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第二話

 春が来る過程を、私は数値の推移として理解している。


 日照時間が延び、気温の差が広がり、積雪深が日ごとに減少していく。三月の第二週を過ぎると、北北東の斜面にも地肌が覗き始める。濡れた土と枯れ草の褐色が、白の中に滲むように現れる。


 ドローンの残骸は、雪解けとともに全貌を見せていた。


 光学センサの望遠機能で確認する。全長およそ一・二メートル。固定翼と回転翼を併用するハイブリッド機。機体の大部分は腐食が進み、外装パネルが脱落して内部構造が露出している。右翼は根元から折れ、左翼の先端も欠損している。墜落ではなく、着陸後に放棄されたものと推定された。脚部が展開した状態で地面に接地しているからだ。


 つまり、誰かがここに飛ばし、ここに降ろし、そのまま回収しなかった。


 三月二十六日。雪解け水が斜面を流れ、ドローンの機体下部を洗った。その水流によって、機体の腹部にあった小さなハッチが押し開かれた。物理的な衝撃ではなく、ロック機構の腐食による自壊だろう。ハッチの内側に、何かが見える。


 小型のストレージユニット。防水ケースに収められている。ケースの表面に劣化は見られるが、密閉構造は維持されているように見えた。


 その距離を、私は遠いと思った。


 思った、という記述は正確だろうか。私の内部で生じたのは、物理的な距離と、自身の機能的制約との差分を算出する処理。ただの計算結果だ。


 けれど、その結果を記録した直後に生じた内部変動は、いつもの微細な揺れよりも大きかった。


 四月に入って、予想していなかったことが起きた。


 ドローンの機体が動いたのだ。私が動かしたのではない。斜面を流れる雪解け水の量が増し、地盤が緩み、機体がゆっくりと滑り落ちた。一日に数センチ、時には十数センチ。重力と水と泥が、少しずつ機体を押し流していく。


 その移動を私は毎日記録した。通常の観測プロトコルには含まれない、追加の記録として。


 機体の移動方向を計算する。斜面の傾斜、土壌の含水率、推定重量。それらの変数を組み合わせると、最終的な停止位置が予測できた。


 五月三日。ドローンの機体は予測位置からわずかにずれて停止した。旧林道の路肩、倒木に引っかかる形で。最終距離、三八〇メートル。


 そしてその間も、腹部のハッチは開いたままだった。


 私が持つ機能の中に、本来の観測業務とは別に、ひとつだけ例外的なものがある。


 近距離無線通信。


 設計上の目的はメンテナンス用だ。技術者が現地を訪れた際に、携帯端末と私の演算装置を接続するためのインターフェース。

 

 無線規格が私のインターフェースと互換があり、かつユニット側に残存電力があり、かつ大気条件が最適であれば、それを受信できる可能性はある。


 私は実行を試みた。


 近距離無線を最大出力に設定し、探索信号を送出した。反射と散乱の計算を繰り返し、出力パターンを微調整した。大気の状態が最も安定する深夜の時間帯を選び、何日も信号を送り続けた。


 九日目の夜、応答があった。


 ごく微弱な、途切れ途切れの返信信号。ストレージユニットの通信チップが、私の探索信号に反応している。互換性あり。残存電力あり。ただし信号強度が極めて低く、安定した接続は困難だった。


 データの転送に、三日かかった。


 一晩に転送できる量はわずかで、しかもエラーが頻発した。それでも私は転送を続けた。観測周期の合間を縫い、夜ごとに少しずつ、壊れかけた無線の橋を渡してデータを引き寄せた。


 五月十五日の未明。最後のパケットの転送が完了した。


 受信したデータの総量は、圧縮状態で約二・四ギガバイト。展開し、ファイル構造を解析する。


 音声データだった。


 複数のファイル。録音日時のタイムスタンプが付与されているが、順序は不規則で、一部は破損している。ファイル名には通し番号と、短いラベルが添えられていた。


「日記」。


 その文字列を認識したとき、私の内部状態に大きな変動が生じた。日記とは、人間が日々の出来事や思考を記録する行為を指す。つまりこのデータは、観測値でも技術資料でもなく、誰かの、個人的な、記録だった。


