悪役令嬢♂と帽子屋侯爵
帽子の似合う彼が俺の前に立つと、口が奏でるのはいつも決まった文句だ。
それは今日とて同じこと。
薔薇園の全体を見下ろせる三階の部屋、咲き誇る花々の香りが届く窓辺に俺は座っていて。
そんな俺を前にした幼なじみは、天使が舞い降りるように膝を折り、天からのお告げのごとく口を開いた。
「私の気持ちを受け取っていただけないのでしょうか、アリスさま」
俺の名前を告げながら、頬の赤みと同じ想いを表に出す彼の名前は、ハッター。
──ハッター・マッドパーティー。
レッドハート公爵家の嫡男であり、従属爵位である侯爵を賜った青年。
文武両道、才色兼備。聞けば社交界を通して、婦女子の方々に大層な人気を博しているとか。
しかし今、彼が明かしている胸中は、遠巻きに見ている彼女たちへのものじゃない。
柘榴石の瞳に映る、俺に対してだ。
だからこそ、改めての確認をいつものように返していく。
「俺、男なんだけど」
「存じております」
いつもの口上、いつもの返答。お約束の俺たちの掛け合い。
フラれても笑っているハッターの容姿は、さながら宮殿に飾られる麗しき彫刻そのもの。
百八十はある長身、水のように透き通る銀の御髪、心の熱が宿った赤い目。
女性がひとたび見れば胸を騒がせ、男性ですら心の指向性を狂わせる。
恋に恋する乙女ならば、彼の一声で部屋まで着いていくだろう。
怪物はびこる世を渡る貴婦人たちも、サロンで己が牙を磨いていると聞く。
中には、心の病だと苦しみもがく男性貴族すらいるらしい。
まさに天性の美貌。色を好めばより取り見取り。
だというのに俺の前で膝を折る彼は、迂遠な断りを耳にしても機嫌を悪くするどころか、真剣な眼差しを維持したまま。
「レイブンノット伯爵のご子息、アリス・リバーライトさま。しかしお言葉ながら、愛に性別など関係ありますでしょうか?」
「あるだろ、お前は嫡男なんだから。後継とか世間体とか」
「それは社会のしがらみ。今、私がお聞きしているのは、私たちだけのお話です」
「……答えはいつも通りだ。第一、お前には婚約者がいるだろう。レッドハート卿の命を忘れたのか」
「覚えております。父上のあのお言葉は、一字一句余さずに。その重みも未だ背に乗ったまま。ですが、それを理解した上での覚悟を、今日はアリスさまにお見せしたい」
ハッターがどれだけ想いを募らせようと、公爵家の嫡男という立場は巨大で重い蓋となる。
社会全体の理解、貴族として血筋をつなぐ本領、そしてそのための婚約者。
何もかもが決められた世界の中で、唯一自身の選択を下せるのは、愛の向けどころだけ。
それがどんな形であれ、否定されたくないのは理解できるが、安易に頷くのも無責任で不誠実だ。
「その婚約者と今から会ってきます。その一部始終を、アリスさまに見ていて欲しいのです」
「だから俺をここに呼んだのか。そして、ここからお前たちの様子を眺めてろと」
「気乗りしないのは重々承知しています。ですが──」
「なんて言ってる間に、ほら。お相手が来たぞ、ハッター」
今いる部屋の見晴らしは、十二分な威力を見せていた。
一望できるのは、手入れが行き届いた薔薇園だけではない。
この屋敷の門を通ろうとしている馬車すら、視界の端に入れることができた。
遠目で分かりづらいが、馬車に掲げられていたのは、ハッターの婚約者が席を置く貴族の紋章。
いうまでもなく彼のいう婚約者の訪問であり、すぐにでも迎えに行かなければ不興を買う。
どうした、行かないのか?
