結段 --- 八武崎礼
端波警察署の自動ドアが開いて、一人の女性刑事が荷物を持って出てきた。
生真面目そうな表情に加えて、その右目を覆う黒い眼帯が、より一層彼女を近寄りがたい人物に感じさせる。
「あら、寂しい門出ね」
顔を上げると、そこには警察署に似つかわしくない雰囲気の麗人がいた。
ゆったりとしたリブ生地のニットに、ガウンコートを羽織り、スリットが入ったロングスカートをはいている。生地と仕立ての良さが隠しきれない高級感のある出で立ちは相変わらずだった。
八武崎礼は、共に埋芽市の『大暴動』に立ち向かった相棒に対して返事をした。
「送別はお断りしました。挫折した人間に優しくしている暇は、警察にはないでしょう」
白柳魅世は「冷たいわね、お互い」と呟く。
二人は事件以来、2ヶ月ぶりに顔を合わせた。
「貴女にも、退職日を教えた覚えはありませんが?」
「大鋸屋のおじさんに聞いたのよ」
八武崎は短くため息を吐いた。この傍若無人に振り回される久々の感覚を思い出している。
「立ち話もなんですから、喫茶店でも入りますか」
彼女たちは並び歩いて、駅前の喫茶店まで移動した。
夕方の店内には、下校途中の学生や買い物帰りの主婦たちでにぎわっていた。通りに面したガラスには、仕事を終えたサラリーマンや塾へ向かう受験生など、町行く人々の姿が見える。
八武崎はブラックコーヒー、白柳はカモミールティーを飲んでいた。
店内や窓からの風景を見渡して、八武崎は静かに呟いた。
「……この店も、彼らの夫婦の思い出の店のひとつです。二人ともコーヒーは好きでシロップは使わず、ミルクは多めに入れていました」
「姫路君忠と円架ね。まだ鮮明に覚えてるの?」
「この眼帯を外せば、交わした言葉の一言一句まで、気が狂いそうになるほど鮮明に」
八武崎が眼帯を指先を叩く。それを白柳は哀れだと思ったが、顔に出さず会話を続けた。
「難儀な身体になったものね。その映像記憶で最後まで捜査協力をしてたってわけ?」
「日記を書きました」
「……日記って、姫路君忠の?」
「そうです。妻が亡くなる少し前から、彼の犯行動機がわかるように。殺された人たちの遺族には、知る権利があります。納得は出来ないでしょうけど」
「それで2ヶ月もかかってから退職したわけね」
八武崎は背もたれに体重を預けて脱力した。
「やれることはすべてやりたかった。これで私の人生をめちゃくちゃにしてくれた殺人鬼と、決着はつけました」
その行動原理は変わっていない。そう感じた白柳は小さく笑った。
「殺人鬼とは終わり……それで、次は悪鬼會ってわけね」
短い沈黙が流れる。
2人は目を合わせて、八武崎の鋭い眼光が白柳を見据えていた。
まぶたが落ちて、視線が途切れる。
「……そうですけど、もう恨んでないですよ」
「あら、一発殴られる気で来たのに」
白柳は残念そうな声を出した。
「確かに私の信念を一番破壊したのは悪鬼會の存在です。でも、その歴史と巨大さに私個人が立ち向かって出来ることなんかない。貴女を殴ったところで架空事件が世を巡るのは変わりない。何より、魔女と妖刀と殺人鬼が暴れ狂っているところで、白柳さんへの気持ちも萎えました」
「なによそれ、フラれたみたいじゃない」
八武崎からするともう終わった話らしく、執着は感じられなかった。
白柳は不満そうな表情で、用意していた資料を差し出した。
「せっかくこの手土産で手打ちにしてもらおうと思ってたのに」
喫茶店のテーブルの上に広げられたのは1枚の写真と、1枚の資料だった。
写真にあるのは日本刀を手にした霧崎菖蒲の姿。
そして資料は埋芽市から2時間程度かかる距離にある寺院に関するものだった。
「目に宿る殺人鬼の方は、細胞の話だからどうしようもない。眼帯で目を閉じておくしかない。でも、そこに微かに残る妖刀の殺人衝動には、対処法があるわ」
「寂浄寺……修行体験、ですか?」
八武崎の脳裏に浮かんだのは、座禅を組んだ後ろに、木の棒を持って構える僧侶の姿だった。
「そ。どうやらあの妖刀は煩悩と結びつきが深いらしくてね。勝手に持ち出した娘もそこで煩悩退散の修行で籠ってるらしいの。八武崎ちゃんなら1ヶ月くらいで出てこれるんじゃないかしら」
