第2話 蛸山朋美登場
部活を引退したばかりの、同心館大学総合格闘部の面々は
鬼と呼ばれた先輩“蛸山朋美”からの招集を受け、
とあるプロレス会場に足を運ぶのであった。
格闘技の殿堂。
このように形容される会場は古今東西、数知れずある。
あるものにとっては、武道館や両国国技館などの大会場がそうであったり、またあるものは後楽園ホールこそが一番と主張するだろうし、最近ではNKホールや川崎球場の名を挙げるものもいるかもしれない。
地域の特性も大きく関係する。
九州の人間なら博多スターレーンははずせないところだろうし、北海道の人々にとっては今はなき札幌中島体育センターの名を忘れはしないだろう。
さて、ここに関西を代表する会場のひとつ、大阪府立体育会館がある。
大阪はミナミの繁華街に堂々と鎮座するこの会場は、中心部の喧騒からは少し外れた場所にあるものの、大阪特有のコテコテベタベタの熱気はそのままに、数ある体育関係の会場の中でも独特な個性を放っている。
メインアリーナの方では、連日大きな大会が催されている。プロスポーツにとどまらず競技人口の多い球技関係の学生大会なども日程に組み込まれており、なかなかの盛況を見せている。
一般の人々がここを訪れる場合は、大体このメインアリーナへと足を運ぶ。
だが本格的に格闘技好きの人間はまず第2競技場の予定をチェックする。
この第2競技場こそが、関西の人間(特にコアな格闘技ファン)にとっての格闘技の殿堂だからである。
ここから未来のスーパースターや、テレビやマスコミが取り上げない幾多の名勝負が生まれるのである。
格闘技を愛するものたちなら足を運ばずにはいられない場所であろう。
さて、そんな第2競技場の本日の予定表には、やはり一般人ならまるで気にとめないようなプロレス団体名が記されている。
GaPa (ギャパ)
関西を中心に活動する独立系のプロレス団体で、正式名称は"学生・アマチュア・プロレスリング・アソシエイション"GaPaはその略称だ。
学生という言葉は含まれているが、実際の学生は参加していない。昔は何名かいたらしいのだが、団体が少しずつ認知され始め観客がシビアな戦いを求めることが多くなると、自然消滅という形でいなくなったらしい。
ただ、若干18歳の少年も選手として参加しているので、その看板(団体名)には偽りなしと関係者は言いきっている。
6年前の冬に、元メジャー団体のメイン・エベンターでF・F・W世界ヘビー級チャンピオン(現在消滅)にも輝いた経験を持つ、多様な関節技を得意とする実力派レスラー富士山秋吉を中心に企画、春に旗上げ。一般人がリングに上がるチャンスのあるプロレス団体として、一応注目された。
しかし、すでに飲酒が原因で身体機能がボロボロの富士山と素人同然の選手たちの試合は、目の肥えたマニアには茶番以外の何物でもなく、団体の存続は旗上げ2年目にして風前の灯となったのである。
そんなギャパを救った男がいる。
当時、大学のクラブを引退したばかりのアルバイトレスラー、現在の"マスク・怒・オクトパス(覆面レスラー)"、本名、蛸山朋美がその人である。
蛸山朋美は同心館大学総合格闘部の第7代目の主将だった。
入部当初、まだサークルのように和気あいあいとした雰囲気のあった部を痛烈に批判。
1回生でありながら、当時の幹部を相手に目隠し組み手を敢行(目隠しをつけた状態でスパーリングをすること、総合格闘部名物のひとつ)。圧倒的強さで全員を秒殺。
以後、部員はほとんど練習に来なくなる。が、総合格闘部の成績は蛸山一人の力で全国的に有名になる。
テレビの取材なども来るようになったが、蛸山は2回生になると取材を全て拒否。
自身も格闘技の大会への出場をやめ、後輩の育成に全力を傾けるようになった。
その蛸山が、現役として最後にかかわった部員が、青空たち、第10代の幹部というわけだ。
そして、その青空たち6人は今、先日の蛸山の電話に従い、指定された待ち合わせ場所である大阪府立体育会館の前に立っている。
全員学ラン着用。彼らにとってはこれが正装なのだろう。見た目に暑苦しい。
「ねえ、もうそろそろ時間だろ?」
薄い髪の隙間を流れる汗を滴らせながら、志摩犬健が懇願するように言った。
「こっち向くなよ、暑苦しい!
指定された時間の5分前に会いに行くのが、あの人に対する礼儀やろ!
