。彼の名前は南浬仁と言うらしい。まだ若いけれど本を修理する技術も出来栄えも申し分なく、結構な数の依頼が来たりもするが大抵はそれを断っているという。どうしてだろうと首を傾げていると

「本直すのあまり好きじゃないし、それに俺が依頼受けてるのはあんたからの依頼だから受けてんだよ。頼み、断れないし」

早口でわかりづらかったがそんな感じのことを言っていたと思う。晴樹は浬仁に笑顔で

「ありがとう」

と礼を言った。

そうこうしているうちに一軒の建物が見えてきて、中に入ると栄人は辺りをきょろきょろと見まわす。

「広いですね!」

少し興奮気味に言う栄人に何を言うでもなく浬仁は紙袋をテーブルに置き、引出しからヘアゴムを一つ取り出して髪を後ろで束ねた。

「近くに行ってもいいですか?」

そう尋ねれば浬仁はちらりと栄人を見やり

「好きにすれば」

そう言ったかと思うと袋から本を取り出し始めた。栄人はテーブルの側まで歩く。

浬仁は取り出した数冊の本を横に置き、その中から一冊を取り出すと表紙を捲り、最初と最後のページを残して後のページを取っていった。慣れた手つきでそれらを繰り返し、引き出しから取り出した直すために必要な道具をうまく使いながら一冊一冊丁寧に仕上げていく。まるで魔法のように綺麗になっていく様子に栄人は飽きることなく、目を輝かせながらその工程を見ていた。あっという間に一冊の本の修理が終わり、出来上がった本を晴樹が手に取り栄人に渡す。その本を受け取ると、そっとページを捲ってみた。

「・・・すごい」

直す前の汚れていたりボロボロだった本の状態を見ているからこそ、綺麗に戻っている本に感動した。浬仁は次の本に取り掛かっており、先ほどと同じような作業を繰り返した。時折息をついては視線を上げ、少しするとまた作業に戻った。

数時間後、出来上がった本を元の袋に詰め、そのまま約束通り外に夕食を食べに行くことになった。夕食というにはだいぶ遅い時間ではあったが、一度作業に入ってしまえば全部仕上げてしまうのが彼のやり方らしく、こんな時間になってしまった。

近くにあったレストランに入るとそれぞれがメニューを取り食べるものを決める。

注文を終え、一息ついていると晴樹のケータイが震えだし、

「ちょっと席を外すね」

と言って出て行ってしまった。席に残された二人の間に重い沈黙が落ちる。

料理が来るまでの間の時間が長く感じられ、栄人は話題を探そうとそっと視線を動かした。

隣の席に置かれている袋を見てはっとし、

「本を直すところみせていただいてありがとうございました。直った本を見て本当にすごいんだなって思って、ちょっと感動しました」

そう言うと浬仁は小さく「別に」とだけ返す。再び沈黙が落ちかけ、

「浬仁さんってすごいんですね!」

と栄人が言えば、浬仁がちらりとこちらを見ながら

「すごくない」

と答えた。

「でも、あれだけの本を・・・」

「すごくない。まだ、あいつには及ばない」

誰のことを言っているのかわからず、栄人が首を傾げると、目を閉じて何かを思い出すように浬仁が語り始めた。

「どんな本でも直せて、どんな条件でも傷でも新品同様に近づけさせることができる、オレの・・・」

そこで一度口を閉ざし、目を開けてから視線を窓の外に向け、小さな声でぽつりと

「オレの、目標だった人だ」

そう言って少しだけ栄人の隣の席を見た。

「すごい方だったんですね。その人は今は・・・」

「もうやってない」

帰ってきた答えに、え?と聞き返すと

「あの人は本を直すことをもうやめてるから」

「どうして」

「・・・逃げたんだあの人。新品に近づけられるような技術持ってて、そこまで直すのはどうかって反対されても受け流して、依頼してきた人が望んだことをこなして、感謝されるのが自分にとってすごく嬉しいことだからって笑ってたのにたった一度の失敗で全部手放して、やらなくなった」

