第45話「住んで、いいか」
朝の市場に、知らない荷物の音が混じっていた。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
市場はまだ開ききっていなかった。ヴェラのパン屋の奥で、板を立てかける音がした。ダンの店の前では木箱が2つ、いつもの場所に置かれた。リコの足音は井戸の方に走って、すぐ怒られて戻ってきた。
そこまでは、いつも通りだった。
違ったのは、街道の入口だった。
足音が3つ。大人が2人と、子どもが1人。荷車の輪はない。木箱を抱え直す音と、革袋が肩に擦れる音だけが、ゆっくり近づいてくる。
(行商人じゃないな)
行商人なら、もっと軽い。売る物を見せる前の声がある。朝の市場に入ってくる前から、値段と冗談の匂いがする。
今朝の足音には、それがなかった。
ネアの足が、家の戸口で止まった。
「……人」
短く言って、扉を開けたまま外に出た。
俺はポケットの布越しに、ネアの体温と鼓動を感じていた。速くはない。けれど、いつもの仕事場へ向かう歩幅でもなかった。
◆
市場の人の足音が、少しずつ街道の方へ寄っていった。
ヴェラがパン屋の前で止まり、ダンが箱を置いた。リコは怒られたばかりなのに、また井戸の縁から顔を出していた。奥の路地からも、何人かが出てきた。出てきただけで、誰も入口までは進まなかった。
「誰だ」
ダンの声だった。低い。
「見たことないねえ」
ヴェラの声は軽くしようとして、少しだけ失敗していた。
3つの足音が、街道の入口で止まった。大人の男が木箱を地面に下ろす。箱の角が石畳に当たった音で、中身がぎっしり詰まっているのが分かった。女の方は革袋を抱え直した。子どもの足は、2人のすぐ後ろで止まっている。
「ここが、イシュラで合ってるか」
男の声だった。
市場の音が薄く止まった。
「……イシュラ、ね」
ダンが答えた。
「廃都なら、ここだ」
男は少し黙った。足を引く音はなかった。子どもの呼吸だけが浅くなった。
「じゃあ、合ってる」
女が言った。
それだけだった。
ヴェラの足が、少しだけ前に出た。
「あんたたち、迷ったんじゃないのかい」
「迷ってない」
男が言った。
「聞いて来た」
市場の奥で、誰かが小さく咳をした。リコの足が井戸の縁で滑って、すぐ止まった。
(聞いて来た、か)
俺は念話を繋がなかった。ネアも何も言わない。ポケットの外で、ネアの指が布をつまんだまま止まっていた。
◆
「何を聞いた」
ダンが言った。
男は答える前に、木箱の持ち手を握り直した。
「水が飲める」
女が先に言った。
「畑も、少しは育つって」
市場の足音が、また止まった。
水。
作物。
その2つは、ここでは当たり前の言葉ではなかった。少し前なら、冗談にもならなかった言葉だ。井戸の水は濁って、畑は土の顔をしているだけだった。育つのは雑草と、諦める手つきくらい。
今は違う。
井戸の縄は朝からよく動く。畑の土は踏むとわずかに湿っている。ヴェラの店の裏では、昨日も小さな葉が増えていた。
誰も、それを大きな声では言わなかった。
「誰から聞いた」
ダンの声は同じ低さだった。
「街道のパン売り」
男が答えた。
「それと、塩を運んでた男。ここは空き家があるって」
「空き家なら、ある」
ヴェラが言った。
言ってから、少し黙った。
「屋根があるかは、別だけどね」
女が、ほんの小さく息を吐いた。笑ったのか、息が抜けただけなのかは分からなかった。
「屋根は直す」
男が言った。
子どもの足が、前に出た。
「井戸、ある?」
市場の何人かが、井戸の方を見た、らしかった。足の向きがそろって動いた。
リコが井戸の縁から飛び降りた。
「あるよ」
声が大きすぎた。
ヴェラに「リコ」と低く呼ばれて、リコの足が一気に小さくなった。
◆
男は市場の中を見回している、らしかった。足は動かない。荷物も置いたまま。逃げる準備より、置く場所を探している重さだった。
「住んで、いいか」
その一言で、朝の市場がまた止まった。
誰もすぐには答えなかった。
廃都に住むのに、許可がいるのか。
いらない。
たぶん、いらない。
けれど、誰もそれを、ちゃんと口にしたことがなかった。ここは流れ着く場所だった。倒れ込む場所だった。明日もいるか分からない人が、壁の残った家を選んで、勝手に眠る場所だった。
住んでいいか、と聞かれる場所ではなかった。
ネアの指が、ポケットの布から離れた。
