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4,千切れた羽

 血塗れのソラの顔を見た。トリノの意識はそこでとぎれた。そして再び目を開けると、純白の布団が被せられていた。上半身を起こすと、針で刺したような鋭い痛みが左腕に走った。

「——っ痛!」

 小さな悲鳴を上げながらそこに目を向ける。白いテープで半透明のビニールチューブが固定してあり、その先端につけられた細い注射針が彼女の血管に刺さっている。幼少から注射が苦手な彼女は、表情を強ばらせると、注射針と身体の境目を睨むようにしながら停止した。

 時間がゆっくりと流れていく。

 開け放たれた窓から、うだるような灼熱の風が入り込んでカーテンを揺らす。

 病室の中に、ジー、という蝉の大合唱と、パックの下にあるシリンダーから、ポタポタと液が滴る音だけが聞こえた。

 額には次から次へと脂汗が滲み、頬を伝って、形の良い顎の先に溜まっていく。やがて自重に耐えきれなくなり、水滴は落ちて布団に灰色のシミを作る。

「…………」

 トリノは身体を動かさないように、瞳だけを操り、ゆっくりと点滴のパックを睨む。その目は血走り、かつてないほどに真剣な眼差しだった。

 注射器が刺さっている恐怖から身体が凍りつき、ヘビに睨まれたカエルのように動けず、助けを待つことしか出来ない。

(……パックが無くなる頃になれば、看護婦さんが来てくれるはずです)

 医学の心得のない彼女では、点滴のパックが当初どのような大きさなのかを知らない。しかしほとんど減っていないように思えた。

 彼女は失望を顔に浮かべて、視線を落とした。

 蝉の声が五月蠅い。

 汗ばんだ服が肌にまとわりついて、気持ち悪い。

 しかし彼女は動くことが出来なかった。

 不快指数は、加速度的に増加していく中、ジーっと針を睨んでいる。

(看護婦さん、早く来て……)

 縋るような色を瞳に浮かべて、再びパックを見上げる。

「………………。」

 先ほどとほとんど変わらなかった。彼女の体感的には10分以上が経過したのだが、グリニッジ天文台を基準とする極めて一般的な時計では、3分が過ぎた程度である。

 彼女は再び戦いを始めた。

 時間の流れが、妙に遅い。

 顎から、一定間隔で汗が滴りくすぐったい。

 カーテンを揺らしていた風もすっかり今ではすっかり止んで、清楚なはずの病室には、適度な質量を感じるほどの蒸し暑さがひしめいていた。

 まるで拷問のような時間だった。

(早く助けて、看護婦さん……)

 トリノがナースコールを押したのは、それから20分が過ぎた頃だった。

 彼女の蒼白な顔を見て、医者は病状が悪化したのかと緊迫した空気が漂ったが、それが注射による恐怖だと理解されると、空気は真逆のモノへ変わった。

 両親の話によれば、昨夜、トリノの叫び声に起こされた両親は、慌てて彼女の部屋に向かうと、トリノが倒れていたらしい。大至急救急車を呼び、病院に運ばれた彼女だったが、検査の結果、脳震盪である事が判明した。

 ベランダから部屋に戻るとき、縁に足を取られて転んだのだろうと両親は笑った。控えめながら医者も笑う。

 そして開け放たれた扉の向こうで、笑い声がもう一つ。


 ——クスクスクス……


 それは、どこか神秘的な響きを宿し、さらに面白いなどと思っていない、社交辞令のような笑い。この独特な笑い方は、間違いなくソラである。

 トリノの頭に、昨夜の光景がフラッシュバックした。


 ——クス、クスクス……


 忍び笑い。

 それは彼女のちょうど見えないところから聞こえる。両親や医者は、未だに笑っている。しかしそれらの音がすべて消え、ソラの含み笑いだけがやけに大きく聞こえた。

 やがて笑い声がとぎれると、死角になっていた箇所から、木の皮を編んで作った手提げ袋の端が、ゆっくりと現れた。中身は見えないように布が被せてあり、大きさは人間の頭が入るくらいである。続いてランタンのように手提げを掲げた蒼白な手が見えていくる。

 外から風が吹き、布が僅かにめくりあがり、籠の中に、紅い何かが積められているのが見えた。しかし具体的になんなのか、分からなかった。

 ただ、ソレは紅くて丸い輪郭を持っていた。

 少女の肘までが突き出された。そして順を追うように、靴が現れ、足が現れ……そして少女の首が見えた。

 少女の身体はそこで停止した。見慣れたその服は、間違いなくソラであろう。しかし顔が見えずに断定が出来ない。

「……お見舞いを持ってきたよ、トリノ……」

 暗い声で、ぼそりとソラが言った。

 その瞬間、少女は突き出した手を離し、重力に引かれて手提げは床へ落ちた。


 ——ぐちゃり……。


 病室へ湿った音が響く。程なくして手提げから紅い液体が漏れだす。天井に口を向けていた手提げ袋が傾いて、中に入っていたモノがゴロリと床を転がった。

 床にぶちまけられたそれを見て、トリノは思わず両手で口を押さえた。同時に紅い記憶が彼女の頭をよぎた。

 目を見開き、身体を硬直させる。その間にも液体はみるみる広がって彼女の視界を赤一色で塗りつぶしていった。

「相変わらずだね?」

 扉の陰から、金色の髪をなびかせて軽快に全身を現したソラは、足下に散らばるそれを拾い上げ、弄ぶ。

「顔が真っ青だよ? トリノ。……あ、もしかしたら痛んじゃう、とか思った? 大丈夫だよ、落としても良いように手提げの底には古くなって食べられないトマトを、クッションと演出を兼ねて入れといたから」

 得意げにソラ。

 床にぶちまけられたそれは、ソラが原因でトラウマになった果実——イチゴであった。

 ソラは、トリノと同学年であり、趣味はトリノに悪戯をするという困った少女である。しかしトリノにとっては、最も大切な友達であった。

 多くの困難を共に立ち向かい、解決をした。同じ道を並んで歩き、同じ目標に飛翔した。いわばもう一枚の翼のような存在。それがソラであった。

「……ソラちゃん……」

 ふいに現れたソラの姿に、思わず涙腺がゆるんだ。

 考えないようにしていたが、彼女の直感はソラがこの世界を去ったと認識していた。

「——え……え? どうした? そんな、泣くほど嫌だった? えと……ごめん、演出しすぎたかな。そ、そうだよね?……悪戯が過ぎた。ごめんね。そんなに嫌がると思わなかったんだよ。ごめん」

 困惑した声で謝罪をするソラは、大急ぎで手提げにイチゴを戻して、トリノの視界から隠そうとする。何かを勘違いしたらしい。

 トリノは涙を拳で拭うと、布団をはね飛ばしてソラに駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。

「……え? えーっと? どうしたの? なんか情緒不安定だね?」

 ソラはぽかんとしながら、小首を傾げた。

もし興味がありましたら、トリノのトラウマは「物書きさんに50のお題:2、記憶の色彩」をどうぞ……。

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