濡れ衣で「水を薄めたのはこの娘」と寄合に名指しされた豆腐屋は、型枠を伏せて水の切り目をお見せします——朝の台が空いて、お宅の角だけ崩れましたわね
「水を薄めて売ったのは、この娘です」
義姉さんの指が、わたくしの鼻先へまっすぐ伸びた。
その爪の先に吊るされた罪より、寄合の卓へ置かれた豆腐の角のほうが気になった。へにゃり。わたくしなら朝の店先へ並べる前に、桶へ戻して自分で食べる。葱を山ほど載せても、お銭はいただけない角である。
しかも、わたくしの豆腐ではない。
朝の水で締めた角は、もっと澄ましている。冷たさを知らぬ指が作る豆腐は、寝起きの猫よりだらしない。
「お妙が水を足したのです。わたくしは身内ですから、できれば内々に済ませたかったのですけれど」
今度は名まで載せられた。
罪というものは、大豆より手軽に人の名へ載るらしい。升も要らない。義姉さんの指一本で一人前、寄合の相槌が五つつけば大盛りである。たいそう景気がよろしいことで。
「そうかい」
「水を薄めたなら、そりゃあいけない」
「朝の豆腐を買った客に顔向けがな」
寄合の者たちが、卓を囲んだまま短く声を重ねる。誰ひとり豆腐へ指を入れず、匂いも嗅がず、角も持ち上げない。義姉さんの声だけで品定めを済ませるなら、朝四つに起きる者など世の中から絶えてよろしい。
わたくしは卓の豆腐を見た。角の下に水が溜まり、白い肌へ晩の鈍い締まりが残っている。
十二年、朝の水へ両手を入れてきた。その仕事が、いま豆腐一丁より軽く卓へ載せられている。おまけに勘定書きの名は、お妙。返品は受け付けていただけるのかしら。
「義姉さん」
「言い訳はあとになさい。まず皆さんへ頭を下げるのが筋でしょう」
問いもまだ差し上げていないのに、たいへんよく育った答えが返ってきた。あの帯の固さなら朝の豆腐が二百丁。ずいぶんきつく締めておいでなのに、朝の水の冷たさはご存じない。
義姉さんは帯の上へ片手を置き、もう一方の指をわたくしへ残した。二本しかない腕を罪と体裁へ一本ずつ。豆腐屋の朝を支える腕は残っていないらしい。
「豆腐など、大豆を挽いて固めるだけでしょう。誰が作っても同じものです。それをこの娘は、自分にしかできないような顔をして」
「まあ、豆腐は豆腐だ」
「同じ大豆ならなあ」
相槌が増えるほど、義姉さんの顎が上がった。
「そうでしょう? 嫁いできたわたくしが帳面も客も見ているのに、お妙は朝場へ入るだけで職人のつもりなのです。家の商いを自分のもののように申して。身内だからこそ、ここできちんと叱っておかねばなりません」
豆腐は誰が作っても同じ。家の商いは義姉さんのもの。失敗だけはわたくしのもの。三段重ねとは豪勢だ。豆腐なら重みでいちばん下が潰れている。
「身内なら、なおさらだ」
「ああ、甘くしちゃいけない」
義姉さんは満足そうに頷いた。その背後には息子がいる。わたくしより背が高くなったその人は、卓の型枠を見ず、板の間の節ばかり踏んでいた。
義姉さんが半歩、息子の前へ出た。
その半歩は豆腐へ換算できない。できないが、朝場の狭い土間なら、桶一つを隠せる幅だった。
「お妙。家へ迷惑をかけたのです。口答えをせず、お詫びなさい。それから当分、朝の商いには——」
「もう一月、入っておりません」
義姉さんの語尾をいただいて答えると、寄合の者たちの目が少しだけ動いた。知っていた顔と、いま初めて聞いた顔が半々。朝の客は豆腐を見ても、誰の指が水へ入っているかまでは見ないものだ。
「それは、あなたが勝手をしたからでしょう」
「さようでございますね」
ひと月前、義姉さんはわたくしを朝場から退かせた。家のため、頭を冷やすため、若い者に任せるため。たいそう便利な『ため』が三つも並び、わたくしは桶へ触れるなと言いつけられた。
ですから触れていないことになっている。
昼下がり、裏口から差した陽が汲み置きの桶へ半尺かかっていた日も。翌日は一尺。誰も動かさぬので、通りがかりに日陰へずらした。頼まれてはおりませんけれど、晩の四十丁が崩れるよりはましですもの。
