起段 --- 香坂明①
重いドアが押し開けられて、壮年の男が店内に入ってきた。
顔面に刻まれた皺と白髪交じりの口ひげには年季が入っている。
閑散としたバーカウンターの内側で、青年が客を迎えた。
「やあ大鋸屋のとっつぁん。今日はおでん屋じゃなくてこっちに来てくれたんだ」
「日本酒じゃなくてウィスキーの気分だっただけだ」
大鋸屋警部は少し高い座席に腰かけて、大きく息を吐いた。
連日の捜査活動による疲れが見え隠れしている。
「それで、ご注文は?」
青年は慣れた様子でメニュー表を差し出したが、警部はそれを受け取らずに手短に注文を伝えた。
「135番のボトルキープから。ロックで頼む」
「サイズは?」
「シングルでいい」
「畏まりました」
あるルールに乗っ取った注文が二人の間で取り交わされた。
古い数字の数え方で、1、3、5はそれぞれひぃ、みぃ、いつ。
大鋸屋警部はバーの客として酒を飲みに来たのではなく、情報屋に『秘密』の接客をお望みだった。
「別室へご案内しますか?」
丸い氷が入ったロックグラスと共に質問を受ける。
警部は店内を見回した。
カウンターには一人だけ。背後のボックス席には酒に酔った会社員が2人。
「空いてるしこのままカウンターでいい。今日も流行ってねぇなこの店は」
「ではこちらで注ぎますね。ただの酒好きに流行られても困りますから」
ウィスキーが軽快な音を立ててグラスへと注がれる。
「ご注文は以上で?」
「血十字殺人について、わかってることを全部教えてくれ」
青年はさも当然と言った素振りで首肯し、カクテルグラスを拭きながら淡々としゃべり出した。
「姫路君忠。27歳男性。2年前に妻を亡くしてから交友関係も仕事も名前も全て捨てた男です。残念ですが、彼の現在の居場所はわからない。ここまでキレイに足跡がない場合は、裏社会の偽装屋が関わってると思われます。おそらく今は新しい戸籍で違う名前を名乗っているんじゃないかな?」
「いきなり犯人の実名とは……毎度のことながらアンタらには恐れ入るよ」
差し出されたマッチケース。少しだけスライドさせて警部が中を覗き込むと、そこにはマッチの束に紛れてマイクロSDが1枚入っていた。一本マッチを抜いて、胸元から取り出したタバコを咥える。
すかさず灰皿を取り出して青年が話を続けた。火薬の擦れる音が重なる。
「出生から学生時代と、その後3年間務めた地方新聞社の記録です。学生時代は吹奏楽部に所属しながら新聞配達の仕事をしていて、その流れで就職を決めたようです。残念ながら今回お出しできる情報はここまでです」
紫煙が天井へと昇り、砕けた灰が落ちる。
「十分だね。特に勤めていた会社から何かヒントが出るかも知れん。ここからは警察の仕事だ……ところでこの情報、どうやって手に入れた?」
「当然企業秘密です」
「だよな。職務上聞いてみただけだ」
「お決まりですよね、このやりとり」
カラン、と丸い氷がグラスに触れて音を鳴らす。
ウィスキーは無くなりかけていた。
「ところで血十字以外のニュースには興味ないの?」
「あるけど手一杯だ。全国区のニュースだぞこの通り魔。それに軽い気持ちで聞くには、お前らんとこの情報料は高すぎる」
「じゃあ無料お試しの範囲で喋ってあげるからさ」
「それ、気になるところで寸止めするパターンだろうが」
大鋸屋警部は嫌そうな顔で消えかけのタバコを灰皿に押しつけた。
まあそう言わずに、と青年は軽い調子で話し始める。
「御美ヶ峰教会の聖女の噂はご存じ?」
「『癒しの聖女』な……カルトの類だって話は署内で何度か聞いてる。高額な寄付をした信徒の怪我や病気を治すって。よくあるパターン過ぎるぞ」
「“手かざし”治療で金儲けってのは僕の知る限りでも戦後の新興宗教で10個以上思い当たるね。でもとっつぁん、今回はホンモノらしいんだよこれが」
「あのな。そのぐらいの噂話ならもう帰るぞ」
「潰されたんだってよ」