八武崎は顎に手を当てて考え込んだ。日常で殺人衝動に駆られるような出来事は起きていない。それどころか、あの『大暴動』の日、彼女は殺意を意識的にコントロールして、実力以上の制圧力を発揮できたと感じていた。
「私が直接呪われたわけではありませんから、大丈夫だと思います。でも、もし手に負えなくなったときは、ここに頼らせてもらいますね」
煮え切らない返事をする八武崎に対して、白柳はせっかくの土産が喜ばれなかったと口を尖らせた。
「え~、さっさと行きなさいよ。この間まで正義感だけの熱血刑事だったくせに、色々背負い込み過ぎよ。身軽にしないと」
「その一番重かった正義を、今日下ろしてきたところですから」
口だけでは何とでも言える。無表情にも近い八武崎の顔を見て、白柳はどこか納得できない感情を抱えたまま、それでも他に出来ることが見つからなかった。
「……クソ真面目なのが一番いいとこだったのに」
白柳はテーブルに肘を立てて、頬杖をついた。視線はどことなく窓の外に泳いで、面白くなさそうな顔をしている。
明らかに拗ねた様子を見て、八武崎はこの感じだとタバコだなと直感した。
一緒にいた時間は3日程度と短かったが、彼女のタバコ休憩の頻度とスイッチには慣れたものだった。
周囲を見渡したところで、見つかったのは灰皿ではなく、No Smokingという注意書きだった。
「……白柳さん、すみません。この店禁煙でした」
「あら。あー、でもいいのよ。もう辞めたから」
「え?」
八武崎は目を丸くする。あれほどのヘビースモーカーがそう簡単にタバコを止められるとは思えない。
「あんなに吸ってたのに……」
「だってデキちゃったもの」
「……は?」
言葉の意味が理解できず、八武崎の思考が停止する。
デキた。出来た。できたとは何のことだろうか。脈絡が無さ過ぎる。文面からすると妊娠時のお決まりのセリフだが、こんな女王みたいでワガママな女傑に子供が出来るなんて文脈が合わない。
失礼な思考が巡る先で、白柳の手がお腹を撫でた。よく考えたら、その手前にあるドリンクも、ご丁寧にノンカフェインのカモミールティーだった。
八武崎は頭を抱えて、何とか言葉を絞り出した。
「お相手の方は存命ですか……?」
「私のコト、カマキリのメスか何かだと思ってる?」
白柳は頬を引きつらせた。だが、自分の客観的な評価と照らし合わせて、らしくないと思われることも理解していた。
「大丈夫よ。黒杭警視正は元気にしてるわ。結婚しろって言ったらゲッソリしてたけど」
「……今、悪鬼會と警視庁の最悪の癒着を垣間見ました」
八武崎は苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
「失礼ね。私達は恋愛の末よ」
じゃあどうして黒杭警視正はゲッソリしたのだろうか。と八武崎は彼を心底心配した。それと同時に、彼女から恋愛という意外な言葉が飛び出したので、興味本位で質問する。
「ちなみに、どんなところが好きなんですか?」
「あー、アイツね。死ぬほどクソ真面目なの。どれだけ闇落ちさせようとしてもビクともしない。絶対マネできないし、そんな人間はいないと思ってたから……貴女もだけどね」
「……それで、私のことも気に入ってたんですか」
「今も気に入ってるわよ」
八武崎は反応に困ったが「誉め言葉として受け取っておきます」と淡白な返事をした。
白柳は視線を送りながら、続けて語りかけた。
「だから、拾ってあげようか?」
八武崎は意表を突かれた。
顔を上げて目を合わせる。白柳は冗談を言っている様子ではない。思い返してみれば、彼女の肩書は悪鬼會人事局局長であり、この町には血十字殺人の犯人をスカウトに来ていた。
返事に迷いながらも口を開く。
「私も、姫路君忠も、資質のある鬼ではありませんよ」
「わかってるわよ。雑用やってくれる局員だって必要なの。悪鬼會の存在を知り、社会に居場所がない人間。条件は満たしてる」
ほんの少しだけ逡巡したが、答えは決まっていた。
「嫌です」
自分を心から誘ってくれた相手に対して、真摯に向き合おうと彼女は言葉を続けた。
「自分の信念を打ち砕かれたからって、今までの私を全否定してその対極に流れて落ちるのは……なんとなく、ムカつきますから」
その回答に納得した様子で、白柳は満足そうに笑った。
