3、紅い月
時計は23時を回っていた。引越し先の都会ではまだまだ夜はこれからという時間だが、ここでは違った。父も母ももう寝てしまい、この家で起きているのはトリノだけである。
かつて彼女の部屋だった、いや、今もそうなのだが、引越しに伴ってお気に入りのモノはすべて持ち去り、不要なモノは捨ててしまったこの部屋は、ガランとしていて落ち着かなかった。
中央にある座卓に頬杖をつき、彼女は考えていた。
ヒオウは今頃、何をしているのだろうか。何事もなく、元気に過ごしているのだろうか?
彼のことだ、たとえ病気になったとしても、車に引かれたとしても元気であろう。しかし、どうしても考えは悪い方へ向かってしまう。毎日のように見る悪夢が、どうしょうもなく彼女を不安にさせるのだった。
ため息をついて気持ちを入れ替える。肩の力を抜いて辺りを見回すと、部屋の中は真っ暗で、カーテンの空いた窓から青いベールのような光が入り込んでいる。
カーテンを閉めて電気をつけよう。あるいはもう寝てしまおうか。考えた末、彼女はもう少しだけ起きていることにした。
立ち上がり、カーテンに近づく。窓の向こうには、都会では見えない星空が広がっている。誘惑に負けた彼女は、鍵を開けるとベランダのサンダルに足を入れて外へでた。後ろ手で窓を締めて、空を見上げる。
視界の中心には夏の大三角形があり、それを分けるように天の川が流れている。どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえてきて、空気がとても澄んでいるように感じた。しばらくそうしていると、彼女はふいに呟く。
「やけに星の数が多いと思ったら、今日は新月ですか……」
彼女は月を探すことをやめた。こうして空を眺めていると、不安な気持ちなど忘れて、心が洗われていくような気がした。
——ピピピ……
彼女のポケットから携帯電話の電子音が響く。肩をビクリとふるわせると、慌てて携帯電話を取り出して、相手の名前すら確認せずに通話ボタンを押した。
「もしもし、どなたです?」
『夜分遅くに今晩は、トリノ』
電話から落ち着いた様子の少女の声が聞こえた。
「ソラちゃんですか。お久しぶりです」
聞き慣れた声に、迷うこと無く相手の名前を言った。
『久しぶりだね……。えっと、元気してた……?』
「まぁぼちぼちと言ったところですよ、ソラちゃんどうです?」
「私は……そうだね……。ちょっと旅行に行ったら事故にあっちゃってね、もう最悪ってところかな」
「事故……ですか? 穏やかでないですね」
彼女達はしばらく互いの状況を報告しあった。
「それで、今日はどうしたんです?」
『えーっと……そうだね。んー……。どう言えばいいのかな? トリノ、最近悩み事とかないかな?』
困惑して、やけに歯切れの悪いソラに、トリノは首を傾げた。
「悩み事……ですか?」
つい先ほどまで悩んでいた。そしてここ数日ずっと悩み続けていることがある。ソラが相談にのってくれるというなら嬉しいが、それ以上に気になることがあった。
「急にどうしたんですか? ソラちゃん。まさか……うちの母さんから何か言われました?」
『え? い、いや。そんなことないよ? ただ電話越しのトリノの声が少し元気なさそうだったから……、だから電話をしたわけで……あ、あれ?』
ごまかし、取り繕うとしたソラだが、自ら失敗に気がついたらしい。
「語るに落ちましたね、ソラちゃん」
トリノは呆れるようにいった。
どうやら元気のないトリノを見かねた母が、ソラに相談にのってあげてほしいと連絡をしたようだ。余計なお世話だ、と思わなくもないが、どちらかと言えばありがたさのほうが大きかった。
『まぁ、なんでもいいよ。それで、最近元気がないらしいけど、どうしたの? 妙に気持ち悪かったり、酢の物の総菜が恋しかったりするのかな?』
「な、なんですかそれは?」
『簡単に言えば、生理が来ないとかじゃないの?』