「は?」
「ホンモノだったから、逆に天罰が下ったらしい」
「どういう意味だ。本当に病気が治るんなら、誰も怒らねえだろ。通報もないのに一体なにが」
「ホンモノだとさ、都合が悪い人たちも……おっとっと、ここから先は有料コンテンツ」
青年は笑顔で再び135番のボトルを取り出した。
大鋸屋警部は悔しそうに頭をかいて、そのボトルを手で追い払った。
残念そうにボトルを棚に戻して振り返ると、警部はメニュー表を開いていた。
「おや、珍しいねとっつぁん。2杯目飲んでいくの?」
「1杯目は情報料。2杯目はやけ酒だ。安いのでいい」
「付き合うよ」
今度はコンビニにも置いてあるような見慣れたウイスキーを取り出して、2つの新しいロックグラスに氷と共に注いだ。
グラスが軽く触れあう音がして、二人の男が酒を酌み交わす。
「……これから言うのは愚痴だ」
青年は黙って首肯した。
「部下が……異動、というか。急遽出向になったんだ」
「とっつぁんが育てた部下?」
「まだ育ててる途中の青二才だよ。だが、そこらへんの野郎よりよっぽど肝の据わった女でね」
刑事はグラスを傾けて、揺れる氷を瞳に映した。
「これからが楽しみだった」
「“鬼の大鋸屋”にそこまで言わせる子なら、一回り大きくなって帰ってくるよ」
「そう思いたいがね……アイツに連れていかれ、いや、そこに出向した部下が、警察に戻ってきたことは過去に一度もないんだ」
刑事は遣る瀬無い表情で、残りの酒を呷った。
しばらく時間が過ぎて、いつの間にはバーに残された客は刑事一人だけになっていた。
「はいお代」
「相変わらず高けぇなあ」
「識名様のボトルは特別ですから」
青年は澄ました顔で、刑事から封筒に入った札束を受け取った。
「これが経費で落ちねえのがしんどいが……ま、良い酒飲んだと思うしかねえな」
「実際いいお酒でしたよ」
「つまみが血生臭いんだよ。じゃあな」
またのお越しを、という間延びした声が響いて、バーから最後の客が退店した。
青年は両手を伸ばしてストレッチをしたあと、気だるげに誰もいなくなったバーの締め作業を始めた。
◇◆◇◆◇
埋芽市には“識名新太郎”という情報屋の集団がいる。
“彼ら”は市民に溶け込んで、あらゆる場所で情報を商いしていた。
取引相手は情報を欲するものすべて。警察や日陰者、政治家や犯罪者、ストーカーにトレーダーまで、あらゆる飢えた顧客を相手にしている。
識名新太郎は知っていた。人は知りたい欲から逃れられないことを。
バーの清掃と明日の開店に向けた簡単な仕込みを終えて、青年は両手にゴミ袋を持って店を出た。
階段を上って地上に出ると空が白んでいた。
バー「Sophia」がある珠逢通りは飲み屋の並ぶ繁華街だ。中でもこの近くは夜の店が多く、夜更けには路上にゴミや吐瀉物が散乱して、青年を辟易とさせた。
ゴミ袋を回収場所へと放って、今日も薄汚い珠逢通りを見通す。
「おいこらオッサン。やっぱり払えねえってどういうことだよぁああん!?」
嗄れ声の怒声が響く。
「い、いやあ無いんですよぉ。口座にもない。80万円もないんですってば」
「無いもクソも知るかよ! てめぇが飲み食いしたんだろうが!!」
背丈と肩幅が自動販売機くらいある男が、よれた背広の男性の胸倉をつかんでいる。
見たところ、ぼったくりバーに引っかかった被害者だろう。取り立てをしているのは雇われた用心棒だろうと推察された。
「持ってなくても払う方法はあるだろうが。24時間以内に借金してでもかき集めてこい! 無理ならこっちで優しい金貸し紹介してやる」
ありゃドツボだね。青年はそう呟いて背中を向けた。
この通りに治安の悪い店があるのは周知の事実だ。残念だが引っかかるような情報弱者の方が悪い。青年はそう冷たく割り切って、自分の店へと戻ろうとした。
「――弱いものいじめは、いけません」
凛とした声が汚い路地を通り抜けた。




