異変
デスクワークをしながら私は自分の指を眺めている。
滑らかに動く指、キーの位置を全て把握している指、ここまでくるのに何年かかっただろう。パソコンに初めて触れたのはもう大分前だけれど、結局私はタイピングの専門書とか買って練習したわけでもなく、勝手に指先が動くようになった。
天性だったのだろうか、こんなもの必要ない。望んでもいないのに手に入ってしまうものほど虚しいものはない。
マニキュアを塗らなくなったのはいつだったか、そんな些細なことはとっくに記憶の中から落ちていって、これもやっぱり自然なことなんだろう。
それにしても今日は穏やかな一日だと思う。頭の中が真っ白に近い感覚で、私はぼーっとしていた。指だけが淀みなく動いている。
画面に映るローマ字が視覚で認識できる直前に日本語に変わる。
流れる活字の波。
青いものは何も言わないし、何もしてこない。どうしてこんな私に付き纏う? それがわからない。それを知るには私が向き合わなきゃいけないこと、それに気付いてしまった。
目の前の物事にしっかりと向き合うなんて言葉小学生以来で、そもそも私はこんなやつと向き合いたくないからここまで苦労してきたわけで、なんて自分で自分に「苦労してきた」なんて偉そうだな。
ああ、この会社は天井が高いから好きだ。
でも毎回毎回エレベーターで何十階も下に降りる時間が苦痛。上に登るのはいいけれど下に降りるのに時間をくうのは嫌だ。
ガラス張りのエレベーターから見える景色が冷たくて、私は重力の関係もあって気持ち悪くなる。いつももどす直前ぐらいに最下層に着く。誰かが私の限界を計算して作ったとしか思えない。
IDカードをかざして電車の改札みたいなやつを通る。
正面口の自動ドアの反応が悪い、私の背が小さいからだろうか、急いでいる時だと本当に面倒。一回バックしてもう一回前に立つと開く。いつも繰り返す私の動きが機械のよう。
冷たい空気が入ってくる。
社内の暖房が暑いぐらいに思っていてもこうして外に出るともう恋しい、あの暖かさ。
私は気がついたら走っていた。どこへ行くんだろう、あのスクランブル交差点、あそこに向かっている。もう会えないと心では思っているくせにどうしてだろう。
交差点の手前で私は目を凝らしてしばらくの間微動だにしなかった。
雲の流れが速い、空の色の移り変わりも速い。どんどん夜に近づいていっている。なんだろう、これは?
夕闇が瞬時に真黒く塗りつぶされる。街のネオンの明かりがついて、帰宅の人々でごったがえす。まるでスライドショーのように移り変わる風景、人の動きが何倍にもなって見える。
目が回っている時のような完全に無力の人間に戻る。口を開いたままなすすべなく、奇怪な耳鳴りに苛まれながら私は平衡感覚を保とうとした。
やがて辺りから人間がいなくなった。暗闇と薄汚い外灯の濁った明りだけ。
無音、巨大な箱の中に取り残されたよう。




