1,広がる漆黒
2013/03/22 に 完全に書き直しました。はい、黒歴史の抹消です……。ふふふふ。
夏休みが始まってから数日が過ぎた。ある朝。
洒落たアパートの一室に食欲をそそる香りが満ちていた。調理場の前に鳥乃は立っていた。清楚な白と落ち着いた緑のワンピースを来た小柄な少女である。髪は黒く、腰まで伸び、小さなリボンで装飾されていた。なかなかお洒落好きな女の子らしかったが、服の上に羽織った黒い布が台無しにしていた。飾り気のない無地のエプロン。丈はトリノの膝を隠すほどに長く、どう見ても男物である。
トリノは鼻歌を歌いながらフライパンを揺らした。ベーコンと卵が熱せられていて黄身はまん丸、白身はベーコンと混ざり合っている。所謂ベーコンエッグというやつだ。
ある程度火が通ったことを確認すると、慣れた手つきで手首を捻る。油の上を卵が滑り、縁に沿って真上へ跳ねた。海面から飛び上がるイルカのように華麗に半回転すると、鉄板の上にペタンと戻ってくる。
特別なことなど何もない。朝の光景であった。
トリノは何事も無かったかのように料理を続ける。
「——という訳でして、明日から一週間ほど里帰りしますね」
フライパンを監視しながらトリノは言った。
「おう、のんびりしてこい」
日桜がリビングで答える。彼はこの部屋の主であり、トリノの着るダボダボなエプロンの持ち主でもあった。大柄な男で、獅子を人間にしたらこんなかんじなのではないかという外見である。
ヒオウとトリノは、同じ学園から進学した。とはいえ年齢は1つ離れており、猪突猛進な先輩と、文句を言いながら後ろを追いかける後輩という関係であった。それから色々あり、今では恋人というありがちな関係で落ち着いた。
「私が居なくて寂しくても、我慢してください」
「むしろ居なくてせーせーするぜ」
元気いっぱいのトリノに、ヒオウのテンションは低い。トリノが居なくなることを嘆いている訳ではない。ただ朝が弱いだけだ。
犬歯を見せてヒオウは欠伸をする。
「これでしばらくは昼間まで寝てられると思うと、待ち遠しいぜ」
「む! 酷い! 酷いですよ先輩!」
フライパンから皿にベーコンエッグを移しながらトリノは言った。
「夏休みが始まったってのに毎日8時に起こされる身になってみやがれ」
「健康的でいいじゃありませんか? 私になんて6時には起きてますよ?」
「どこの老人だ……」
「こんな可愛い後輩捕まえておいて、そんなこと言いますか!」
ッキ、と睨みつけると、ヒオウは再び欠伸をしていた。
「むー!! そんな先輩はご飯抜きです!」
「あ! おい、てめぇ! 卑怯だぞ!」
リビングに持っていった料理の皿を、抱きかかえるようにして持ち上げると、ヒオウの腕を掻い潜って壁際に逃げた。
「さぁ先輩! 無事朝食にありつきたいなら——」
勝利を確信して、胸を張る。両足をつっぱらせた時だった。
バキリと、嫌な音がした。同時に右足から地面を踏む感覚が消えた。
「——え?」
とっさに状況が理解できなかった。スロー再生をしたように世界がゆっくりと流れた。ヒオウは驚いた表情を浮かべたが、次の瞬間には走りだした。
ヒオウが、壁が、光が、色々なものが傾いていく。トリノは自分が倒れかけていることにやっと気がついた。受け身を取ろうと慌てるが、右足が何かに引っかかった。目を向けると、床に穴があいている。
トリノは床を踏み抜いた。ガラスの食器を持ちながら倒れることは危険である。しかしとっさに頭によぎったのは、自分の体重が何キロだったかということだ。
身長は平均以下である。そして体重ももちろん平均を遥かに下回っていた。とすれば床が劣化してのだろうか。
「ふぅ……間一髪だぜ」
横からトリノを抱きとめてヒオウが言う。
「……あ、ありがとうございます……」
トリノは頬を染めながら言った。なんだかんだでヒオウは頼りになるし、格好良いと再確認した。
「気にすんな! もしお前があのまま転んだりしたら、俺は——」
ヒオウは優しげな顔を浮かべて、トリノを見下ろした。
「——せ、先輩……」
心臓をドキドキと鳴らしながら、ヒオウを見上げる。
やがてヒオウは、ゆっくりと口を開いた。
「今日の朝飯が食えなくなるんだぜ! あぁー腹減った。早く食おうぜ!」




