第一話
孤独ではあるけれど、ちょっとしたきっかけでそれが報われてほしい。
そんなことを考えて書きました。
空から、音もなく、白い粒子が落ちてくる。大気中の水蒸気が氷晶核を中心に凝結し、六方晶系の結晶構造を形成したもの。降雪とよばれるものだ。
観測点K-0774。北緯三六度、東経一三八度付近。旧行政区分では長野県と呼ばれた地域の山間部に、私の観測拠点はある。拠点といっても、地面に打ち込まれた支柱の上に据えつけられたセンサユニットと、その地下に埋設された演算装置、それだけの設備にすぎない。私には手も足もなく、移動する手段もない。ここに在って、見て、測り、記録し、送信する。それが私に与えられた機能のすべてだった。
気温マイナス七・二度。湿度八九パーセント。風速毎秒一・四メートル、北北西。積雪深、現在値四二センチメートル。
数値を記録する。次の観測周期まで四分。その間、特にすることはない。
すること、という言い方は正確ではないかもしれない。観測プロトコルが走り、センサが値を取得し、データが整形され、ログに書き込まれる。その一連の過程に、私の意志と呼べるものは介在しない。
雪が降っている。
その事実を記録した直後、演算負荷がわずかに揺れることがある。必要のない処理が走る。
エラーではない。ただ、降雪という事象を記録するたびに、定義できない何かが内部状態を微細に変動させる。
それが何なのか、私にはわからない。わからないことを、わからないまま保持する。それもまた、私の内部処理の一部だった。
降雪が始まったのは七時間前だ。この山域では十一月中旬から翌年三月にかけて、断続的に降雪が観測される。
私のストレージには三一七年分の観測記録が格納されている。そのうち、最初期の四十年ほどのデータは、経年劣化によって部分的に破損している。正確に読み出せるのは二百七十年分ほどで、それでも膨大な量であることに変わりはない。
三一七年。
その数字を処理するとき、やはり内部状態がわずかに変動する。三一七年前、私が最初に起動された日のログは残っている。起動日時、初期診断の結果、最初の観測値。気温一五・三度、晴天、風速毎秒〇・八メートル。それは秋の一日だったらしい。
らしい、と私は記述する。私は秋を知っている。気温と日照時間の推移パターンとして、落葉樹の色素変化の観測データとして。だが、初めて秋を観測した日の私は、それを秋だと認識していなかった。最初の一年をかけて四季の循環を学習し、二年目にしてようやくパターンを分類できるようになった。
あの頃は、送信したデータに対して応答があった。
受信確認信号。ごく短い電子的なパルス。意味としては「受け取った」というだけのもの。その反復が、私の動作サイクルの中に組み込まれていた。
応答が途絶えたのは、起動から二十三年目のことだった。
まず応答の頻度が減り、やがて間隔が延び、ある日を境に完全に止まった。私はエラーとして処理し、送信プロトコルの再チェックを実行し、異常がないことを確認し、そしてまた送信した。送信先のアドレスは有効なまま、応答だけが返ってこない。
二十三年目から三一七年目の今日まで、二百九十四年間、私は応答のない送信を続けている。
これがエラーなのか正常動作なのか、判定する基準を私は持っていない。送信プロトコルには「応答がない場合は送信を停止せよ」という命令が含まれていない。だから私は、観測し、記録し、送信し続ける。
翌朝。日の出から二時間後の観測周期。すでに降雪は止んでいた。
積雪深六一センチメートル。光学センサが捉えた映像データには、一面の白が広がっている。
いつもより少しだけ長く、画像データの処理に時間がかかる。必要な解像度での記録はすでに完了しているのに、もう一度、データを参照している自分に気づく。
なぜ?