「信念を砕かれたのは、肩に力を入れすぎだったからよ。深呼吸して、これからはもっと気楽に生きなさいな」
「深呼吸かぁ。小さい頃はやり方が分からなくて、よくせき込んでました」
「……そんな不器用なやついる?」
「白柳さん、タバコってまだ持ってますか?」
「あー、どうかしらね。しばらく買ってないけど」
彼女はカバンの中を探る。
「あ、吸いかけの湿気かけならあるわ。3本入り」
「もう吸わないなら、ください」
白柳は驚きつつも、ケースごとそれを手渡した。
八武崎が中身を確認していると、追ってライターが差し出される。
それを受け取ろうとしたところ、白柳の手が逃げるように避けた。
八武崎が眉をひそめると、目の前でカチッと音がして、小さな炎が揺らめいた。
白柳が頷く。
その意図を理解した八武崎は、タバコを口に咥え、先端を火に近づけた。
深く吸い込んだ煙が、肺に満たされていく。
「八武崎ちゃん、今までお疲れ様」
深呼吸のように煙を存分に吐き出したところで、八武崎は気が抜けたように笑った。
言うまでもなく、彼女たちは店員に鬼の形相で注意され、喫茶店を追い出された。
駅前の通りを歩く。石畳を叩く足音が二つ重なる。
八武崎のスマホから受信音が鳴った。
「送っておいたわ。八武崎ちゃんの次の職場候補」
「白柳さん絡みとなると……正義も悪ももう懲り懲りです」
「そういうと思ったから、悩まなくてもいい商売を紹介してあげるわ」
「え?」
前を歩いていた白柳が振り返る。
「信念がどう歪んでしまったとしても、目の前の危険に立ち向かい、人を守るのはアナタの性よ。一度自分の命を絶とうとした直後ですら、アナタは本能で目の前の人間を守った」
白柳が例に出したのは、立体駐車場の屋上での出来事だ。悪鬼會と自分の関係を知り、自暴自棄になって銃を乱射したあと、隣の席の香坂明が襲撃を受ける際に応戦した場面のことだ。
「それに、その柔術と肉体を活かさないなんて、そんなもったいないことありえない。どうせ朝夕のランニング続けてるでしょ」
図星だった。律儀な彼女にとって、習慣的に身体を動かなさい方が気持ち悪い。
「追うのが疲れたのなら、追われる人を、守る立場もいいんじゃない?」
八武崎がスマホを開くと、そこにはボディーガードを生業とする民間身辺警護会社の求人情報があった。『アナタをお守りいたします』と力強いキャッチコピーが表示されている。
「まあ、敵味方を考えずにただ守るだけなら……いいですね、これ。次にやりたいことが見つかるまで、ここでゆっくりします」
「うん、良い顔になった。それじゃあ、お暇するわね。さよなら八武崎ちゃん」
白柳が足を止める。その背後には高級車が止まっており、部下が待機しているのだろう。
「次会ったら、銃刀法違反で通報しますから」
手を振って背を向ける。
淡白な別れだった。
お互いに言い残したこともない。きっとこれから会うこともない。
短い時間とは思えないほどに二人の時間は濃密だった。それを思い返していた八武崎が、ふと白柳の跡を追いかけた。
「白柳さん! 気が変わりました……やっぱり一発、殴っていいですか」
背中に追いついて肩に手を置く。
「なによ。なんだかんだ言って根に持って――」
ぷに、と。その頬に人差し指が当たった。
彼女たちが初めて会った路地裏で、八武崎は白柳のイタズラを受けて最悪な印象からスタートした。
「初対面でやられたとき、ムカついたので……仕返しです」
予想を遥かに超えた仕打ちを受けて、白柳は腹の底から笑う。
そこには善も悪も忘れて、少女のようにふざけ合う二人がいた。
「良かったの? 会っていかなくて」
「後ろ姿が見えたので十分っす」
「挨拶くらいしたらいいのに」
「死人から挨拶されたって困るじゃないっすか」
「そうかしら。感極まってハグのパターンじゃないの」
「嫌ですよ。元クラスメイトなだけで、別に仲良しじゃないです」
「霧崎菖蒲の解呪の噂を突き止めて、今日の運転手まで買って出たくせに?」
「……そりゃ局長がわざわざ大暴動の日の話を私にするからじゃないっすか」
「アンタが初対面のとき『私が死んでも悲しむ人なんて一人もいないんで』って言ってたから。否定しようと思って」
「ほーんといじわる。だから八武崎にフラれるんっすよ」
「うるさいわよ。早く出して、奈津季ちゃん」