まだ早い!あと5分待て!!」
基樹が直立不動のまま言う。彼らはもう20分近くこの姿勢を保っている。
「どこで見てるか分からんからな、こうして30分前に集合して整列しとけば、まず問題ないやろ」
沢下博が自分に言い聞かせるようにつぶやく。
クラブとして参加する大会などがあった時には、彼らはいつもこうして先輩が来る集合時間の30分前に集まったものだ。
彼らが礼節を重んじるスポーツマンだったからではない。
ただ単純に先輩たち、特に蛸山を恐れていたせいだ。
「でも、久しぶりに学ラン着たら暑いなぁ。ブニョー」
元瀬敏男が心底疲れたような声を出す。
朝剃って来たはずのひげが伸びはじめ、マンガチックな泥棒顔になっている。
ちなみに今は午後2時半前、初夏とはいえ一番暑い時間帯である。
「なー、望ぃちょっとだけジュース飲んできたらあかん?フヒー」
「どうせ、イチゴ牛乳やろが。さっき飲んでたやろ!?」青空が直立のまま返事をする。
「ストックしてたぶんがなくなってん」
「知らんがな。とにかくここにおれ!タコ山さんがもし来たらどうすんねん!」
「ハホホー」
どうやら敏男も納得したようだ。
イチゴ牛乳を飲みたいという気持ちも、蛸山のことを考えると我慢できるらしい。
黙って整列していた6人だったが、少し沈黙が破られたことで次々に口を開き始める。
まず、今日これからのことについて素朴な疑問を口にしたのが名月純だ。
「それにしても、オレたち何させられんだろ?」
続いて健が緊張感の抜けた声で言う。
「プロレスラーになれって、本気かなぁ。
ボク、マコタンから公務員試験受けるように言われたんだけど……」
「おまえはどうなってもええとして、オレは絶対嫌やぞ。
ママを安心させるような仕事につかなあかんのやから」とは青空。
「お前ら、どっちもどっちじゃ、アホ」
二人の間に立っていた基樹が、健の足を踏みつけ青空の脇腹にひじを入れた。
それが引き金となって、沈黙は一気に壊れてしまう。
「オレとイヌを一緒にすんな、ボケ!」
「そうだよ、望には彼女がいないじゃないか!」
「そうゆうことちゃうわ!アホイヌ!」
「黙れ!どっちにしろお前らおんなじ変態じゃ!!」基樹が叫ぶ。
「一番変態はお前だろ?レイコママ?」純が茶化す。
「なんやと、名月。もっぺん(もう一度)言ってみい」基樹が切れる。
「やめとくよ。またレイコママに出てこられちゃ迷惑だし」さらに純。
そのとげのある嫌味な言い方に腹を立てた基樹が、ついに整列していた列をも乱して純に襲いかかる。
「くそお、大体クラブ引退したのに、何でお前らと休みの日まで顔合わせなあかんねん!?」
「それとこれとは関係ねえだろ?相変わらず頭わり悪いな、お前」
「なんやと、こらぁ!?」
「い、今のうちにコンビニ行ってイチゴ牛乳買ってこよかな、ムヒ」
「ちょっと、いいかげんにせえよ。そろそろ時間やぞ」
と、一人だけ冷静だった博が二人の間に割って入る。
「知るか!!文句があるんやったらこいつに言え」基樹が言う。
「オレは何もしてねえだろ、事実を言っただけじゃねえか」純もひかない。
「その言いかたがむかつくんじゃ!」
「ねえ、やめなよう。みんな見てるよ?」うろたえる健。
「そうじゃ、ポリさん(警察官)も来よるぞ」
と言って二人の間に入ったのは青空。
府立体育館の入り口には派出所が建っているからだ。
やはり元主将として、人目につく場所でのもめごとは止めておきたいのだろう。
「お前、関係ないやろ!?」
「いや、一応主将として注意を……」
「誰もお前のこと、主将やと思ってないって」
やれやれ、といった感じで博がつぶやき、ため息をついた。そしてさらにこう続けた。
「ホンマ、付き合いきれんわ。お前ら」
「誰もお前に付き合ってくれって言ってないやろ」
主将の威厳?を壊された青空が怒りをあらわにして言う。
「それに、お前が付き合えるんは女を捨てたうちらのマネージャーだけやないか」とさらに続ける青空。
「ハイハイ。でもお前らよりよっぽどマシじゃ」博は取り合わない。
「……くそ、なんかむかつくわ。お前」簡単に切れる青空。
「何や、やんのか?」そして簡単にのってしまう博。
「もう、やめなってばぁ、みんなカルシウム足りないんじゃないの?」
と、間に入り騒ぎをおさめようとする健だが、やはり相手にされない。
基樹VS純。博VS青空。レフェリー健という図式が出来上がりかけたところで、敏男がのん気にイチゴ牛乳を抱えて戻って来た。
「ホヘ?」
のんびり歩いていた敏男が急にイチゴ牛乳を地面に落とし、反り返るほどに背筋を伸ばした。
スケベそうな細い目がこれでもかというほどに見開かれている。
その後で敏男が叫んだ言葉は、言い争っていた他の5人をも一瞬にして彼と同じ状態に変えてしまう。
「失礼します!!こんにちは!!第10代幹部ここに全員そろいましたぁっ!!」
普段の敏男からは想像もできないような真剣な叫び声が体育館の入り口に響き渡る。
言うまでもなく、敏男が深深と頭を下げたその先には、こめかみを怒りで震わせた蛸山が腕を組んで立っていた。
「……、とりあえず控え室に行こうか?ん?」
蛸山はそう言うときびすを返し、会場へと消えていった。
お互いの顔を見つめあい非難の視線を送り遇う6人。
「早よ来いよ…」
なぜかやさしく響く蛸山の声がいっそう恐ろしげに聞こえた。
……逃げたい。
6人は決して実行できない同じ思いを抱えながら、重い足取りで蛸山の背中を追った。