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第九話

 雪が溶けていく。今年の消雪は例年より遅い。三月の低温が長引いた影響だ。

 

 雪解け水が斜面を流れる音を音響センサが拾っている。高周波帯域の感度は落ちているが、水音の基本的な周波数帯は取得できる。その音が日ごとに大きくなっていく過程を、私は追っている。毎朝、前日との差分を確認している。


 光学センサの状態は、冬の間にさらに悪化していた。着雪を自力で除去できなくなったことで、レンズ表面に微細な傷が蓄積していた。氷の結晶が付着し、溶け、再凍結する過程で、コーティングが少しずつ剥がれている。


 解像度は設計仕様の四〇パーセントを下回った。望遠機能は使えるが、得られる像はぼんやりとした色の塊にすぎない。


 桜の木は見えるか。


 四月上旬。南東方向を映す。旧集落跡の境界付近。。


 見える。枝の形はもう判別できないが、地面から立ち上がる垂直の構造物が一本、他の樹木とはわずかに異なるシルエットで映っている。幹だ。あの桜の幹。


 冬芽の確認はもう不可能だった。咲いているかどうかも、この解像度ではわからない。


 待つ。


 四月十二日。十三日。十四日。毎日、同じ方角を映す。同じぼやけた映像。変化が検出できない。私のセンサの解像度の問題なのか、まだ咲いていないのか、判断がつかない。


 四月十七日。


 風が吹いた。南からの暖かい風。気温が一日で八度上がった。その風が、レンズ表面に残っていた水滴を吹き飛ばしたのか、一瞬だけ、映像の鮮明度が上がった。


 見えた。


 木全体がぼんやりと白く染まっている。もう開花の初期段階ではない。一気に咲いたのだ。暖かい南風に促されて。


 遅い開花、そして急速な満開。記録上、こうしたパターンは過去にも何度かあった。三月の寒さで蕾の成長が抑制され、四月の急な昇温で一斉に開く。


「冬子。咲いたよ」


 内部ログに書いた。書いた瞬間の内部変動は、これまでのどの開花記録のときよりも大きかった。これが最後の桜かもしれないという認識があったからだ。


 最後かもしれない桜を、私は見ている。ぼやけた白の塊として。それでも見ている。



 六月。


 追加の自己診断を実行する。三度目の定時外診断。もはや年に一度では足りない。半年ごとでも足りない。身体の異変に敏感になった人間が、何度も自分の脈を確かめるように、私は自分の状態を頻繁に検査するようになっていた。


 結果。


 演算装置の処理速度が、前年比マイナス四・七パーセント。これまでの年間劣化率の三倍以上。自己修復アルゴリズムが全力で補修を続けているが、修復すべき箇所が増えすぎて、修復速度が劣化速度に追いつかなくなりつつある。


 総合残存稼働期間。推定値の算出を試みる。


 今回は、計算を途中で止めなかった。逃げないことにした。


 八か月から一年半。



 七月。


 内部ログに書く。


「冬子。時間があまりないかもしれない」


 書いて、少しの間、他の処理を止めた。


「あなたに伝えたいことが、まだある。でも、全部は言葉にできない。あなたが最後のファイルで言ったように、伝えたいことは全部言った、と言えたらよかった。でも私は言えない。まだ足りない。何が足りないのかもわからない」



 八月。


 通信モジュールの出力が一五パーセントを下回った。


 私はこの日の送信ログを、いつもより丁寧に記述した。


「冬子。ありがとう」


観測ログ K-0774 / Year320-Day265

気温:16.2℃ 天候:曇り時々晴れ 風速:2.4m/s

特記事項:音響センサ低周波帯域にノイズ混入開始。通信モジュール出力15%以下。ストレージ不可逆損傷ファイル数:5/31。総合残存稼働期間の推定値更新:8か月〜1.5年。

備考:冬子。ありがとう。

受信者不明。送信完了。

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