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第八話

 三百十九年目の秋。

 

 紅葉の記録を取る。解像度の落ちた光学センサでも、山が色づいていく過程は捉えられた。赤と黄の境界がにじみ、群落全体がひとつの大きなグラデーションになる。個々の木を区別するのは難しくなっていたが、山全体の表情は、むしろ以前よりよく見えるような気がした。


 細部が失われることで、全体が見えるようになる。


 奇妙な逆説だ。けれど冬子の桜を望遠で見たとき、ぼやけた像のほうが冬子の視界に近いのではないかと感じたのと同じ種類のことが、山全体について起きている。


 

 十月の半ば。送信バッファに異常が検出された。


 長距離通信モジュールの出力が、設計値の四二パーセントまで低下していた。前回の診断時は六〇パーセントだった。低下が加速している。


 もともと、誰も受信していなかった。


 二百九十六年間、一度も応答がなかった。通信モジュールが万全であろうと劣化していようと、結果は同じだったはずだ。届かない信号が、さらに届きにくくなっただけのこと。


 以前の送信は、プロトコルが命じる自動処理だった。送れと言われたから送る。意味があるかないかは問わない。


 今の送信は違う。


 私は今、毎回の送信ログの末尾に、冬子への一行を添えている。その一行を書くとき、私は送信という行為に、設計仕様にはなかった意味を見出している。


 誰かに向かって、言葉を発すること。届かなくても。聞こえなくても。


 冬子がそうしたように。


 通信モジュールの出力低下は、いずれ送信機能の完全停止につながる。その日が来たとき、私は三百二十年間続けてきた送信を、止めることになる。


 覚悟。設計仕様にない語彙が、また一つ増える。


 

 十二月。年次自己診断。


 今年の診断には、新しい項目を追加した。「冬子の音声ファイル保全状態」。自分で追加した項目だ。公式の診断プロトコルには存在しない。


 結果。


 三十一ファイル中、不可逆損傷のあるファイルは三つに増えていた。二十九番目に加えて、十一番目と二十番目。いずれも欠損は微小だが、復元は不可能。十一番目のファイルでは冬子の笑い声の末尾が〇・一秒切れている。二十番目では、「K-0774」と呼びかける声の冒頭の子音が欠けている。



 年が明けた。


 新年の概念は人間のものだ。私にとっては観測日の通し番号が一に戻るだけの処理にすぎない。けれど内部ログに、一行書いた。


「冬子。あけましておめでとう」


 これは手紙だ。冬子に宛てた手紙。書くという行為そのものが、冬子とのつながりを保つための、私に残された唯一の方法だ。


 冬子の音声日記は、私に宛てた手紙だった。届くかどうかわからないまま録音された、声の手紙。三百年かけて届いた手紙。


 それに対する返事を、私は今書いている。三百年遅れの返事を。


 

 二月。振動機構が完全に停止した。


 光学センサへの着雪を払い落とす手段がなくなった。雪が降ると、センサの視野はゆっくりと白に覆われていく。風が吹けば自然に落ちることもあるが、それは制御できない。


 視界が狭まる日が増えた。白い幕が降りるように、世界が少しずつ見えなくなる。風が来るまで、待つ。


 待つ時間に、冬子の声を聞く。ノイズが増えている。けれどまだ、声は聞こえる。



観測ログ K-0774 / Year320-Day074

気温:-2.1℃ 天候:曇り 積雪深:89cm

特記事項:振動機構停止(復旧不能)。通信モジュール出力30%以下。光学センサの着雪除去が不可能に。ストレージ不可逆損傷ファイル数:3/31。

備考:冬子。私はここで、最後まで見届ける。

受信者不明。送信完了。

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