一尺ずらす手間は、豆腐なら半丁にもならない。けれど桶をそのまま炙れば、四十丁が客の前でお辞儀をする。わたくしは豆腐より先に頭を下げる趣味がないので、黙って動かしただけである。
「朝場へ入れなかった腹いせに、水を足したのでしょう」
義姉さんの声がさらに張った。
「違うなら、違うと証を立てればよいのです。けれど、お妙にはできません。作った当人なのですから」
「そうなのかい、お妙」
「何か言うことは」
寄合の声は短い。わたくしに渡された言葉も短い。人ひとりの十二年へ、ずいぶん小さな升をお使いになる。
卓の端で、お槇さんだけが豆腐ではなく型枠を見ていた。六十一になる肝煎は、慰めの言葉を大安売りしない。目尻ひとつ動かさず、木の縁へ残った濡れ色を追っている。
「ございます」
わたくしは手を卓へ置いた。朝の水に慣れた指は、夏でも節が白い。いま奪われかけているのは豆腐数丁の代ではなく、この指が十二年受け持った朝と、それを請けるわたくしの名だった。
「水には、時刻がございます」
「水は水でしょう」
義姉さんがすぐに被せた。わたくしの声が荒れないうちは、いくらでも言葉を積めるらしい。よくお積みになる。あと三言で豆腐一丁分、五言で油揚げもお付けしよう。
「朝の水は冷たく、締めたあとも型枠へまっすぐ筋を残します。陽を吸った晩の水は緩みますので、端で折れます」
「そんなもの、あとから何とでも——」
「お妙は昔から、細かなことばかり申すのです。桶の置き場がどうとか、陽が半尺差したとか。豆腐は食べれば同じですのに、自分だけが知っているように振る舞って」
「半尺でも、四十丁にはよく効きます」
「また口答えを」
義姉さんは息子の前から動かない。その袖の後ろで、息子の手が一度だけ握られた。型枠へは伸びなかった。
「では、この型枠は朝のものではないと?」
お槇さんが尋ねた。
「はい」
「お妙が使ったものでもない?」
「はい」
「お槇さん、この娘は叱られまいとして——」
お槇さんが顔を上げると、義姉さんの続きが一息ぶん遅れた。わたくしへは途中で言葉を切るのに、お槇さんの問いが終わるまでは待つ。待てるのではありませんか。なんと選り好みの激しいご辛抱。
「お貞。あんたの息子が使った型枠は?」
「それはいま、ここには。ですが、うちの名にかけて、この娘が」
息子の袖を押さえてから、義姉さんは答えた。家の名は出てきたが、型枠は出てこない。名というものは、木より持ち運びが楽で困る。
「この枠だけでいいよ」
お槇さんの指が、卓の上をひとつ叩いた。
「伏せてごらん」
笑っていた者の口が閉じた。
わたくしは型枠へ両手をかけた。木はまだ湿っている。重さは知っている。角も、底板の噛み方も、十二年、暗いうちから指で確かめてきた。
持ち上げる。
返す。
伏せる。
底に隠れていた水の切り目が、寄合の灯りへさらされた。
筋は途中までまっすぐ走り、端でくたりと折れていた。朝の冷たい水なら、あんなところで膝をつかない。
義姉さんの指は、わたくしを差したまま止まった。背後の息子は顔を上げたが、型枠の正面には立たない。寄合の者たちから、さきほどまでの笑いが一息に抜けた。
わたくしは濡れた縁へ指を置いた。
「わたくしは朝の水で、十二年、指をしびれさせてまいりました」
指を離した。
「人違いでございましょう」
義姉さんの頬から、世話を焼く人の笑みが消えた。差していた指がゆっくり下がり、帯へ戻る。二百丁ぶん固く締めた帯も、折れた筋をまっすぐにはできない。
お槇さんは義姉さんを見た。寄合の者たちも、今度はその視線についていった。
そして戻ってきた目が、わたくしの指と、伏せられた型枠の筋を見た。叱られる身内の娘へ向ける目ではなかった。朝の仕事を知っている本人へ、品を確かめる目だった。
どうぞ、よくご覧あそばせ。
十二年分、たった一本の筋でございます。
* * *
「お妙が水を薄めたという断定は退ける」
お槇さんは伏せた型枠へ手を置いたまま言った。慰めも前置きもなく、寄合の卓へ裁定だけが落ちる。