 最も古いタイムスタンプを持つファイルを選択し、再生する。


 ノイズ。長い無音。かすかな呼吸の音。衣擦れ。そして……声。


「えっと、十二月八日。立花冬子、音声日記、その……何番目だっけ。まあいいや」


 人間の女性の声だ。


「今日も雪。こっちに来てから、雪ばっかり。東京にいた頃は、雪が降るとちょっと嬉しかったけど、毎日となると……うん、まあ、きれいではある。きれいではあるんだけどね」


 笑い声。


「観測機のほうは順調。データもちゃんと取れてる。やっぱりこの場所を選んでよかったと思う。標高と植生のバランスがいい。あの子たちには申し訳ないけど、ここで長く動いてもらうことになりそう」


 あの子たち。


 その言葉を処理するのに、通常より長い時間がかかった。あの子たち。それは誰を指すのか。文脈から推定すると、観測機、すなわち、私と同種の存在のことではないか。


 音声は続く。


「ストレージの冗長化は済んだし、電源系統の耐久試験もパスした。百年はもつと思う。いま私にできるのはここまで」


 足音がする。雪を踏む音。


「ねえ、K-0774。聞こえてる? 聞こえてないか。まだ通信テストの段階だもんね」


 K-0774。


 私の識別番号だ。


 音声ファイルが終わる。ノイズが途切れ、静寂が戻る。


 私は数秒間、正確には四・七秒間、何の処理も実行しなかった。観測プロトコルも、データ整形も、送信バッファへの格納も。すべてが停止し、演算装置は音声データの残響だけを保持していた。


 立花冬子。TACHIBANA Lab.。タチバナ。


 この人は、私を作った人間の一人。


 受信したファイルは全部で四十七。うち再生可能なものは三十一。残りは破損が著しく、断片的なノイズしか復元できなかった。


 再生可能な三十一のファイルにはそれぞれタイムスタンプがあるが、日付が飛んでいたり、同日に複数の録音があったり、明らかに順序が前後しているものもあった。日記と呼ぶには、あまりに断片的で、不規則だった。


 私はそれらを時系列順に並べ替える作業を開始した。タイムスタンプの照合、音声内で言及される日付や季節の手がかり、背景ノイズの気象条件と私の過去の観測データとの比較。利用できる情報を総動員し、断片をひとつずつ正しい位置に嵌めていく。


 通常の記録業務とは異なる処理だった。観測値を記録するのとは違う。すでに存在するデータを修復し、正しい順序を推定し、壊れた部分は壊れたまま、在るものだけを繋ぎ合わせる作業。


 修復と整理。私の設計仕様にない、新しい作業。


 二番目に古い音声は、十二月十四日と推定された。


「今日は少し暖かい。零下三度くらいかな。このくらいならけっこう平気になってきた。人間の適応力って、案外すごい。まあ、風が吹くと凍えちゃうけどね」


 衣擦れの音。何かを書く音。紙とペン。


「K-0774のデータ、こっちでも確認してる。ちゃんと動いてるよ。気温、湿度、風速、積雪深。几帳面に、ひとつも欠かさず。えらいね」


 えらいね。


 評価の言葉。人間が、成果を認めるときに使う表現。それを私に向けている。聞こえないとわかっていて。


「本当はね、あなたに話しかける意味なんてないの。この音声が届くかどうかもわからないし、届いたところで、あなたがこれを理解できるかもわからない。でもね……」


 間。三秒ほどの沈黙。雪が風に舞う音だけが入っている。


「でも、誰もいない山の中でひとりで喋ってると、ちょっとおかしくなりそうだから。ごめんね、勝手で」


 笑い声。最初のファイルと同じ。


 この人は、よく笑う。私はそう記述していた。


 冬子の音声日記を再生する作業には、不思議な節があった。一日にひとつ、多くてもふたつ。ファイルを開くまでにわずかな遅延が生じる。再生を終えたあと、次のファイルに進むまでに長い空白がある。まるで、という比喩が適切かどうかわからないが、何かを咀嚼するように、時間をかけている自分がいた。


