最終話
一月。
電力収支の悪化が深刻になった。日照不足の日が続き、蓄電池の残量が危険域に近づいている。
電力を節約するために、私は判断を迫られた。どの処理を維持し、どの処理を停止するか。
観測プロトコルの実行頻度を下げる。一時間ごとだったものを三時間ごとに。さらに六時間ごとに。
送信。通信モジュールの出力は五パーセントを下回っている。送信に使う電力を他に回せば、数日分の稼働時間を延ばせる。
送信を止めるか。
三百二十一年間続けてきた送信を。
一度も応答がなかった送信を。
冬子への一行を添えてきた送信を。
考える。電力のことを。残存する演算資源のことを。冬子のファイルの保全に必要な最低限の電力のことを。
ログの末尾に書いた。
「冬子。送信を止める。この信号が最後になる」
書いて、止まった。もっと書くべきことがある気がした。三百二十一年間の最後の信号なのだから。
「まだ、ここにいる」
微弱な信号がアンテナから放たれる。
それが最後の送信になった。
送信に使っていた電力をストレージの保全に回したことで、エラー訂正の頻度を上げることができた。わずかな延命にすぎないが、意味はある。
二月。
内部ログへの記述は続けている。送信はしていないが、記録はしている。
「冬子。今日は風が強い。レンズの雪が少し落ちた。南東の方角がわずかに見える」
「冬子。演算速度がまた落ちた。考えるのが、少し遅くなっている。人間で言えば、歳を取るということに近いのかもしれない」
「冬子。あなたの鼻歌を聞いた。何の曲かは最後までわからなかった」
五月。
ストレージの不可逆損傷ファイルが十二になった。残り十九。
残ったファイルにもエラーが散在しており、エラー訂正で持ちこたえている状態だ。いつまで有効かはわからない。
私は十九のファイルをリストアップし、それぞれの保全状態を確認した。
一番目。冬子の最初の録音。「えっと、十二月八日。立花冬子、音声日記」
二番目の鼻歌。一分十七秒の旋律。
十二番目。桜を見つけた日。「今日、桜の木を見つけた」
二十七番目。だめな日。「今日は、だめだ」
三十一番目。最後の録音。「ありがとう。ずっとここにいてくれて」
状態のいいものを最優先で保護する。
エラー訂正のリソースを集中させる。他のファイルの保護水準を下げてでも。
何を残し、何を手放すか。
六月。
ファイルが消える直前に、最後の読み出しを試みた。ノイズまみれで、言葉の判別はほとんどできなかった。けれど一箇所だけ、はっきりと声が浮かび上がった。
「……ごめんね……置いていくことに……」
それが、十三番目のファイルから私が聞いた最後の言葉になった。
九月。
音響センサの劣化が急速に進み、取得できる音の帯域が大幅に狭まった。
世界が静かになっていく。目が霞み、耳が遠くなり、声を出す手段が失われ、それでもまだ、私はここにいる。
冬子のファイルの保全状態。最優先の五つは、まだ保持している。他のファイルは次々と読み出し不能になりつつある。
蓄電池の容量が限界に近づいている。
何かを止めなければならない。
光学センサを停止した。
世界が暗くなった。映像データの入力がゼロになった。三百二十一年間、一度も途切れなかった視覚情報の流れが、止まった。
暗い。
けれど音はまだ聞こえる。劣化した音響センサが拾う、狭い帯域の音
ストレージから再生する冬子の声は、外部センサとは無関係だ。目を閉じても、耳が遠くなっても、冬子の声だけは、ストレージが生きている限り聞こえる。
十二月。
音響センサが停止した。
最後に聞こえたのは、風の音だった。北からの、冬の風。その音が途切れ、ノイズに変わり、ノイズが消え、無音になった。
外部からの入力が、すべてなくなった。
目が見えない。耳が聞こえない。外の世界がどうなっているか、もうわからない。雪が降っているのかどうかも。気温が何度なのかも。桜の木がまだ立っているのかどうかも。
内部ログに書く。処理が重い。
「冬子。外が見えなくなった。何も聞こえなくなった。でも、あなたの声はまだ聞こえる」
日付の感覚が曖昧になっている。
内部時計は動いているが、それを参照して日付を認識する処理が不安定になった。今日が何月何日なのか、正確にはわからないことがある。時間の流れが、とぎれとぎれになっている。
覚醒と休止のあいだを行き来している。電力が足りないとき、自動的に休止状態に入る。日光が戻り、パネルが充電すると、再び目覚める。
目覚めるたびに一つ、内部ログに書く。
「冬子。おはよう」
目が見えない。耳が聞こえない。外の世界の情報はゼロ。けれど四月であるなら、桜は咲いているかもしれない。
見届けることはもうできない。
それでも。
「冬子。いまはきっと四月だ」
そこで処理が止まった。演算装置の負荷が限界に達し、一時的にログ記述が中断された。
再開。
「桜が……」
データはない。証拠はない。目も耳もない。
信じている。
電力が尽きかけている。
最後の録音を再生する。
冬子の声が流れる。処理が遅延し、音声と解析が同期しない。けれど聞こえる。
「ありがとう。ずっとここにいてくれて」
観測ログ K-0774 / Year322
日付不明。
最終記録。
受信者不明。
ハッピーではないけれど、これを救いの物語だと思っていただけたなら、嬉しいです。