「確かめず名を挙げた家には、町の朝は任せられない。お貞、あんたの家は明日から朝の請けを外す」
「お待ちください、お槇さん。うちの名にも関わります。身内の行き違いで町の商いまで止めるなど——」
義姉さんは先に家の名を抱えた。わたくしの名を罪へ差し出したときより、両腕が素早い。
「止めるのは町じゃない。朝を知らない手だよ」
お槇さんの声は低く、数字も飾りもなかった。義姉さんの唇が開いたままになり、帯の上の指だけがきつく曲がる。
これで終わり、とはいかない。商いは裁定だけで豆腐になってくれない。腹立ちは薪にならず、胸のすく音では釜も沸かない。世の中、そこだけは実にけちである。
わたくしは預かっていた大豆の俵へ札を合わせ、升目と数を寄合の者たちの前で確かめた。一粒も余計に持たず、一粒も足さない。わたくしの腕まで家の預かり物にされてはたまらないので、勘定が合ったところで手を離した。
「型枠は、こちらへ貸しておきます」
伏せたままの型枠を寄合の卓へ残した。折れた筋は乾けば薄くなるが、見た者の目までは乾くまい。
「お妙、家へ戻って話を」
「朝の請けを外れた家へ、朝場の者が戻る用はございません」
義姉さんの背後で、息子はまだ黙っていた。朝の台に立つとも、型枠を確かめるとも言わない。わたくしはその袖を見ず、寄合を出た。
翌朝、いつもの刻に目が覚めた。
目覚ましなど要らない。十二年ぶんの朝が骨へ染みている。まだ暗い天井を見上げ、起きる理由がないことを思い出したのに、指だけは布団の外で冷たい水を探していた。
それでも、家の朝場へは行かなかった。
桶を日陰へ動かす手も、釜の火を見て大豆の具合を読む目も、型枠の角を指で探る者も、今日は貸し出しを終えております。お代をいただいていないどころか、罪までいただきかけたので。当然の品止めである。
陽が屋根を越えるころ、町の朝の台には誰も立たなかった。
やがて義姉さんの家から豆腐が運ばれてきた。朝と呼ぶには遅い刻で、桶は日向へ出たまま。水はぬるみ、白い四角は盆の上で肩を落としていた。
義姉さんが一丁を持ち上げる。
(豆腐なんぞ、大豆さえあれば誰でも——)
角が指の間で崩れた。
盆へ落ちた白い欠片を前に、義姉さんは口を閉じた。息子は台の後ろにいたが、客の前へは出ず、濡れた布を握っているだけだった。
「これを売るのかい」
「昨日のより緩いな」
「朝のは、まだか」
寄合で相槌を打った者たちの声は、今度も短かった。けれど義姉さんの背を押す声にはならない。一人が銭を握り直し、もう一人が空いた朝の台を覗き、それからわたくしの姿を探して通りへ顔を出した。
「お妙は?」
罪を載せるためでなく、豆腐を買うために呼ばれた最初の一声だった。
わたくしは答えなかった。まだ請けてもいない朝へ、無料で返事まで納めるほどお人よしではない。返事一つで豆腐半丁。今朝は半丁すら作っておりません。
日が上がるほど、桶の水は緩んだ。誰も置き場を直さない。昼には売れ残りの角が盆へ貼りつき、晩には四十丁どころか、売り物と呼べるものが数えるほどになった。
次の日も、その次の日も、朝の台は遅れて開き、角の崩れた豆腐が残った。
わたくしは手を出さなかった。
もう、よその桶である。
ひと月で、朝いちばんに来ていた客が来なくなった。ふた月で、まとめて買っていた者が別の道を通るようになった。半年も経つころには、義姉さんの家の台に残るのは、豆腐より空いた升目のほうが多かった。
得意先は、説教では腹を満たさない。家の名を味噌汁へ入れても、具にはならない。
寄合で囃した者たちは、一人ずつわたくしのところへ来た。揃って頭を下げるほど美しくはなく、桶を抱えたり、空の盆を持ったり、目を合わせぬまま朝の数だけ口にした。
「二十丁、頼めるか」
「うちは十五だ」
「朝のうちに欲しい」
謝罪より先に注文とは、じつに商い手らしい。わたくしも慰めより銭のほうが好きなので、そこは気が合う。もっとも、寄合で安売りされたわたくしの名まで、同じ値で引き取るつもりならお断りである。
「どなたへ頼んでおいでです?」
三人の口が止まった。