そんな意図をふくませた視線を俺が送ると、ハッターの表情は波を打つ。
面食らった顔は時の速さへの驚愕か。寂しさの青が肌に流れるも、目を伏せ意思を固めれば色白の素肌が蘇り、赤みの想いは強固な鋼を鍛えていく。
来訪した婚約者を思い描き、ハッターが心に秘めたのは剣か盾か。
もう一度、俺と瞳を重ねた彼が顔につづるのは、行ってきますの一言だけ。
「見ていてくださいますか?」
「ああ。だから、早く行ってこい」
俺に向けられた陰のある背中。
その触れることのできない色が刺激するのは、体の奥底へ沈んだ遠い記憶。
あんな背中を俺も家族や仲間、そして誰かに見せていたのだろうか。
それは幼い日々よりも前、きっと赤子にすらなっていない以前のこと。
荒れた町で誰かを呼び、懸命に走り、いつも最後に描かれるのは迫る果てのない大水。
「誰かを助けるために我が身を顧みなかった。だから今生は、閉じた世界で大切にされていろってか」
ヘッダーの姿を消した扉へ言葉を放つと、返ってくるのは自身の思いだけ。
生誕よりも前の記憶がある。
それは異常なことだが、自分のことだと受け入れると、胸に湧くのは苦しさだった。
やり残したことはまだあった、別れすらも告げられていない、まだ助けられる人がいたかもしれない。
思い返すたびにそんな心残りの傷が開き、共感と同情が出血する。
「愛してくれる人がいて、守ってくれる場所があって、危険には程遠い。鳥かごの小鳥に宝箱の人形。今の俺はそんな人生を送っている、か」
お前には、幸せだけが訪れる日々を暮らす権利がある。
そう神さまがくれた詫びか、特典か。確かに最古の記憶と比べれば、今の生活はバラ色そのもの。
しかし神さまは人じゃない。
だからこそ、多くのズレが感じられる。
「愛に性別は関係ない。もし俺が女だったとしても、お前なら言いそうだ」
視線を閉じた扉から窓の外へ。
玄関の前で馬車が止まり、程なくして焦りを見え隠れさせたハッターが姿を見せた。
彼の手を取り下車する婚約者は、遠目でも分かるくらいに喜色の色に満ちていて。
ハッターは自分と会えることを心待ちにしていてくれた。彼女の心境をそんな風に捉えた俺へ、スンと冷えた風が胸を撫でる。
婚約者の手は取ったまま、ハッターが向かうのは薔薇園にある東屋。
すぐにたどり着く道は歩かず、会話を交えながら遠回りを彼は選んでいく。
「良さそうな子なのに、なに考えてんだよ。アイツは」
ハッターの婚約者である女性は、花も恥じらう可憐な少女だった。
彼に日傘を持ってもらっているが、それを横目にする彼女の表情には申し訳なさが勝っていて。
話しながらも進む足は、前にも横にも歩みが遅く、距離が狭まり彼の顔が近づいただけで、何かを取り繕うように離れていく。
──じれったい。
そう思わせるのに充分なほど迷いがあり、色恋に覚えがある人ならば苛立ちだってこみ上げてくる。
「俺とは正反対だな」
控え目で大人しそうで、彼と隣に立つだけでも精一杯になってしまう。
話しているさまも、俺から見ても限界まで水が満ちたコップを、震える手で持っているかのよう。
そんな彼女と比べれば、俺は何もかもが違いすぎる。
金糸を思わせる短髪と藍玉の瞳。まとった衣装は女性もので、けっして低くはない背丈だというのに、見ず知らずの他人からはよく性別を間違われる。
生まれつきの顔立ちと細い体型は仕方ないが、服装に関しては完全に家族の都合だ。
魔除けとして幼い男児に女物を着せる。これは納得したものの、二十歳となっても親兄弟の着せ替え人形なのは頭痛の種に他ならない。
過保護で溺愛。その結果が、深窓の令嬢のごとき扱いに。
どんな都合であれ、ああして想いの一つを自由にできる彼女は、俺とは違う。
「いいな。俺もあんな風にしてみたいよ」
家族の許可もいらず、身を飾る服装を自分の意思で選び、親しい相手と並んで前を見る。
性別問わず、一つの理想として地位を確立している、想いを結んだ相手との永遠。
そんな夢を描ける相手がいることを、羨ましくないといえば嘘になる。
鳥かごでしか生きられない小鳥でも、飾られるだけの人形でも。認めた相手と一緒にいたいと思うのだから。
「想い一つ、俺に自由はない」
例えば、俺があの場に混ざれるとしたら、どうするだろう。
ハッターを茶化して、婚約者をあいつの側まで引き寄せて、最後は若いお二人に任せてとか言いながら、笑ってその場を離れていく。
いいよな、そういうの。悪くない、本心から思えてる。
なのに──
「だからって、お前まで真似することはないだろ。ハッター」
