6、境界線
駅から出ると、夕暮れだった。哀愁を纏いながら立ち並ぶビルの背後に、蜃気楼で歪んだかのような太陽が浮かんでいる。
ここでキサラギと待ち合わせの予定だったが、彼の乗った車両は事故の影響で停止したらしい。それも運悪く車両から降りることも出来ず、軽い監禁状態だということだった。知らせを受けたトリノは、ヒオウの家を目指して歩き出した。
隣を歩くソラを急かし、半ば走るように進んでいく。何度も携帯電話を開いてはヒオウに連絡をするが、結果はいつも同じだった。『電源が入っていないか、電波が届かない場所にある』らしい。
「ヒオウさんの家、まだかな? もうだいぶ歩いたと思うんだけど……」
言いにくそうにソラが言った。歩くペースは早いが、彼女の顔に疲れの色はなかった。これ以上時間がかかるようなら、往復している間にキサラギが駅に到着してしまうだろうと迷ってのことだった。
「大丈夫……。もうちょっとですよ!」
見慣れてた街角を曲がりながら、トリノは言う。やがて正面に黒い屋根のアパートが現れた。壁は細かいモザイクの煉瓦で、お洒落なアパートだった。粗野なヒオウの印象とはかけ離れていたため、ソラはあのアパートだけは違うな、と考えていた。
矢先、
「あのアパートのです」
と、となりでトリノが指を指す。
「えっ、あの可愛いアパートなの?」
思わず言ってしまった。
「そうです! さぁ行きましょう!」
外見と同じく、見えないところまでお洒落なアパートだった。煉瓦の花壇には夕顔が咲き、煉瓦の階段が延びている。2階の通路へ上がると、落下防止の金属製の柵が付けたられている。黒い柵で、複雑な法則に従って曲がりくねり、薔薇園で使われていそうな雰囲気を持っていた。
「いい場所に住んでるね? 家賃が高そうだ……」
「いえ、むしろ先輩はやすければどこでもいいやー! みたいに選んだっていってましたよ?」
突き当たりの扉の前でトリノは止まった。
「ここ?」
問いかけると、トリノは頷き、チャイムを押す。
ピンポーンと間の抜けた音が聞こえた。
「…………」
しばらく待ったが、反応が無かった。
「先輩! ヒオウ先輩! 私です! いるなら返事してください!」
扉をたたいて、トリノが声をあげる。通路に声が反響して、ソラは少し恥ずかしかった。
「…………」
ヒオウは留守のようだ。トリノはいよいよ顔を真っ青にすると、慌ててポケットの中から合い鍵を取り出す。しかし鍵はトリノの手をすり抜けて、チャリンと床に落ちた。
ソラはトリノの体験談を信じてはいる。しかし悪夢で心労がたまり、幻を見たのだろうと考えていたので、気楽だった。
鍵を拾うため、トリノが腰を折り曲げる。ソラは何気なく目で追っていた。
そして、トリノを見守っている者が自分だけでないことに気がついた。
扉に付けられた新聞ポスト。新聞も広告も無いのに、パカリと口を開けていた。その奥で、何者かの両目を、いや、両目だけでない。目の周りに広がる青白い皮膚まではっきりと見えた。
ヒオウのモノではない。それどころか、生者のモノとさえ思えない。
ソラは目を見開き、身体を硬直させた。
この扉の向こうに、得体の知れない何かがいる。それも、息を潜めてぴったりと扉の裏に張り付いて、こちらの様子を伺っている。
背筋に冷たいモノが流れた。
鍵を拾い上げたトリノが立ち上がる。
ポストは見えなくなった。
鍵がドアノブへゆっくりと向かっていくのが見える。
「——待って!!」
思わずトリノの腕を掴んだ。
「ど、どうしたんですか? ソラちゃん」
困惑した表情でトリノが振り向く。
ソラは新聞ポストを確認しようとした。しかし先に見た何者かと目が合いそうで嫌だった。
顔を強ばらせ、口に溜まった唾を飲み込む。恐る恐る視線を落とした。
今はステンレスの蓋が閉まっていた。
「……ソラちゃん?」
ただならぬ雰囲気を感じたトリノが、再び呼びかける。
すぐ扉の向こうに、何者かがいるから逃げよう。しかしそれをここで言ってしまえば、向こうにいるものへ聞かれる。ソラにはそれが、何故かとてつもなく恐ろしいことに思えた。
「……ちょっとこっち来て」
「なんですか……っきゃ!」
腕を強引に引っ張ると、驚いた表紙にトリノが小さく叫び声をあげた。
そのとき——。
——トントン
自己主張をするノックの音が、扉の奥から聞こえた。