空の盆を持った者が、持ち手を握り直した。
「お妙に」
「家の朝場へではなく?」
「お妙の朝を頼みたい」
ようやく正しい品名になった。
胸の内で丁数へ換算しかけ、やめた。これは豆腐何丁ぶんでもない。わたくしの名で受ける注文は、まだ一丁目にもなっていなかった。
お槇さんが、その三人の後ろから新しい型枠を運ばせた。縁はまだ白く、刃の跡も若い。朝の水を一度も吸っていない木が、わたくしの前へ置かれる。
「お妙」
「はい」
「あんたの朝に、町は月いくら払えばいい?」
いつもの癖なら、すぐ計算できた。
大豆が何升、薪が何束、手間が何刻。義姉さんの帯なら何本、お説教なら何言、日向の桶なら失敗が何十丁。わたくしの頭は他人の浪費へ値をつけるのが、たいそう速い。
けれど、自分の十二年に値を尋ねられた途端、ひとつも丁数が浮かばなかった。
お槇さんは急かさなかった。寄合の者たちも相槌を挟まない。朝の水が桶へ満ちるように、わたくしの答えを待っていた。
わたくしは指を開いた。節の白さも、爪の脇の固いところも、もう家の手伝いの跡ではない。値を受け取り、品を渡し、名を載せる職人の手である。
「まずは朝の四十丁から請けます。大豆と薪は別勘定。水を汲む者を一人、日の出前に寄越してくださいませ」
「月の値は」
お槇さんは数字を逃がさない。
わたくしは息をひとつ吸い、十二年の手間を安く丸めずに額を告げた。寄合の者たちが顔を見合わせる。高いと言う者はいなかった。崩れた角を半年も買ったあとの舌には、まっすぐ立つ朝の値がよく分かるらしい。
「それで頼む」
お槇さんは一度だけ頷いた。
お槇さんは新しい型枠へ目を落とした。
「では、名を入れな」
細い彫り刀が型枠の横へ置かれた。
わたくしは新しい木の縁へ左手を添えた。右の親指で刃を押し、一画ずつ彫る。朝の水でしびれた指は、木へ入っても震えなかった。
お。
妙。
罪を載せるために呼ばれた名が、今度は朝の四十丁を請ける名になった。家の名を借りず、誰かの袖へ隠れず、代も責任もこの二文字へ載る。
翌朝、わたくしは日の出前に水へ手を入れた。
冷たい。腹が立つほど冷たい。十二年も付き合ってきて、再会の挨拶がこれとは愛想がない。けれど指の奥まで痺れが届いたとき、釜の湯気も、潰した大豆の匂いも、ようやく正しい場所へ戻った。
型枠へ布を敷き、豆乳を流し、重しを載せる。余分な水がまっすぐ落ちる。木の縁に彫った名は、まだ白い木屑を溝へ残したまま、朝の水を初めて吸った。
最初の四十丁は、角まで立った。
空いていた台へ並べると、通りの向こうから声が上がった。
「お妙の豆腐だ」
「お妙、こっちへ二丁」
「うちは四丁だよ」
家の豆腐でも、あの家の娘の豆腐でもない。お妙の豆腐。一丁呼ばれるたび、名が罪ではなく銭と朝を連れてくる。これはなかなかよい商いである。できるなら十二年前からそう呼んでいただきたかったけれど、そのぶんは今後きっちり頂戴しよう。
昼前、最後の一丁を渡したところで、門前に義姉さんが立った。
帯は以前ほど固く締められていない。後ろに息子はいなかった。義姉さんは型枠の縁に彫られた名を見てから、わたくしへ頭を下げた。
「お妙。あのときは、わたくしも気が急いていて、確かめ方が足りませんでした」
詫びはそこまでだった。
「けれど、もとは同じ家の商いでしょう。うちの名でまた朝を請ければ、客も安心します。大豆も用意しますし、あなたも家へ戻ったほうが——」
なるほど。わたくしの指と朝と客を一揃い、家へ戻せば、たいそうよく整う。義姉さんの勘定では。
わたくしは売り切れた盆を拭き、新しい型枠を持ち上げた。縁の「お妙」が朝の水を吸い、少し濃くなっている。
「人違いでございましょう」
義姉さんは口を開いたが、もう寄合の相槌はない。わたくしの朝を待つ空の盆だけが、次の四十丁の数をきちんと並べていた。
桶へ手を入れる。陽はまだ差していない。
明日の朝も、わたくしの名で請けられる。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