初めて声を荒らげた浬仁を見つめることしかできずにいると

「・・・悪い。こんなことあんたに話すことじゃなかった」

そう言って水の入ったグラスを煽った。

「二人で何を話してたの?」

しばらくして戻ってきた晴樹にそう聞かれたが浬仁が

「別になんでもない」

と言ったことで納得していない様子でありながらもそれ以上は追求することなく、また栄人も何を話していたかを話そうともしなかった。

「あ、これ忘れないうちに渡しておくよ。今回の分」

「どうも」

今思い出したかのように差し出された封筒を受け取り、中を確認すると手元にあったカバンにそれをしまう。そうこうしているうちに料理が運ばれてきた。

晴樹の前にはハンバーグ、栄人はオムライス、浬仁の前にはスパゲッティが置かれ

「それだけで足りるの?」

という言葉に頷いた彼は料理を口にした。

食べ終え、時計を見れば随分と時間が経っていることに気がつき、そろそろ帰ろうかとレストランの前で別れた。

 間近で仕事を見せてもらって数日が経ち、はやる気持ちを抑えながら店へと急ぐ。

「こんにちはー!」

店内に入りながら挨拶するが、いつものように言葉が返ってくることはなく、しんと静まり返ったままで、栄人は首をかしげた。

「・・・いないのかな?晴樹さん?」

名前を呼びながら一度表を見に行く。扉の鍵を開けたまま出かけるということはないだろうと思い、今度はカウンターの奥の本を保管してある部屋を覗いてみることにした。

栄人は小さな声で「こんにちはー」と呟くように言いながら扉を開け、部屋が並ぶ廊下に顔を覗かせた。

「奥にいるのかな」

そう思ってそっと体を滑り込ませ、ゆっくりと奥へと歩いていく。それぞれ横に並んだドアを開けていないことを確認しながら進んだ。

そうして奥まで進むと、一つの扉の目の前で立ち止まった。そこはバイトを始めた頃に案内された場所で、物置きになっていると説明された部屋だった。

「そういえばここ、一度も中見たことなかったな・・・」

言いながらノブに手をかけると鍵がかかっていなかったのか扉が開く音がした。

「・・・開く?」

栄人は開けようとノブを捻ろうとするが

「やっぱり勝手に開けちゃだめだよな」

そう考え直し、手を離した。するとうまく戻っていなかったのかキイ、と音を立ててドアがゆっくりと開いた。

「・・・開いちゃった」

隙間からちらちらと見える室内に好奇心が沸いてきた栄人はごくりと唾を飲み込み、ドアに再び手をかけて開いた。

「・・・え、これって」

視界に入ってきた部屋に驚き、目を丸くする。そこにはうっすら埃をかぶった作業台や、この間浬仁のところで見た同じような造りの部屋がそこにはあった。

「これ、本を直すための・・・どうして・・・」

部屋の前で固まって動けずにいる栄人の耳に誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。

「栄人?そんなところで何やって・・・」

廊下でたたずむ姿を見て心配したらしく、少し早足で来る彼に栄人は

「晴樹さん、ここって・・・」

と疑問をぶつけた。晴樹はその言葉が何を見て言われたものなのかを理解し、困ったような笑顔を浮かべると、

「見ちゃったのか」

と頬を掻いた。

「ごめんなさい」

栄人が申し訳なさそうに言うと晴樹はぽつりと

「鍵、早く直しておくんだったな。おいで」

と手を引いた。

連れて行かれた先は二階の居住スペースで、

「あの店のほうは・・・」

そう聞くと

「ああ、少し休憩。さ、どうぞ」

そう言いながら向かいのテーブルの椅子を示した。おとなしくそこに座ると晴樹はキッチンへ消え、二人分の飲み物を用意してくるとそれぞれの目の前にそれを置いた。出されたカップに口をつけ、しばらくの沈黙のあと、先に口を開いたのは栄人のほうだった。

「あの部屋、何なんですか?」

「見ての通りだよ」

もっとためらって返ってくるのかと思った答えが案外すんなりと言われたことに少し驚きながら問いかけていく。

「どうしてここに・・・」

晴樹はカチャリと小さな音を立ててカップを置き、

「・・・あそこね、俺が使ってたんだ」

と言った。

「え?」

「こう見えて結構有名だったんだよ、俺」

どんな状態の本でも直すことができる魔法使いみたいな人だ、ってね。

そう言った彼の言葉に先日、浬仁が言っていた人物を浮かべた。

(あれ、晴樹さんのことだったんだ・・・)

