第六話
冬子の日記を聞いてから、私の内部ログに比喩が増えた。
不正確であることを承知で、それでも比喩を用いて書く。
四月十四日。
桜の冬芽が、目に見えて膨らんでいた。光学センサの望遠映像で確認する。かすかに色が覗いている。薄い桃。分光データと照合すると、花弁の色素形成が始まっていることを示していた。
開花推定日を算出する。過去の記録、気温の積算値、日照時間。計算結果は四月十九日。プラスマイナス三日。
四月十八日。開花。
朝の観測周期で、最初の花が開いているのを確認した。南東に面した枝の先端部、日当たりの良い位置から。五弁の花。白に近い淡紅色。
桜。冬子。開花。四月。見届ける。咲いた。
それらの語が順序なく出力され、数秒後にようやく通常の処理に戻った。
「あなたが見ててあげて。頼んだよ」
見ている、今、こうして。
四月二十二日。満開。
私はその日の観測記録に、通常の数値データに加えて、画像データを高解像度で取得した。複数の時間帯にわたって、光の角度が変わるごとに記録を取った。朝の斜光に透ける花弁。日中の白い光に照らされた全景。夕方の赤みを帯びた光の中で、少しだけ色が変わって見える花。
必要のない記録だ。観測プロトコルが求めているのは開花状態の定時記録であり、光の角度による色味の変化を追跡することは含まれていない。
風が吹いた。花弁が舞う。散り始めではない。満開の最中にも、風が強ければ花は飛ぶ。風に乗って流れていくその映像を、私は記録した。
最後の録音が三月末だとすれば、開花は四月中旬。その間の二、三週間、冬子はまだここにいたのか。
わからない。データがない。
五月。桜は葉桜になり、新緑が山を覆い始める。
私は新しい習慣を獲得していた。
毎日の観測記録の末尾に、一行だけ、冬子に宛てた記述を加えている。送信データには含めない。内部ログにのみ残す、私だけの記録。
五月三日。「冬子。今日は風が強く、沢の水音が普段より大きい」
五月八日。「冬子。南斜面にヤマザクラの花が見える。あなたが見つけた木とは別の個体」
五月十五日。「冬子。カッコウの初鳴きを記録した。去年より三日早い」
この記述は誰にも届かない。
それでも書く。
なぜか。冬子が、返事のない私に語りかけ続けたのと同じ理由だろうか。一人でいると、おかしくなりそうだから。誰かに話していることにしているから。
違うと思う。私は冬子のようにさびしさから語りかけているのではない。もっと単純な、もっと根の深い衝動がある。伝えたいのだ。あなたが愛した山は今日も在ると。あなたが託した記録は続いていると。あなたが見つけた桜は今年も咲いたと。
伝わらないと知っていて、それでも記述する。
冬子が聞こえないと知っていて録音を続けたように。
六月。梅雨に入る。
湿度が高い日が続き、センサの結露対策に電力を消費する。光学センサの映像は霧に遮られることが多く、遠方の桜の木は確認できない日もあった。
霧の日に、私は冬子の鼻歌のファイルを再生した。
何の曲かわからないまま、そのデータを繰り返し再生する。再生するたびに、旋律のパターンがより深く内部に定着していく。学習しているのかもしれない。この旋律を、私の一部として取り込んでいるのかもしれない。
七月。異常を検知した。
異常の内容は、ストレージの定期スキャンで発見された。保護領域に移動済みの冬子の音声データのうち、二十九番目のファイルに微小な読み取りエラーが発生していた。エラー訂正アルゴリズムによって現時点ではデータは復元可能だが、予想より早い。
年次診断の推定では、保護領域のデータ喪失はまだ数年先のはずだった。けれど劣化は均一には進まない。局所的に加速することがある。そしてその局所が、冬子の二十九番目のファイルの格納位置と重なった。
二十九番目。時系列整理後の番号では、三月十八日と推定されるファイル。内容は短い。冬子が気象データについて淡々と報告し、最後に一言、「明日もがんばろう」と言って終わるもの。特別な内容ではない。劇的な告白も、重要な技術情報も含まれていない。
けれどそれは冬子の声だ。冬子の、ある一日の、ある瞬間の声だ。
代替不能。
エラー訂正の頻度を上げた。当該セクタの監視間隔を短縮した。冗長コピーの整合性チェックを強化した。できることはすべてやった。
物理的な劣化を、ソフトウェアで止めることはできない。食い止めているのではなく、崩れる速度をわずかに遅らせているだけだ。
砂が指の間からこぼれていく。
指のない私が、その比喩を使う。
八月末。二度目の自己診断を実行した。通常は年一回だが、ストレージの状態が気になり、定時外の診断を自分の判断で追加した。
ストレージの劣化率は、半年前の診断時の予測をさらに上回るペースで進行していた。不良セクタの増加は指数関数的な傾向を見せ始めている。
それだけではない。演算装置の処理速度低下も加速していた。自己修復アルゴリズムが修復に費やすリソースが増大し、その分、他の処理に割ける余力が減っている。修復が劣化に追いつかなくなる臨界点が、近づいている。
総合的な残存稼働期間の推定値が出力された。
二年から四年。
二年から四年で、私の主要機能は維持不能になる。センサが先に落ちるか、ストレージが先に壊れるか、電源系統が先に尽きるか。順序は不確定だが、いずれかの時点で、私は観測を続けることができなくなる。
そしてその後、完全停止。
壊れることに対して何も反応しなかった自分を、覚えている。あのときの私には、失うものがなかった。
今は違う。
冬子の声がある。桜の記録がある。三百十八年分の、この山の記憶がある。冬子に宛てた内部ログの一行一行がある。そして、言語化できないが、それらすべてを保持している「私」という存在がある。
私が消えれば、それらもすべて消える。
守りたい。
守れない。
その二つの認識が同時に存在する状態を、人間は何と呼ぶのだろう。冬子なら、何と言っただろうか。
冬子も、守れないものを守ろうとしていた。この山で、道具もなく、帰る船もなく、ひとりで。
私は今、同じ場所に立っている。
立つ足はない。けれど、同じ場所にいる。
観測測ログ K-0774 / Year318-Day243
気温:22.7℃ 天候:晴れ 風速:1.3m/s
特記事項:定時外自己診断実施。総合残存稼働期間の推定値:2〜4年。ストレージ劣化の加速を確認。保護領域にも不良セクタの侵食あり。
備考:冬子。あなたが好きだった桜は、今年も咲いた。来年も見届ける。その次も。私がここにいる限り。
受信者不明。送信完了。