俺は、声を出さなかった。
(言うことじゃないな)
念話で「いい」と言うのは簡単だった。地脈を探れば、奥の空き家も分かる。壁が弱い家と、まだ寝られる家の差も分かる。少し力を流せば、崩れかけた石の継ぎ目を固めることもできる。
でも、それをやったら、この朝は俺の話になる。
ネアが一歩だけ動いた。
街道の入口ではなく、井戸の方へ。
黙ったまま、井戸の縁に手を置いた。釣瓶の縄を掴んで、少し引いた。水の重さが縄を通って上がってくる。井戸の中で、澄んだ水面が揺れた。
ネアは汲み上げた水を、木の桶に移した。
それを、入口の方へ押した。
「……飲める」
それだけ言った。
男も女も、しばらく動かなかった。
子どもが先に近づいた。桶の縁に両手をかける。水を見て、少しだけ呼吸が変わった。
飲んだ。
市場の誰も、何も言わなかった。
子どもの喉が小さく鳴った。
それから、もう1度、桶に口をつけた。今度は急がなかった。両手で桶の縁を押さえて、少しずつ飲んだ。女の足が動きかけて、止まる。男の木箱を握る手が、きしむ音を立てた。
リコが何か言いかけた。
ヴェラが、声を出す前にリコの肩を押さえた。
水を飲む音だけが、市場の真ん中に残った。
(井戸の水で、こんなに止まるのか)
少し前なら、止まる理由は逆だった。
飲めないから。
今は、飲めるから。
俺はやっぱり、何も言わなかった。
◆
「なら、いいんじゃないか」
ダンが言った。
遅れて出た声だった。
「廃都だ。来るなとは言わん」
「言い方」
ヴェラが小さく言った。
「じゃあ、うちの奥の家。壁は残ってる。屋根は半分。床は……まあ、床は地面だね」
「十分だ」
男が言った。
女が桶をネアに返そうとして、ネアは首を振った。
「持ってって」
「いいの」
「……うん」
会話はそれで終わった。
女の手が桶を持ち直す。子どもの足が、女の横に戻った。男は木箱を抱え上げた。重い荷物の音が、もう1度、朝の市場に混じる。
今度は、入ってくる音ではなかった。
ここを通って、奥へ向かう音だった。
ヴェラが先に歩き出し、3人がついていく。リコがついていきかけて、ダンに肩を掴まれた。
「仕事」
「見たいだけ」
「仕事」
リコの足がしぶしぶ戻った。
(分かる。俺もちょっと見たい)
言わなかった。
ネアは井戸のそばに立ったまま、新しい足音が市場の奥へ入っていくのを聞いていた。俺のポケットの中にも、その重さが伝わってくる。男の箱。女の桶。子どもの軽い足。空き家へ向かう、まだ慣れていない歩幅。
奥の路地では、誰かが戸を開けた。古い蝶番が長く鳴る。空き家の隣に住んでいる婆さんの足音だった。いつもは朝からあまり外に出ない。今日は戸口で止まって、新しい3つの足音を待っていた。
「そっちは、床が抜けるよ」
婆さんの声がした。
ヴェラが「ああ、そうだった」と答えた。
男が木箱を持ち直す。女が桶を抱える。子どもの足が、床の抜ける場所を避けて、少し大きく回った。
道を教える声が、1つ増えた。
◆
市場は少しずつ戻った。
ダンが木箱を積み直す。ヴェラのパン屋から、焼けた皮の匂いが風に乗ってくる。リコは井戸と奥の路地を交互に見て、3回目でまた怒られた。
戻っている。
でも、同じではなかった。
井戸の縄に、さっきより長く水の重さが残っていた。奥の家の方では、屋根板を動かす音がした。女が桶を置く音。子どもが小石を踏む音。男が、壁を叩いて確かめる音。
桶の底が鳴った。
この街の音が、1つ増えていた。
ネアがようやく井戸から離れた。仕事場へ向かう足取りに戻る。けれど、途中で1度だけ、奥の家の方へ顔を向けた。
「……石」
(はい)
「水、足りるかな」
俺はすぐには返さなかった。
井戸の底は前より澄んでいる。地脈の流れも、前より深い。畑の土も、壁の石も、少しずつ重さを取り戻している。
足りる、と言えた。
たぶん足りる。
でも、言わなかった。
『明日、見よう』
短く返した。
ネアは何も言わなかった。歩き出した足音だけが、少しだけ遅くなった。
◆
奥の家で、子どもが笑った。
すぐに止まった。
それでも、残った。
◆
(住む音だった)
住んで、いいか。
「飲める」
——井戸。
俺は、何もしていない。
たぶん、それでよかった。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「いしもり」もよろしく。
爺さんが、何か知っているらしい。
——石より




