他人事
いつもの帰り道、いつもの風景。
人気のない住宅街を真っ直ぐ歩く。
小学生の何気ない風景、何気ない日常。
唯一他と違うことは僕が置かれている状況だった。
「お前は本当に気持ち悪いな」
「死んじまえよ」
後ろから絶え間なく浴びせられる罵声と投げつけられる小石や泥に僕の心は壊れてしまいそうだった。
黒いランドセルの取っ手を強く握り締め、俯き恐縮しながら歩を進めていた。
走って逃げようにも体の弱い僕では後ろを堂々と歩く3人に敵いやしない。
追いつかれてもっと酷い仕打ちを受けるだけなのだ。
我慢だ、我慢をするんだ
震える唇を噛み締め心を抑え付ける。
怒りの衝動に身を委ねてしまわぬように、涙を零さないように。
僕は三人の前では無力なのだ。
体が弱く病気がちで人とのコミュニケーションも上手く取れない僕はあいつ等からして見れば格好の獲物だった。
苛めっ子という名の肉食動物から弄ばれる草食動物。
彼らの気分次第で僕はきっと何時の日か喉元を引き裂かれる。
逃げ場を失った哀れな草食動物。
クラスの傍観者たちは自分が標的にならぬよう怖気づいているだけで僕を見て見ぬ振りをしている。
誰だって苛められたくない、そんなの当り前。
僕は不運にも貧乏くじを引いてしまったのだ。
誰も助けてくれない、担任の教師ですら僕の状況に気が付かない振りをしている。
教師ですら彼ら三人から嫌われるのを恐れている。
何故ならクラスの傍観者たちは教師よりも彼らに従うからだ。
傍観者たちは教師との関係よりも彼らとの関係の方がよっぽど大事なのだ。
学校で、クラスで一番偉いのは教師なんかではない。
クラスを取り仕切るグループが一番偉いのだ。
彼らを前に教師ですら無力であるのに味方すらいない僕が勝てないのは当然なのだ。
毎日、毎日悔しくて堪らなかった。
だが、どうしようも無かった。
両親に相談することも出来なかった。
大好きな両親に心配は掛けたくないし、何より言った先に何が待ち受けているのかが分からなかった。
僕が両親に言い付けたことで苛めがもっと悪化するかもしれない。
怖くて悔しくて何も出来なかった。
「おら、黙ってないで何か言ってみろよ」
罵声と嘲笑は止まらない。
寧ろ加速する一方であった。
もう嫌だ、耐えられないよ
そう思った時だった、前方から猛スピードで自転車に乗る男子高校生が走り抜けたのは。
「たっ、助けてください!」
咄嗟に叫んだ。
見ず知らずの赤の他人に向けられた叫びは応答が与えられないまま地に落ちた。
高校生は気が付かなかったのか、それともわざと無視をしたのかそのまま走り去る。
と、同時に――辺りに鈍い大きな音が響いた。
*
「やっべ、遅刻じゃねぇか!」
午前中の授業を終え帰宅した俺はベッドの上でスマホを弄っていた。
だが、それ以降の記憶を失くしていた。
先ほどまで認識していた時刻は午前十一時であるのに対し、現在の時刻は午後三時五十分。
つまり俺は気が付かないうちに眠ってしまったのだ。
あーあ、やっちまったよ
偶々高校の授業が午前中に終わり、午後から友人たちと遊ぶ約束をしていたのに。
ベッドから飛び起き、乱れた制服を適当に正しながら自分自身に苛立った。
友人の一人に簡潔な謝罪の言葉と約二十分ほど遅れることを告げたメールを送る。
約束の時間は午後四時だが集合場所であるゲームセンターに辿り着くのに自転車で約三十分は掛かる。
田舎のゲームセンターは交通の利便性が悪く、高校生の俺は自転車で行くのが手っ取り早い方法だった。
食事は済ませていないが向こうの近くにあるコンビニで適当に何か買えばいい。
鞄から財布を抜き取りポケットに詰めた俺はふと先ほどまで見ていた夢を思い出す。
小学生姿の自分、容赦なく浴びせられる罵声。
どれも葬り去りたい過去だった。
何であんな闇歴史の夢を見るんだよ