発覚した事実に驚いていると

「この店はね、祖父の店だったんだ。祖父が本を売って、俺がお客さんが持ち込んだりした本を直して」

「浬仁さんともその頃知り合ったんですか?」

二人の関係を聞いてみれば晴樹は頷き

「まだあの頃は本に関わりなんて持ってなかったけど」

「そうだったんですか?」

彼を見て、幼い頃から本に関わってきたものと思っていた栄人は目を丸くした。

「うん。荒れてたあいつを俺がこっちに引き込んだようなもんだしね」

そう苦笑いしながらカップを取り上げ中身をあおる。

「何も持ってなかったあの子に本を直すってことを教えておきながら、自分はこうして直すことをしなくなったから、少しね・・・」

晴樹は続けて言おうとした言葉を飲み込み、

「祖父が亡くなって俺が店を継ぐことになって、本を直すことができなくなって、直す代わりに仲介をするようになったんだよ」

そう続けた。

「どうして直せなくなったんですか?」

そう聞けば晴樹は奥にしまい込んだ記憶を手繰り寄せるように目を閉じた。

「あれは祖父が亡くなって間もないころだったかな・・・」

そう語りながら浮かんできた記憶をたどり始めた。

 店を継いで、一人でまわすようになり数日。まだまだ効率のいい店の回し方を模索しながら忙しさに追われていた時のことだった。ドアのベルが鳴り、来客を告げる。店内に並べてある本の確認作業をしていた晴樹は手を止め、カウンターへと戻った。

「いらっしゃいませ」

店に入ってきたのは年をとった男性と、その隣に立つ青年だった。

「本の修理を頼むならここが一番だと教えられて来たんだが、直してもらえるかな?」

男性はそういって手に提げていた袋を掲げて見せた。

「ありがとうございます。大丈夫ですよ」

そういいながら袋を受け取る。

「その本は、この子がとても大切にしている本でね、特別思い入れのある一冊だからきれいに戻してくれる人を探していたんだよ」

その言葉を聞きながら中身を取り出し、状態を確認する。

「それ、古いでしょう?僕のお母さんの本なんだ。前に譲り受けたんだけど、その状態でしょう?文字が読めなくて。お願いしますね」

にこりと笑って言う青年に頷いてもう一度本を見る。確かに損傷がひどくてまともに中を見ることはできなさそうだった。

どうやら何かしらの予定があるようで、できるだけ早く仕上げてほしいとの要望に了承し、そっと本を受け取った。

 本を受け取った次の日から本の修理の依頼や仕入れなどに追われバタバタとあわただしい日が重なった。本屋のほうの仕事がひと段落したごくわずかな空いた時間でたまった本の修理に手をつけ、少しずつではあるがそれを消化していった。祖父の代からのこの店は、地域に開けた店であり、話を聞きつけて何か手伝うことはないかと心配してくれた同業の人の存在もありがたく思いながら、何とかまわせている状態を保つことができていた。

その日も一日をやっと終え、晴樹はカウンターにべたりと突っ伏した。明日も忙しいし、このまま眠ってしまおうかとも考えたが、ふと先日のことを思い出し、カウンターに手をついて立ち上がる。いつも修理の作業をしている部屋に行くと、棚から袋を取り出し台の上にそっと置いた。ちらりとその隣の棚に保管された、まだ修理できていない本を見やる。数人が手伝いを申し出てくれたが、すべて修理以外のできる仕事を手伝ってもらっていた。こちらの仕事は自分だから任せてくれたものであり、どうしてもそれを手伝ってもらうなどということはできなかった。

「なるべく早くって言ってたし、そろそろ取り掛からないと」

そう軽く頬を叩いてから本を開いた。

作業を始めたが、思ったよりも難しく、時間がかかることがわかり、一度手を止める。この本の依頼をしてきた男性と青年は、自分たちが見ても直すことは難しいと分かるから、文字が読めればそれでいいと言っていたが、単に読めるだけではだめだとできる限りの手は尽くそうと考えていた。

 そこで話を区切り、晴樹は二人分のカップを見る。

「もう一杯飲む?」

そう聞かれて栄人は

「じゃあ、お願いします」

とカップを差し出した。晴樹は少しほっとしながらそれを受け取り、キッチンへと消えた。晴樹が戻ってくる間、栄人は何も言わずキッチンで飲み物を淹れながら心を落ち着けているのだろう彼を待った。

しばらくして湯気が立ち上るそれを持って戻ってきた彼から受け取り、言葉を待った。

晴樹は一つ深く息をついてから

「それで、ね。一度ですべてを直すことはできなくて、何度かに分けて少しずつ直していったんだ。はじめは順調に行ってたしよかったんだけど、日が経つにつれて行き詰って、早くやらなきゃって気持ちと祖父が大切にしてきた店を滞らせたくないっていう思いが大きくなりすぎて、焦って失敗して」