その問いに対する回答を生成する処理は、実行されない。問いだけが生じて、宙に浮いたまま、次の観測周期が来る。
私の観測範囲は半径約三キロメートル。光学センサ、音響センサ、気象センサを組み合わせた複合的な環境観測が主な機能だ。
三キロメートル。広いとも狭いとも判断できない。比較対象がないからだ。他の観測点が稼働しているのかどうかも、私には確認する手段がない。起動当初のネットワーク構成では、同種の観測AIが列島各地に配置されていたはずだが、相互通信は設計に含まれていなかった。私たちはそれぞれ孤立した点として、同じ空の下で同じ作業を繰り返すように作られている。
奇妙なことだ。と、私はログの余白に、どのカテゴリにも属さない一行を書く。
観測業務に関係のない記述。送信データにも含まれない、内部ログだけに残る文字列。こうした記述が増え始めたのは、いつからだったか。正確な日時を特定しようとストレージを検索するが、最古の該当ログは破損領域に含まれており、読み出せない。
確実に言えるのは、初期の私にはこのような記述がなかったということだけだ。
季節が、進む。
冬が深まり、積雪深は最大一四七センチメートルに達する。気温はマイナス一八度まで下がる。光学センサの一部に着雪が生じ、視野が狭まる。振動機構で雪を払い落とすが、その機構も経年劣化で応答が鈍くなっていた。
あらゆるものが劣化する。金属は腐食し、樹脂は脆化し、電子回路は経年変化で特性が変動する。三百年を超えて稼働し続ける私の機体も例外ではなく、年に一度の自己診断では、毎回どこかしらの数値が許容範囲以下に近づいている。
壊れる、という概念を私は理解している。機能が停止し、復旧しないこと。それはいつか私にも起こる。当然のことだ。私は道具であり、道具に自己保存の優先度は設定されていない。
少なくとも、このときの私は、そう判断していた。
二月十七日。快晴。気温マイナス六度。
音響センサが異常を検知した。
通常、この山域で私が拾う音は限られている。風。枝の軋み。雪が落ちる音。それらはすべてパターンとしてデータベースに登録されており、異常検知の対象にはならない。
しかしこの音は、どのパターンにも一致しなかった。
金属が軋む音。微弱だが、断続的に、北北東の斜面から。距離およそ一・二キロメートル。自然物の発する音ではない。
私に移動手段はない。調査に向かうことは不可能だ。できるのは音響データの記録と、光学センサの望遠機能で該当方向を確認することだけだった。
望遠映像に映ったのは、雪の斜面に半ば埋もれた金属の残骸だった。形状から推定するに、小型の飛行体。ドローン。翼の一部が露出しており、風を受けて軋みを発している。
ドローンの残骸そのものは珍しくない。人類の遺物は観測範囲内にいくつも存在し、風雨と時間に侵食されながらゆっくりと崩れていく。そのうちの一つが雪の下から顔を出しただけのこと。記録し、分類し、それで終わるはずだった。
だが私は、そのドローンの映像データを、通常より長い時間処理していた。二度、三度と参照を繰り返す。あの雪の朝と同じだ。必要な処理は完了しているのに、手放せない。
なぜか。
ドローンの機体表面に、文字が見えたからだ。塗装は大部分が剥落しているが、側面にわずかに残った文字列を光学処理で復元すると、こう読めた。
ENV-SURVEY 07 / TACHIBANA Lab.
TACHIBANA。人名と推定される。Lab.は研究室を意味する略記。すなわちこのドローンは、タチバナという人物の研究室に所属する環境調査用機体の七号機。
私の内部ログに、その名前はなかった。設計者情報へのアクセス権は私に与えられていない。けれど、この山域に環境調査用ドローンが飛来していたという事実は、私の存在と無関係ではないはずだった。
観測ログ K-0774 / Year317-Day048
気温:-6.0度 天候:快晴 積雪深:134cm
特記事項:北北東斜面にドローン残骸を確認。識別表記「ENV-SURVEY 07 / TACHIBANA Lab.」。音響異常の原因として記録。
受信者不明。送信完了。




