逃げる
私はなるべく狭い路地を選びながら走って、必死に少女から遠ざかった。
今までこんなに生を実感したことはない。不謹慎だけどなんだかワクワクする。振り返ると黒い大きな塊が徐々に大きく成長しつつある。
どうすればいいんだろう。
電気のついていない曲がり角のコンビニの奥に私は隠れた。
動悸が激しい、脂汗が額を流れ落ちる。静かな中に振動する私の身体、立ちくらみするほど走った。
空では闇が渦巻いてずっと眺めていると目が回る。静止していた世界が少しだけ歪んでいるのだろうか。
あの子をどうやって止める? 見当がつかない。さっきの気配は異常だった。少女はもう人間よりも熊やライオンに近いか、それ以上のものになって、考えるよりも早く私は逃げ出していた。
私独りでやらないと、ああ独りじゃなかった。ソラがいる。
今はこの子頼りだ。あんなに毛嫌いしていたものに今は救われている。守られている。私はソラの青い身体に寄りかかりながらどうするべきか考えてみたが案の定何も思い浮かばない。
この世界に対して私は無力すぎて泣けてくる。
どこまで走ってもおそらく終わることのない闇が続くだけ。少女と向かい合うしかない。
少女がこの世界に私を連れて来たのならここから元の世界へ戻る方法も知っているはず、藁をもすがる思いとはこのことなんだなあって実感。
殺意を持たれて追いかけられることにより感じる生の実感は想像以上で、私はなかなか少女に近づけずにひたすら路地裏に逃げ込んだ。恐怖している。
駄目だ、逃げれば逃げる程怖くなる。空腹も尿意も時が止まったように感じなくなっている。時間の経過という概念が無いのか。今行け、今。
私は何度か長い深呼吸をしてから、ソラの背中に跨った。
スーツ姿なのでサメ肌で太ももの内側が痛い。ストッキングが引っかかる。これはマズイと向かいに見えたアパレルショップからジーンズを調達した。
急いでいたのでサイズも確認せずにやや太めのものを履いて、余った分はベルトでしめた。ついでに皮の手袋も身につけてソラの背中に飛び乗る。
ソラと共にアパレルショップから出ると、なるべくゆっくり上昇するよう指示を出した。といっても心で願って頭を撫でるだけでいい。
なんとなくこの「色」と呼ばれるものの扱い方がわかってきた。ソラの上昇に高所恐怖症の私は耐えられるか不安だったが、不思議と初めの数秒足が震えただけで、地上を数十メートル上から見下ろしながらでも両手を離すことができた。
その眺めは想像を遥かに超えていた。黒い。高いビルの下のほうは墨にどっぷりと浸かっているように真っ黒で空には相変わらず黒い雲が渦巻いている。
その中心に少女のものらしい巨大な黒い球が物凄い回転をしながら浮かんでいた。さながら黒い月、禍々しい幻覚。
「ソラ、今までごめんね。二人であの子止めるよ」
顎の下あたりを撫でてやるとソラはリラックスした表情でじっとしていた。球の中心から割れた硝子のように尖った幾つもの黒い欠片がこちらに飛んでくる。洞窟から一斉にコウモリが飛び立つ映像をドキュメンタリー番組で見たが、実際に目にするとあれも相当禍々しいのだろう。
「あっ」
動揺して思わずソラから落ちそうになるが、私の体重移動に合せてソラが身体をくねらすのでなんとか耐えることができた。欠片は私とソラの鼻の先で直角に飛び上り、黒い球に吸い込まれるようにして戻っていった。
こちらの武器はソラの体当たりしかないというのにあの少女は飛び道具まで使える、なぜここまで違うのか。そういえばオレンジ色はどこに行ったんだろう。
「お姉ちゃん、もっと近くにおいでよ」
黒球から発せられる声はあの少女と全く同じだった。吹き替えの下手糞な映画をテレビで観る以上の苦痛、あまりの不自然さに汗が止まらない。