遠回りを終えた二人は、ようやく東屋の屋根の下へ。
途中からあまり意識はできていなかったが、会話が弾んでいる様子もあったし、歩くたびに二人の間にあった距離は狭まっているようにも見えた。
これからアフタヌーンティーでも楽しみながら、お互いの未来のことでも話すのだろう。
そうぼんやりと眺めていたら、ほくそ笑む違和感がこちらを見てきた。
「覚悟を見せるとか言ってたよな、アイツ。まさか……」
ハッターと婚約者。二人は席に座るどころか、いつまでも奥まで入ろうとせずに、入り口で立ち尽くしたまま。
雲行きが怪しく、息をのんで注視していると、決定的な亀裂が可視化される。
婚約者がうつむき、一滴のしずくが地面を濡らすと、遠いはずの俺のところまで彼女の嘆きが聞こえてきた。
「婚約を破棄するって、いったいどういうことですか!」
薔薇園を回っているときからすると、想像もできないような悲痛の叫び。
理解も納得もできず、心の中で混ぜられるのは赤と青どころか、洗いざらいの暗色を持って来た黒色のオンパレード。
殺意だって感じられる声を前に、ハッターは言葉を続けていく。
俺には見せたことのない、違う誰かのように。
「誰か……誰か、他に想っている方がいると?」
この言葉を最後に、婚約者はハッターから視線をそらし、少しずつ後ろへ下がっていく。
涙で声も言葉も形にならず、けれども彼が見えるたびに心は叫ぼうとして。
でも、何を告げようと彼の熱に風は吹かない。
それが分かってしまったら、婚約者になす術はない。
スカートをひるがえし、薔薇園の外へ一目散に駆けていく。
ハッターとの間にあった事態が飲みこめず、戸惑う御者に説明もないまま、婚約者は馬車の中へ。
俺はこの一連のできごとに何かを思える暇もなく、ただ見届けただけとなってしまったが、馬車へ乗りこむ直前の婚約者だけは瞳の奥に刻まれた。
「こっち、見てたよな。……そうだな。俺のせいか」
湧き上がってくるのは乾いた笑いだけ。
俺がここにいることをハッターが伝えていたのか、それとも女の勘か。
絶望のどん底に落とされた乙女の視線が、窓際にいた俺の姿を捉えていた。
怒りと憎しみは勿論、突き放された哀情がふんだんに混ぜこまれていて。
もし彼女のそばにいたとしたら、きっと今頃は俺の腹にナイフが刺さっていたことだろう。
「恨まれるのは、これで何回目だっけ。ここにいる、それだけで男も女も憎らしそうに俺を見てくる。……この生活が羨ましいって、前の俺なら思えたかもな」
蝶よ花よと育てられた令嬢のような扱いだが、箱入りの伯爵子息と考えれば、うらやむ気持ちは理解できる。
どんなときだろうと家族は俺の味方をして、衣食住になんの不自由もないどころか、毎日遊んで暮らせるような甘い生活と隣り合わせ。
注意深く見ていなかったり、噂だけを聞きつけて来た男性陣からは、事実を告げるまで口説き文句と贈り物が届き。
女性陣の中にも変わった趣味の人物が、熱い想いをしたためた手紙を送ってくる。
──リバーライトの眠り姫。
なんてあだ名が、社交界でまことしやかに囁かれているとハッターから聞いたが、的外れすぎて笑うしかない。
「今はそっちが羨ましいよ」
窓から手を伸ばした俺は、門を通って屋敷から遠ざかる馬車を追っていく。
君はハッターにフラれたとき、二つの選択肢があった。
悲哀の刃が心を裂き、これ以上傷つかないよう彼に背を向ける今の貴女。
そして、それでもと彼に愛を示し続ける、前だけを見た盲目の恋。
どちらが良かったのかなんて、俺には分からない。
けれど、君が俺をうらやみ妬んだのと同じで、俺も他を見つけられる外へ向かう君が羨ましい。
「隣の芝生は青い、か」
「──また聞き慣れないことわざですね。アリスさま、見ていただけたでしょうか」
「ああ、見てた。聞きもした。……何やってんだよ、お前は」
「貴方への愛を示すのならば、避けては通れぬ道。それだけのことです」
婚約者から向けられた視線を、ぼんやりと頭の中で思考と一緒に転がしていた俺の下へ、ハッターがいつの間にか戻ってきていた。
集中していたせいか、それとも彼の足取りが重く静かだったせいか。
背後から声をかけられるまで気づかなかった俺に、ハッターはかすかな笑みを向けてくる。
しかしその表情には優しさだけではなく、はっきりと痛みの色が描かれていて。
身を切る覚悟があったことは、いうまでもない。
「それに本番はここからです。あの人は父上がお決めになったお相手。その約束事を私事で破棄した上に、話も通しておりません」