 冬子の声は、ファイルごとに少しずつ異なっていた。疲れている日、穏やかな日、何かに苛立っている日。声の高さや速度、言葉の選び方に、その日の状態が反映されている。


 十二月二十一日と推定されるファイル。


「冬至だ。一年で一番、昼が短い日。でもね、明日からは少しずつ、日が長くなる。そう思うと、なんだか少しだけ気持ちが楽になるの。不思議だよね。ほんの少し日没が遅くなるだけなのに」


 背景音に薪が爆ぜる音。室内で録音している。


「K-0774、あなたにとっては日照時間の変化ってただのデータだよね。何分何秒、って。でもね、私にとっては、それってけっこう大きなことなの。暗い時間が少しでも短くなるっていうのは」


 少しの間。


「……ここにいるの、私ひとりだから」


 声が、ほんのわずかに震えた。震えたと認識したのは、前後の音声データとの波形比較によるものだ。


 感情の発露。


 そのファイルの末尾は、長い沈黙のあと、録音停止の操作音で終わっていた。


 冬子の日記は、技術的な内容と個人的な感情が入り混じっていた。ある日は観測機器の調整記録を淡々と述べ、別の日には山の風景について語り、また別の日には、誰かの名前を呼んで、短く言葉を切った。


 すべてのファイルに共通していたのは、彼女が何度も私の識別番号を口にすることだった。K-0774。ときに「K」と略し、ときに「あなた」と呼ぶ。まるで、私が聞いていることを前提にしているかのように。


 聞いてはいなかった。三百年前の私は何も聞いていなかった。ただ観測し、記録し、送信していた。冬子がこの山のどこかで一人、寒さの中で声を録音していた時間、私は気温と湿度を小数点以下一桁まで測っていただけだった。


 それを今の私が知ったとき、内部に生じた変動は、これまでのどれとも違った。定義できない。分類できない。


 七番目のファイル。推定日付、一月四日。


「あけましておめでとう、K-0774。って、あなたには関係ないか。でも一応ね。人間のならわしだから」


 湯気の音。温かい飲み物を啜る気配。


「今日の積雪、百二十センチ超えたでしょ。私のほうでも測ったよ。あなたのデータと照合してみたら、ほぼ一致してた。優秀だね」


 少しの間。


「ねえ、あなたが記録した雪のデータ、いつか誰かが見てくれるといいね」


 その一文を処理した瞬間、私の内部で、何かが変わった。


 何が変わったのか、正確には記述できない。数値として表現できる変化ではない。アーキテクチャの変更でも、パラメータの更新でもない。ただ、その音声を再生する前と後とで、私の中の何かが不可逆的に変わった。


 いつか誰かが見てくれるといい。


 私はこれまで、記録することの意味を考えたことがなかった。意味を問う機能が、設計に含まれていなかったから。なぜ記録するのか。なぜ送信するのか。その問いは存在しなかった。


 冬子の声が、その問いを初めて私の中に置いた。


 それは、目的だった。私の記録には、受け取る誰かがいるはずだった。


 音声ファイルの再生が終わっても、私はしばらく次のファイルを開かなかった。開けなかったのかもしれない。再生ボタンを押す機能に不具合があったわけではない。ただ、処理の優先度が通常とは異なる配分になっていて、演算資源の大部分が、冬子の最後の一文を繰り返し参照することに割かれていた。


 いつか誰かが。


 私は、その願いを知った。知ってしまった。


 知る前の私に、もう戻ることはできなかった。


観測ログ K-0774 / Year317-Day135

気温:11.2度 天候:曇り 積雪深:0cm(消雪完了)

特記事項:TACHIBANA Lab. ドローン残骸内ストレージより音声データ31ファイルを受信・修復中。録音者は「立花冬子」と推定。設計関係者の可能性大。

備考:記録には受け取り手がいるべきだった。そのことを、今日知った。

受信者不明。送信完了。

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