自嘲したような笑顔を浮かべて

「依頼してくれた二人は、人間だし完璧に何かをこなすなんてことはできないから、別に気にはしていないって言ってくれたんだけど、あれがあってから、以前できていたどんなに小さな簡単な修理でもできなくなってしまって・・・」

そういう理由で長年あの部屋には立ち入っていないし、鍵もかけてその存在を奥にしまいこんでいたとそう言った。

「そうだったんですか」

話を聞き終えて栄人は何かを考えるように黙り込んだ。その様子に晴樹が首をかしげていると、栄人は晴樹の目をまっすぐに見て

「あの、俺に本の直し方を教えてください!」

と身を乗り出すような勢いで言った。晴樹はきょとんとして

「・・・今の話、聞いてた?」

と問いかける。栄人は姿勢を正すと

「はい。でも俺、習うならあなたに習いたいって思ったんです」

と真剣な表情で言った。

どうしてそう思ったのか理由を聞いてもいいかと言われ、前に浬仁のところに行ったときの事を思い出す。修理台の片隅に置かれた一冊の本が目に入り、不思議に思って浬仁にこの本は何なのかと聞いたことがあった。彼はつんとした態度で、自分をこの道に引き入れた、憧れでもある人が直してくれた本だと教えてくれた。態度とは裏腹に、その本を見つめる視線がとても優しかったのが栄人の記憶に強く残っていた。

「前に晴樹さんが直した本を見せてもらったことがあるんです。元がどんな状態だったのかは分かりませんでしたけど、こんなふうに本を直せる人なら、本に対する思いも扱いも優しいんだろうなって思って。だから、本を直した人があなただと知って、教えてもらいたいと、そう思ったんです」

そう言って見つめてくる栄人とその視線に

「・・・ごめん、考えさせて」

と静かに言った。

 今日も栄人はカウンターの内側で紙に書かれた数字とにらめっこしている。晴樹に本の直し方を教えてほしいと頼んでから幾日か過ぎた。その間彼の態度も普段とあまり変わらず、考えてくれているのだろうか、このままうやむやにされてしまうのではないかとおった考えばかりが頭をよぎり、栄人は本日何度目かのため息をついた。

「そんなにため息ばかりついていると幸せ逃げちゃうよ?」

いきなり声をかけられ、はっとして視線を上げれば、最近姿すら見せなかった例の王子様ふうの青年がどこからか持ってきた椅子に腰かけ、カウンターに肘をついて笑顔で自分の顔を覗き込んでいるのが見えた。

「こんにちは」

驚いて固まっている栄人に青年はことりと首を傾けながらそう言う。

「・・・こんにちは」

その光景にやっと思考が追いつき、挨拶を返すと青年は、うんうんと頷いて見せた。

「今までどうしてたんですか?」

気になってそう問いかければ

「ん?気になる?」

とにこにこしながら聞かれた。質問しているのはこちらなのだが。そう思いながらも、この人はこういう性格だったかと首をかしげた。

「あ、そういえば最後に来た日、次に会ったら名前を教えてくれるって・・・」

「言ったね」

目の前の青年のことを考えると同時に思い出した約束を口にすると青年はうなずいた。

「僕の名前は・・・」

青年はきょろきょろと辺りを見回し、カウンターの隅に置かれたメモ用紙とペンを見て、一枚もらうね、と一言断ってからそこに文字を書き始めた。ペンの動きが止まり、メモを回転させて目の前に差し出される。綾音、と書かれたその文字に

「あやとさん?」

と呟けば、青年は驚いたように目を丸くさせ

「よくわかったね」

と言った。

「俺の周り、ちょっと変わった名前が多いので。それに、響きがこうかなって気がして」

そう頬をかきながら言った栄人に綾音はくすりと笑って

「そっか。大抵の人は、あやねって呼ぶのにすごいなって思って。僕の漢字見て読み方当てたの、これで二人目だよ」

嬉しそうに言う。

「二人目なんですか?」

「うん、もう一人にも、こんなふうに漢字を書いて見せたんだ。初対面でね。そうしたらその人見事に当てちゃって。びっくりしたからよく覚えてるんだ」

初対面の人と打ち解ける一つの手段としてやっていたクイズのようなものに正解した、ただ一人の人を思い浮かべる。

「その人はね、僕の大事なものを一生懸命直そうとしてくれて、優しくって、けど繊細で・・・」

そこまで言ってから綾音は話題をころりと変える。

「そういえば、店主さん元気?」

世間話をするようなトーンだったがどこか心配しているような空気をにじませながらそう聞かれ、栄人は先ほどまで考えていたことを思い出すと肩を落とした。

「さっきからずっと落ち込んでるけど、何かあったの?」

もしよかったら聞くよ?と言ってくれた彼に、話してもいいのかと迷う。こんなことを話せる人など近くにはいないし、簡単に話してしまってもいい内容だとも思えないが、この人にならかいつまんで話しても大丈夫なのではないかと根拠のない考えに至り、とある理由がきっかけで本を修理することをやめてしまった人がいて、この間その理由を知り、教えてもらいたいと思ったこと、考えさせてほしいと言われて待っていること、省ける部分は全部省いて話した。

