2,繰り返す夢
寝不足の頭を抱えながら鳥乃はベッドから這い上がった。
実家に帰ってから既に3日が過ぎたが、今日も悪夢にうなされてよく眠れなかった。
朝食を取った後、家族でピクニックにでも行こうかと車に乗り込む。冷房の効いた車内は涼しく、そしてガラスを通して入ってくる光によって身体の芯から温まっていくのを感じる。
エンジンの振動と曲がりくねる道路が合わさって、鳥乃の身体を優しく揺らす。その揺さぶられる感じが妙に心地よく、鳥乃はゆっくりと瞳を閉じた。
両親に悟られないように、疲れを隠して気丈に振舞っていた鳥乃。その疲れもあって、鳥乃は座席に身を任せたままコクリと眠りに陥った。
遠くで笑い声が聞こえた。
何を言っているか分からなかったが、声を潜めて話す両親の会話が聞こえる。
バレないようにしていたつもりだったが、もしかしたら鳥乃が疲れていることを見ぬいていたのかもしれない。
目的地に向かっている車が、大きく減速させるのだけが理解出来た。
それを最後に、鳥乃の意識は黒で塗りつぶされた。
いつもの夢だった。
「そんなことを言う日桜先輩には、ご飯を上げませんよぉーだ!」
朝食の皿を持った鳥乃は、日桜の手を避けるようにして壁際に来た。そしてその瞬間に鳥乃の右足は床を踏み抜いた。
「先輩!」
とっさに皿を離して、日桜に向かって手を差し伸べる。しかしその手は虚空を掴むだけで、鳥乃の身体を支えてくれはしなかった。
重力のなすまま、床に崩れる鳥乃。変な角度から倒れたため、鈍い痛みが体中に走る。
「痛い……です」
じわりと瞳に浮かんだ涙をこすり、鳥乃は日桜に向けて視線を持ち上げた。しかしそこに日桜の姿はなく、夕暮れを迎えた何処か哀愁に満ちた部屋があるだけだった。
「日桜先輩?」
鳥乃はぐるりと部屋を見回した。しかしそこは伽藍としていて、いたるところに夕闇が配置されている他に、何もなかった。
普段は狭いと感じていたワンルームがやけに広く感じられた。
「どこへ行ったのです……」
声だけが寂しく響いた。
鳥乃は訝しみながら、穴から足を引き抜こうとした。
「あ、あれ? おかしいですね」
鉄枷でもはめられたように足はビクともしなかった。
今日は日桜と会うのだから、お洒落な格好をしなくてはならない。そのためかなり可愛らしい感じの装飾品がついた靴下を履いてきたのだが、それが何処かに引っかかっているのかもしれない。
「……こんな時に限って……」
鳥乃は床に腰を下ろすと、引っかかっている部分を外そうした。
日桜が突然いなくなったことで、心が不安で塗りつぶされそうだったが、それを誤魔化すように瞳を下げて口を開けた床を観察する。
どうやら折れた床が靴下のリボンを噛んでいるらしかった。
鳥乃はそれを外そうと、床に向かって腕を伸ばした。
その瞬間、鳥乃をとりまく世界が一瞬で変化したのを感じた。
部屋に漂う空気が、西日の当たる焼け付くようなものから、背筋をゾクリとさせるような不気味な冷気へ変化した。
鳥乃は身体をぴくりと緊張させて、手を伸ばした姿勢のままゆっくりと振り返った。
先程まで夕暮れに満ちていた部屋。
それが今では青白く染まって、窓から見える空には病的に白い月が上がっていた。
「……一体…………何が起きたというのですか……?」
論理的でない現象に、鳥乃は右足のことさえもわすれて呆然とした。
シン、と辺りが静かになる。
——ズ、ズ、ズ。
そんな沈黙の中、鳥乃は僅かな音に気がついた。
日桜さえ消えてしまったこの世界には、当然自分しか居ないのだろうと考えていたため、鳥乃の心臓はドクリと大きく跳ねた。
重い砂袋を引きずるような、地面に布が擦り付けられるような音が聞こえる。それと同時に、ペタリ、ペタリ、という床と肌が触れ有るような音がした。
何かがおかしいこの世界に、明らかに自分ではないモノの気配が近づいてきているのを感じた。しかもそれは、あろうことか穴の底から聞こえてくるのだった。
鳥乃の足に喰らいついて離さない穴。その下から、何かが這い上がってくる気配を感じる。鳥乃は今すぐにここから逃げ出そうとした。
しかしそれにはまず床から右足を抜かなければならなかった。鳥乃は靴下など壊れてしまえとばかりに、右足を闇雲に引っ張った。しかし床と一体化してしまったかのように、どれだけ強く引こうとも足は抜けなかった。ならばと靴下を脱ごうとするのだが、今度は繊維が足首に絡まって、それすらできない。
音はどんどん大きくなる。それと同時に、闇に面した右足から音と同期して振動を感じるのだった。
「どうして!? なんで!! 早く! 早く抜けてください!」
涙声で、半ばやけを起こすように叫ぶ鳥乃。繊維が足首を強く締めあげて、圧迫された血管がビクンビクンと波打つのを感じたが、力を緩めることはしなかった。
もっと強い力で! 心の中で叫びながら、渾身の力で引いた。ブチブチという靴下の繊維が千切れた音と共に、床から鳥乃の足が離れた。しかしその瞬間、穴から伸びた白い腕が鳥乃の右足を掴んだ。
鳥乃は叫び声を上げて、残った足でその腕を蹴りつける。しかしその足も、下から伸びた2本目の腕によって掴まれてしまう。そして腕はそのまま、鳥乃をたぐり寄せるように穴の中へと引っ張り始めた。
「い、嫌だ! 先輩! 日桜先輩! 助けて!!」
ここに居ない者を求めて、鳥乃は叫ぶ。
床に爪を立てて抵抗をするが、それも虚しく鳥乃の身体はずるずると穴の中へと引きずり込まれていった。
「日桜先輩! 如月先輩! 穹ちゃん! 誰か——!」
かつて自分を支えた者達へ救いを求める。しかし鳥乃を救うものは誰も現れず、そのまま闇へと沈んでいった。
鳥乃が再び目をさますと、両親が心配気な表情で鳥乃を覗いていた。
「うなされてたみたいだけど、大丈夫? 鳥乃ちゃん」
「……えと、ここは……」
窓の外に見える空は青く、車のガラス越しに見える太陽はただ暖かく輝いていた。
うぅ……怖く書けない……。2題目にして早くも挫折しそうです……。