9,黄昏の哄笑
残り10題になりました。始まったばかりですが、そろそろ最終お題に向けて整理しながら進めていきます。
ワンルームアパートに、夕日が射し込んでいた。ヒオウは欠伸をつきながら、床に座っている。トリノが実家へ帰って一週間がすぎた。朝はのんびり寝ていられるが、毎日が驚くほど退屈に感じた。夕飯の買い出しにでも行こうか。そう思ったとき、誰かの声が聞こえた。壁の薄いアパートだ、隣の住民の声くらいは聞こえる。しかしそれとは違うことが直感的に分かった。
すぐ近くから聞こえた。誰かが泣いている。聞いたことのある声だった。誰の声だったか思い出せないが、ひどく懐かしい声だった。ヒオウは立ち上がり、声の主を捜した。驚くことに、すすり泣きはトリノが開けた穴から聞こえていた。聞き間違えかと、耳を近づけるが、間違いなかった。
「誰かいんのか?」
夕暮れのコントラストが強すぎて、穴の先がどうなっているのか、全く見えなかった。
「おい!」
声を上げる。とたん、何か白く細長い、腕のようなものが延びてきて、ヒオウの頭を掴んだ。
「——うおぉ!?」
不意打ちで、ヒオウは思わず声をあげる。腕はもの凄い力で、ヒオウを穴の中へと連れ込んだ。意識は一度、そこで途切れた。
再び目をさますと、座卓に突っ伏していた。身体を起こして、あたりを見回した。窓からは夕日が射し込んでいる。狭いワンルームは燃えるようなオレンジに染まりきっている。
「夢……か?」
ぼそりとぼそりと呟いた。視線を机に落とす。新聞が乗っていた。
「なんだこりゃ?」
首をひねってみるが、買った覚えはなかった。おもむろに腕を伸ばして、テレビ欄でも見る。眉をひそめた。内容が古い。ヒオウは日付を確認する。今から20日以上前の新聞だった。机に放り投げようとした。そのとき一面を飾っている記事が目に入った。
《バス転倒。崖に落ち40人が死亡》
内容に目を通す。旅行会社のバスが事故をおこすというよくあるものだった。道路にはブレーキを踏んだ黒い後が残っており、バスの前を動物が横切ったため事故が発生したのでは、と書かれている。トリノが帰ってきたら、旅行にでも行こうかと話しになっていた。しかしバスはやめよう、とヒオウは思った。
偶然、死亡者リストでそれを見つけた。
「……おい……おいおい! 嘘だろ!!」
思わず声が出た。新聞に食い入るように顔を近づけた。
知り合いがいる。それも二人だ。一人目がキサラギ、もう一人がソラである。同姓同名の可能性もある。しかしこの二人は、非常に仲が良く。ヒオウの目からすれば恋人同士なのでは、と思えるほどだ。お忍びで二人で旅行に出かけた、という可能性は大いにあった。
ポケットに手を突っ込み、携帯電話を掴む。手始めにキサラギへ連絡を取った。この電話は現在使われていない、と返ってきた。ソラにもかけるが同様だった。
二人の無事を確認したい。こういった場合どうすればいいのか。
「け、警察ならなんか知ってるはずだぜ!」
ヒオウは立ち上がり、玄関に向かって走った。靴に脚をつっこむと、扉を押した。オレンジに染まる通路が、まっすぐに延びている。ヒオウは焦っていた。しかし踏み出さなかった。目を見開き、立ち止まった。通路に、赤い線が延びている。大量のインクで湿らせた、極太の刷毛で引いたような線だ。階段から延び、ヒオウの足下へ引かれていた。赤い線の付近には、同色の手形がいくつもついている。
血に濡れた何者かが、這って出来た後としか思えた無かった。
ヒオウは振り返った。さっきまでは夕日のオレンジに混ざっていたせいで分からなかったが、血液の線は玄関から部屋の奥、トリノが開けた穴へ延びていた。手形から見て、おそらく階段からあがってきて、穴の中へ入っていったのだ。
「は、はは……」
顔を青くして、思わず笑った。冷静に分析すれば、手の込んだ悪戯だと、言ってやりたかった。しかし、ヒオウはある程度確信を持っていた。二人が会いに来たのだ。
目は、まだ穴を見ていた。呆然としていると、穴の下から、夕闇にまみれて黒い陰が音もなく延び上がる。まるで水面から顔を出すようにしている。
ヒオウを見ている。
身体が硬直した。