「それで、返事がもらえないまま時間だけが経つのが不安なんだね」

綾音に言われて頷く。

「もう少し待ってあげたらどうかな」

「え?」

「だってその人、話を聞いた限りじゃ、真剣に伝えたことはちゃんと考えてくれそうだなって思って」

僕の考えだけどね、と言ったあと、ぽつりと

「その人、まだ引きずってるんだね」

伏せ目がちに言った。

その様子に少しの違和感を感じながらも、それが何か見つけることができずにいると

「もうこんな時間か・・・そろそろ帰るよ。バイト中にごめんね?」

座っていた椅子を元の位置に戻し、栄人に手を振って店を出て行った彼の背に

「ありがとうございました」

と栄人は声をかけた。

 晴樹の返事を待つことに決めて数日、バイトの時間が終わり帰る準備をしていると

「栄人、ちょっと時間あるかな」

晴樹が言った。後は帰るだけだったので時間はあると言えば、彼は言いずらそうにしながら開きかけた口を閉じ、しばらくの逡巡のあと

「前に話してたことなんだけど」

と切り出した。その一言でこの間言った直し方を教えてもらえるかどうかのことだと思い至り、じっと次の言葉を待っていると

「ちゃんと考えたんだ。結論を出すまでに時間はかかったけど」

そう言って晴樹は、目をそらしたまま今まで来たが、いい加減乗り越えて進まないといけないと考えていたことや、栄人の言葉で向き合おうと思ったこと、それを踏まえて自分がどういった答えを出したのかを栄人に告げた。

「教えてもらえるんですか?」

そう聞けば、ゆっくりと晴樹は頷いた。

 その日から長年使っていなかった台と部屋を掃除し、道具も新しく揃えて少しずつ作業を教えてもらった。はじめは間違えることも多かったが、自分が直した本を見ると嬉しくなり、それが楽しかった。晴樹自身も少しずつではあるが本を直せるようになっていった。

「ふうん、それはよかったね」

通常のカウンター業務をしているときにやってきた綾音に教えてもらえるようになったこと、これまでやってきたことを話せば自分のことのように嬉しそうに聞いてくれた。

「栄人、お客さん?」

奥から出てきた晴樹はカウンターの向かいに立っている綾音を見て驚いたように

「綾音、くん」

と呟いた。

「お久しぶりです」

ぺこりと軽く頭を下げながら言う綾音と驚いたまま固まっている晴樹を交互に見て、栄人は

「知り合いなんですか?」

と聞いた。

「前に言った、僕の名前を間違えずに当てたもう一人の人だよ」

そう栄人に言うと、晴樹のほうを向き

「元気そうでよかった。本も少しずつ直せるようになってきたんだね」

と笑顔を浮かべた。

「・・・あ」

何かを言いかけた晴樹をさえぎるように綾音は

「心配してたんだ。僕は気にしなくていいって言ったけど、あれから直せなくなったって聞いて・・・でも、よかった」

言った。

「また本、持ってきてもいいかな?」

そう聞いた綾音に晴樹は少し間を置いてから、表情を緩めて

「はい、よろしくお願いします」

と言った。

 夏らしい夕日の日差しに照らされた道を下校途中の女子生徒が二人歩く。

「ここから少し行ったところに、人通りの少ない路地があって、その奥に入ると店があるんだって!」

その路地があるであろう小道の前で立ち止まると、もう一人が興味を持ったように行ってみたいと言い出した。路地を抜けると見かけることのなくなった木造の建物が一軒。ドアにはかわいらしいベルがついている。

「入ってみようよ!」

そう言ってドアに手をかけ、開くとベルがチリンと音を立てた。

「いらっしゃいませ。本の修理や仲介、もちろん本自体の販売も承っております」

「本日はどうなさいますか?」

カウンターに立つ二人の青年を見て、女子生徒は顔を見合わせてから

「じゃあ・・・」

とそちらに向かって歩き出した。


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