「おい待てよ、ハッター。公爵閣下に相談していないって、いくらなんでもそれは……」
言葉を重ねるたびに、ハッターを蝕む痛みが濃くなっていく。
それは自暴自棄にも似た破壊の表れ。
自分の現状を、父である公爵の意思を、婚約者の想いを。
そして眼前に座る俺の、不自由という運命を。
一つの愛で砕き、逃れようとしていた。
「貴方を自由にするためには、こうするしかないのです。アリスさま」
吐露される心情は瞳にも宿り、もはや笑顔なんてどこにもない。
今までの全てを捨て去る所業に光を見失い、本能を冷めた目で見る理性が、恐怖の剣でハッターの心を穿っている。
自分の心すら壊してしまったから、もう立てない。
倒れかけ、両手を床につくことでどうにか失神を免れたハッターだったが、そんな彼を目の前にして俺が口にできたのは、小さな呟きだけ。
「馬鹿だよ、お前」
父への反抗、身分の喪失、社会への不適合。
婚約者への愛を断ち、俺への愛を結ぶ。それを意味するところは、すなわち断崖だ。
分かっていて実行したハッターの意思は、紛れもなく覚悟だと俺は思う。
思うからこそ、呟いてしまった自身の言葉はキュッと心を締めつけた。
「でも、一番馬鹿なのは俺だ。お前にこんなことをさせないと選べない、俺が一番……馬鹿野郎だ」
これが世界の望んだことだと甘えていた。
環境の甘さに溶かされ、前世の辛さを遠巻きに見て、知っているはずの苦さを忘れた成りのままの魂になっていた。
鳥かごに仕舞われ、飛び方を忘れた虚弱の鳥。
それが今の俺だと心に何度も鞭を打つと、こぼれた血潮は待っていたとばかりに俺の血流に合流する。
情けない、軟弱だ、前の俺はそうじゃなかっただろう。
荒々しく立ち上がって椅子を蹴り倒し、うなだれる幼なじみの眼前に立った俺は、一度強く手を握り締める。
作られた拳に痛みが走り、爪先から赤いしずくが滴り落ちた。
「何やってんだ、ハッター。言っただろう、お前の覚悟を見たって。だから今度は俺の番だ。……立てよ、早く」
「アリス……さま……?」
赤を連れて、俺はハッターに手を差し伸べる。
これでお前の痛みに届くとは思わない。けれど、気つけとしては悪くないだろう?
痛みが伴わない選択に、決して重みは募らないから。
「逃げるぞ、何もかもから。公爵の追っ手が出されるだろうが、知ったことか。どこへだろうと、とことん逃げてやる」
「まっ、待ってください。今から……ですか……」
「当たり前だ。ほら、行くぞ。俺を自由にした選択、まさか後悔してんのか?」
一滴、また一滴。
床へ小さな赤い染みを作る、細く弱々しい俺の手。
それをジッと見つめたままのハッターは、後悔という言葉に反応して、虚ろだった瞳に光を取り戻す。
「あの日から少しも変わりませんね、アリスさまは。──後悔なんてありませんよ。貴方のその手を取れるというのなら、自分の選択を間違いだったと思ったことは、一度たりともありません」
「言いすぎだろ」
差し伸べて俺の手を、ハッターが握り返す。
赤色が伝わり、彼の色白の肌すら染めていく血を、ハッターは拒むどころか笑いかけていく。
「では、アリスさま。行き先はどこにいたしましょう」
「外のことは何も知らねえから、お前に任せるよ。でも、そうだな……どうせなら美味いもんが食えるところがいい。米とかな」
「かしこまりました」
立ち上がり、一度手を離したハッターは、俺の血が移った自分の手を握り固めていく。
離さない。そんな誓いに見える行為を、大げさだなと俺は苦笑してしまう。
つかんだのはお前なんだから、お前が離さなければ俺はどこへも行かない。
お前という不自由を選んだ俺を、後悔させないで欲しい。
「──ところで、今一度お聞きしたいことが」
「なんだよ。もう遠慮する仲じゃねえだろ」
二人、肩を並べて部屋の扉へ。
俺がドアノブに手をかけたところで、ハッターは控え目な声を背中にぶつけてきた。
俺たちに乗っていたしがらみは壊れたし、壊していく。
そんな開けた世界を目前にして、何をためらうのか。
「私の気持ちを受け取っていただけないのでしょうか、アリスさま」
覚悟は示した。ならその問いの意味は、さらにその先。
痛みを載せた好意が転じて生まれた、赤い感情。
背中に重くのしかかる幼なじみの想いを、俺は払うことなく振り返る。
「俺、男なんだけど」
「存じております」
否定はしない。
もう俺は、ハッターの想いを握り締めたから。
帽子の似合う幼なじみと歩く、そんな誓いとともに。
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