起段 --- 香坂明②
「――弱いものいじめは、いけません」
凛とした声が汚い路地を通り抜けた。
そこにいたのは、教会で祈りを捧げる修道女の出で立ちをした女性だった。
圧倒的な体格差に怯むことなく、シスターは被害者の胸倉を締め上げる太い腕をつかんだ。
「ハァ? おいおい、もう冬だぞ。ハロウィンはとっくに終わってるだろ。お前も酔っ払いか?」
「今すぐこの手を離しなさい。弱者を守るのが私の務めです」
「いいぜ。その場合はお前がお代を肩代わりするってことでいいんだな?」
「不当な請求には屈しません。それと、私もそこの男性と同じく無一文です」
「んだよ冷やかしか……でも、女なら借金よりもっといい方法がある。見てくれは客好きしそうだし。ほら、来いよコスプレのねーちゃん」
大男が今度は修道女の肩を掴んで、強引に引き寄せようとした。
「貴方、弱者を強請るだけに飽き足らず、神に仕えるこの私に体を売れと……? わかりました。もう許しません」
修道女は肩に置かれた手を右手でひねり上げ、同時に足を払って体制を崩した。
瞬時に、大男の体が回転した。
頭と足の位置が入れ替わって、修道女が右手でその足を掴み巨体をつるし上げている。
大男の頭は地面から数センチのところに浮いていた。
推定80kg以上はあろうかという巨大な体躯が、子猫のように軽々と扱われている。
何が起こったか分からない様子で、大男は息を詰まらせていた。
「最後のチャンスです。懺悔の言葉を述べなさい。主はまだ貴方を見放していない」
上から冷たい瞳で見下ろされた大男は、残念ながら謙虚な心を持ち合わせていなかった。
「なっ、な、何をしやがんんんだぁこのアマぁ! 離しやがブァッ!?」
修道女のつま先が、的確に顎を蹴り抜いた。
突如、大男はスイッチが切れたように静かになった。だらりと垂れ下がる両腕と片足から、完全に意識がないことが分かる。
修道女はつま先で地面を二度叩いて、靴の履き心地を整えた。
「そこの男性、ご無事ですか?」
被害者の男性は、軽くお礼を言って歩き出した。
「ねーちゃんあんがとねぇ! そろそろ帰らないと嫁に今度こそ出て行かれちゃうからお先ね! またお店いくから!」
酩酊しているせいか、修道服の女性をコンセプトカフェのキャストとか何かと勘違いしているようだった。
千鳥足でその場を後にする彼には、きっとさっきの光景を思い出しても夢としか考えられないだろう。
それほどに鮮烈な一幕だったと、青年は思った。
(なんだよ、あれ。美しすぎる)
風に揺れる黒いベール。そこから流れるようなブロンドの長髪。朝陽を受けるその立ち姿には神聖さに満ち溢れてた。
にもかかわらず、圧倒的な暴力が彼女を際立たせている。
精巧な絵画を焚火にくべて、燃え上がる炎の熱にあてられたような倒錯。
視線が釘付けになって、瞬きすらも忘れていた。
溢れ出した涙は乾きを潤すためか、感動を抑えきれないからなのか、青年にはわからなかった。
数秒目頭を押さえたあと、視線を戻した先には、大男の胸元をまさぐる修道女がいた。
彼女は取り出した名刺を持って雑居ビルと見比べている。同じ名前の看板を見つけると、大男の片足をもって引きずりながらその店へと吸い込まれていった。
事態を把握した青年が走り出すまでに、3秒もかからなかった。
「待て待て待て待て! ややこしくなるってそれは……!」
全速力で走ってぼったくりバーへと飛び込む。
ドアを開けると、そこには今まさに強面の店員に詰め寄られている修道女の姿があった。
「だから言ったでしょう。この男は悪魔のような所業で弱者を脅し、私を女衒に売ろうとしたので屠り」
「すとーっぷ!!!」
青年は店員と修道女の間に割って入って、彼女の口を手でふさいだ。
「いやいやびっくりしたよね、おねーさん! あのオッサン意外と酔ってなくて走って逃げちゃうんだから! そんでもってこのゴリゴリのお兄さんも面食らって追いかけるときに派手に転んでドジだよねえ。見て見て、アゴのとこばっちり打ち付けちゃって、痣になってるよホラ!」
店員は兄貴がそんなドジ踏むわけないと訝しんでいたが、この珠逢通りではご近所の飲食店である青年の顔を知っていたこともあり、その場は事なきを得た。
青年と修道女は無事にぼったくりバーを後にした。
大きく息を吐いた青年に、修道女は詰め寄った。
「神に仕える私に、虚偽申告を強制するとは感心できませんね。貴方も悪魔の手先ですか?」
「あのさぁ、店のバックにいる暴力団にまで喧嘩売る気? あのまま正直に言ってたら、二度と埋芽市を歩けなくなってたよ。君、世間知らずだろ」