今の今まで完全に忘れていたにも関わらず突如記憶の泉から湧いて出てきた光景。
喘息を持ち根暗だった俺はクラスで権力を誇る三人の奴等に苛められていた。
小学生の頃は永遠にこの状況が続くのかと悲観していたが、勿論そんなことなど有り得ず中学生になり三人と別の学校に通い始めた俺は今までとは打って変わって穏やかで楽しい日々を送っていた。
高校生になり現在でも同じ中学校に通っていた友人たちとは変わらず交流を続けている。
そして今まさにその友人たちと久しぶりに遊ぶのだ。
久々ってのに遅刻はきついな
優しい奴等だから許してくれるだろうが、自分自身の極まりが悪かった。
大きな足音を立て部屋を飛び出し階段を駆け下がる。
両親は共働きのため家には俺一人だけだった。
家の鍵を閉め自転車に飛び乗り力一杯ペダルを踏み込み加速する。
最初は重かったペダルも勢いが増すにつれ今度は足の裏を急かすように回り始める。
古びて冴えない周りの家々が過ぎ去っていく。
心地よかった向かい風も自転車の速度が早まるたびに行く手を阻む強風となった。
よし、この調子ならもしかしたら間に合うかもしれない
一層足に力を込めた――その時だった。
道の中央、向かいから自身の方向に数人の小学生が歩いているのが目に入ったのは。
全員男子のようで肩から脇にかけて黒いランドセルの取っ手が見える。
一人は少し前を歩いているようで姿がやや大きく、他の三人は距離をおいているようだった。
やや大きいと表現したがそれは目に見える距離の物質的な違いで如何やら実際の様子は俯き縮こまっていた。
後ろにいる三人は何やら前を歩く小学生に対して叫び、何かを投げつける動作をしていた。
苛め……
俺はこの状況を以前目撃したことがあった。
否、″目撃した″どころか、その″当事者であった″のだ。
うたた寝中に見た光景が今目の前に現実として現れていた。
こいつも災難だな、まぁ耐えろよ、未来はお前が思っている程暗くはないからな
辛い時誰も助けてくれないことを知っていた。
声を荒げて助けを懇願したとしても誰もが素知らぬ顔で通り過ぎて行くことも知っていた。
実際に自分自身が一回見ず知らずの高校生に衝動から助けを求めて知らんぷりをされたこともあった。
あれ、であの後どうなったっけ?
夢の続きが何故か急に気になった。
しかし、その後のことは不思議なくらい記憶になかった。
知らんぷりをされたショックから忘れてしまったのだろう。
まぁ今となってはどうでも良いことなのだ。
俺は心の中で苛められている小学生を哀れだと思いながら何をしてやることなく通り過ぎようとした――その時だった。
「たっ、助けてください!」
すれ違う瞬間に俯いていた小学生が顔を上げ俺に向かい叫んだ。
咄嗟に後ろを振り返り――気付いてしまった。
あっ、と声にならない声が漏れた。
同時に漕いでいた自転車ごと左の方向へ突き飛ばされた。
鈍い音が辺りに響き渡り、俺は体全体に激痛が走るのを感じた。
訳が分からなかった。
視界がぐるぐると回り地面に叩き付けられた瞬間、ようやく理解した。
薄れゆく意識の中、近くを歩いていた大人たちが自身に近づいてくるのが目に入った。
頭から温かく赤い液体が流れる感覚も覚えた。
その人ごみの中に、彼はいた。
後から駆け付けたようで息を荒げていた。
誰もが心配の表情を浮かべる中、彼だけは違っていた。
口の端に歪んだ笑みを浮かべ、軽蔑の目を向け確かに立っていた。
あぁ、そうかそうだったのか
あの日あの時自分が必死に助けを求め無視された瞬間、″死んでしまえばいいのに″と思ったのだ。
そうして神はその声を、願いを聞き入れたかのように、本当にその相手を″死に追いやった″のだ。
あぁそうだったのか、そうだったのか
思考が回らなかった、もう何も感じず考えられなかった。
ただ心の中で同じ言葉を繰り返し、彼の表情を見守りながら目を閉じた。