あっけらかんと言ったソラの言葉に、トリノは危うく電話を落としそうになった。
「ち、違いますよ! 私と先輩はそんな仲では——」
顔を真っ赤にして、手をばたばた降りながら否定する。ソラはひとしきり笑った後に、
『分かってるよ。トリノは奥手だからね』
と言った。トリノは頬の熱を感じながら、これはソラが電話してきたことを判明させた事に対しての復讐なのではないかと思った。
『それじゃ、気持ちもリラックスしたところで、お悩みを聞きましょうか』
ソラは落ち着いた様子だった。トリノは、はっ、となり彼女なりに気を使っていたくれた事を知った。トリノは口を微笑ませながら、悩みを打ち明けようとする。
その時。
——っズ、っズ……
鈍い音がした。それは夢の中で何度も聞いた、何かを引きずる音と同じであることを、彼女は直感的に悟った。
電話から耳を離して、辺りを見る。
暗い。
地上は闇に覆われ、どの窓からも光が消えていた。大地には赤い光が降り注いぎ、そこにある建物の輪郭だけがはっきりと分かった。
『トリノ……? 急にどうしたの? ねぇ、トリノ?』
耳に当てた電話から、友人の呼びかけがする。しかしトリノは目を見開き、体をがたがたとふるわせることが精一杯で、ソラの言葉を理解していなかった。
——っズ、っズ……
ベランダの向こうの道に、大きな塊がうごめいている。よく見ればそれは、やつれた人間の腕のようなモノが2本飛び出していて、その1本だけを使い、塊を引きずりなりながらトリノの家を目指していた。それは、ホラー映画などでみる、墓から出た死者のもつ印象と、あまりにもよく似ていた。
「う、嘘です……。だって、あれは——」
毎晩見る悪夢の中にだけ存在するはずのものだ。しかしトリノに寝た覚えはなかった。
「……ソラちゃん……たすけて……」
腰が抜けそうになりながら、ソラに力なく縋った。
『……うん?……っズ……っズ……ああ、今、行くから……っズ……待っててよ……っズ……トリノは私が迎えに行くと、いつも逃げるけど……っズ……』
ソラの雰囲気がおかしい。
それに、あの音がソラのすぐ近くから、聞こえる気がする。
「に、逃げる? 私がいつソラちゃんから、に、逃げましたか……?」
『……っズ……ックス……。いつも泣きながら逃げるじゃない?』
覚えがない。ソラなりの冗談かもしれないが、今はそれどことではなかった。
「お願いします、ソラちゃん。助けて……」
ソラに何が出来るわけでもないが、そう言わずには居られなかった。
『……っズ……っふふふ。良いお知らせがあるよ? もうすぐ……着く……』
「……へ!?」
ソラの言葉に、トリノは反射的に答えた。昔はソラもこの近くに住んでいた。しかし今は一人暮らしであり、ずっと遠くにいるはずである。
もしかしたら母から連絡を受けて、わざわざ来てくれたのだろうか。
思考を遮るように、べちゃりという湿った音が目の前からした。顔を向けると、白く細い腕が、ベランダの手すりを外側から掴んでいた。
「——っひ!!」
のどの奥から乾いた悲鳴があがる。窓に背中をたたきつけ、そのままずるずると腰が抜けていく。
やがてもう片方の腕が、ゆっくりと延びてくる。赤く染まったその腕は、その不気味さと反して、手に可愛らしい少女趣味の携帯電話を握りしめていた。
明るい光を放つディスプレイには、
【……トリノ 通話時間 xx秒……】
と表示されている。そしてトリノの見ているそばから、ディスプレイの表面を赤い滴が糸をひきながらゆっくりと下っていく。
やがて金色の長髪を持った懐かしいソラの顔の上半分だけが、塀の下から持ち上げある。頭から止めどなく血液が流れ、皿のように開かれた目に入り、目尻から涙のように滴らせていた。しかしソラは気にする様子はなく、赤く染まった満月のような瞳を嬉しそうに、狂ったように見開いて、
「……迎えに来たよ……トリノ……」