「む……そう言われると弱いですね。日本には何度か来ていますが、まだまだ文化には疎く確かに経験不足なのは否めません」
予想通りだと青年は微笑む。
「スマホは持ってる?」
「連絡用の携帯電話はありますが」
彼女が取り出したのは折り畳み式の古めかしいガラケーだった。
「それはもうレトロ可愛いの部類だよ……」
彼は呆れたように自分のスマートフォンを取り出した。シスターに見えない様に設定画面を開き、手早くタップを繰り返す。画面にはくるくると模様が回り、『初期化中』という文字が映し出された。
「今時電車やバスに乗るのだって、これが無いと不便だよ。使って」
青年は自分のスマホを躊躇なくシスターに手渡した。
「えっ、いいのですか? 貴方の私物ではないのですか」
「余ってるから大丈夫。ここに電話したら僕もでるからさ」
彼はスマホからマップアプリを開いて、自分の勤めるバーをブックマークした。
シスターはスマホに慣れていないようで、感心したようにマップを見ていた。
彼女は顔を上げて、目の前の青年に向けて手を組んで祈りの姿勢をとる。
「私の名前はテレーズ・ダ・リジュ。詳しくは言えませんがある目的があってこの町に来ました。先程の仲裁とこのスマホの施しに感謝を。ありがとう」
祈りの手を解くと、今度は鋭い視線を向けた。
「ところで、私に親切にする理由はなんですか?」
「……理由がなければ、人に親切にしてはダメかな? 君だってさっき酔っ払いのおじさんを助けた」
「私が弱者を守るのは、私の使命であり存在意義です。普通の人間が理由なしに親切を振りまくのであれば……それは素敵なことですが、そうでないからこそ、我々聖職者の役割があると言えます」
「疑われてるわけだね」
「信じるに足る理由を求めているのです。あなたが悪魔や魔女の手先で、私を陥れようとしていることだって」
「君に惚れたから」
「…………へ?」
凛とした修道女の表情が崩れ、少女のような気の抜けた声が漏れた。
シスター・テレーズの顔が真っ赤に火照っている。
「理由が必要なら恥を忍んで言うけどさ……君みたいに美しくて、強い人は生まれて初めて出会った。一目惚れだ」
青年は免疫の無さそうな様子を好機と見て、油断しているテレーズの両手を手に取った。
「ただ、君のことが好きだから親切にしたいんだ。シスター・テレーズ」
シスターは何とか言葉を紡ごうとするが、うまく喋れずにうつむいてしまう。
「こ、こま、困ります。ごめんなさい、気持ちは嬉しいのですが、応えられないのです」
「わかってるよ。聖職者だもんね」
神に仕える人間は独身である必要がある。宗派にもよるが、彼はシスターが厳格な教えを守っていると見抜いていた。
「自己紹介が遅れたね。僕はこの街でバーテンダーと情報屋をやっている香坂明。見返りが欲しいわけじゃないし、すぐに信用や好意を返してもらえるとは思ってない。でも必ず君の役に立てる。困ったらこのスマホから電話して」
彼女は顔を真っ赤にしたまま、弱々しく頷いた。
突如、古めかしい着信音が鳴り響く。驚いたシスターが5㎝ほど地面から飛び上がった。
取り出したガラケーを開き、耳に当てながら背を向ける。
通話の中で、シスターテレーズは本来の凛とした佇まいを取り戻していった。
数十秒の通話が終わり、パタンとガラケーが閉じる。
「すみません、教会に戻らなくては」
彼女は律儀に頭を下げた。
ここまできっぱりと言われると、足止めすることはできない。
明は諦めたように手を振った。
「連絡、待ってるよ」
「頼ることもあるかもしれませんが、次会うときは必ず親切の恩返しをします。ただ受け取るだけでは私の気が済みませんので」
彼女はそう言うと、足早に珠藍通りから立ち去ってしまった。
その姿を見送って、彼はようやく自分の店へと戻る。
階段を下りて、少し重い扉を押し開ける。
どこか満足そうな表情で、足取りは軽い。
カウンターを通り、キッチンを抜けてバックヤードに進む。
書類が並ぶデスクに腰かけて、ノートPCの電源を入れた。
検索欄に入力されたのは、携帯キャリアの名前と「端末を探す」という文字。
検索結果の一番上のページをクリックして、IDやパスワードを入力すると画面に地図が映し出された。
地図の中央に、スマートフォンの位置情報を示す印。
更新ボタンを繰り返し押すと、少しずつその印が珠藍通りから北西の方向へ移動しているのが分かった。
「……しょうがないよね、惚れたんだから」




