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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
急段

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急段 --- 天辺毬愛②



「……貴女を絶命させるには、これしか思いつきませんでした」

 歌は最後の3番へと差し掛かった。



『静かな夜、聖なる夜(Silent night, holy night,)』

『神の御子みこ、愛の清らかな光(Son of God, love’s pure light;)』

『あなたの聖なる微笑みは眩しく光り輝く(Radiant beams from thy holy face)』



 周囲の蛾は菖蒲が大半を切り裂いていたが、遠くから戻ってきた蛾が毬愛を目がけて飛んできた。

 主から痛みを吸い出して、傷を治そうとしているのだろう。

「無駄ですよ、眷属たち」

 テレーズの右腕が、毬愛の心臓を貫いたまま彼女の胸の中心に残されている。

 彼女の腕は一切の変化を許さない剛体だ。つまり、いくら呪いいやしが働こうとも、その部分は治癒の対象外となり、心臓が復元されることは無い。

 人体が心肺停止状態で生きていられるのは長くても5分程度だ。“痛みの魔女”の死期は決まった



『贖いの恵みを 夜明けとともに(With the dawn of redeeming grace,)』

『主よ、汝の誕生のとき(Jesus, Lord, at thy birth,)』

『主よ、汝の誕生のとき(Jesus, Lord, at thy birth.)』



 “眠りの魔女”の子守唄が終わった。

 スピーカーから流れる音声が途切れる。

 毬愛の口から、血の塊がこぼれ落ちる。心臓は治らないが、呪いが延命に作用しているのか、彼女は息も絶え絶えに苦しみながら口を開いた。

「最期に聴くのが、神の子の誕生を祝福する讃美歌なんて不思議……わたし、マリア様になれませんでした」

 毬愛は最期に残された時間で、心中を吐露した。

「あなたの言うとおり、とんだ思い違いでした。私が生んだのは、醜い蛾の子だけ。癒していたんじゃない。私欲で痛みを奪っていただけ」

 自分の胸を貫く腕を抱きしめるように包む。

「あなたのように、誰かを救う聖人になりたかったなぁ」

 テレーズは残った左腕で、毬愛を抱き留めた。

「間に合わなかったのは、私の落ち度です」

 自分の使命を全うしたはずなのに、テレーズの表情は優れなかった。

 それは一般市民に被害が及んだからだけではない。立場上出来ないことだが、望まずして魔女となってしまった人の魂までは、罰殺の対象ではないと彼女は考えていた。

「私だって、わかっているんです。魔女は皆、普通の人間の感性を持っている。だからいつも……信じられないほどの人を傷つけたと、彼女たちは後悔し、懺悔する。そうなる前にあなたを呪いから解き放てなかったのは、私が及ばなかったからです。申し訳ありませんでした」

 死へ向かう一人の人間に対して、テレーズは聖人ではなくシスターとしての責務を全うする。


「もうじき、呪いは葬られる。貴女は魔女じゃなくなる。だからきっと、貴女の魂は人間として天国に行けるはずです」


 毬愛は驚いて顔を上げたが、諦めたように首を振った。

「わたしは天国には相応しくないです。数えきれない人たちを傷つけ……何より、紳士、さんを……殺した……から」

 テレーズはこの光景を何度も見てきた。そして何度も己の無力さを痛感してきた。

 これ以上かけられる言葉は見つけられなかった。彼女の罪の意識を、起こしてしまった事実を、無かったことにはできない。

 それを想うと、テレーズは涙があふれた。

 魔女を殺すとき、この聖人はいつもこうやって手にかけた魔女が人間として死ぬ様を間近で見届けることになる。彼女は理解している。耐えられる自負がある。心構えなど何度も済ませている。それでも、涙を止めることはできなかった。

 嗚咽が漏れないように飲み込む。

(人の身に余る不幸だ――魔女なんてものは、存在からして不幸で、誰にも止めることが出来ない災厄だ)

 唇を噛む。

 これ以上、この哀れな娘を慰める言葉ひとつ思いつかない自分が不甲斐ないと、テレーズは目を閉じた。


 突如、二人の耳にノイズのような音が聞こえた。

 町中に設置されたスピーカーから、何かが擦れるような音と、吐息が聞こえてくる。

 誰かがマイクを掴んだようだ。


『……この騒動を引き起こした犯人、聞こえますか』


 まだ、防災行政無線の接続は続いていたらしい。

 女性の声だった。明でも、眠りの魔女でもない。しかしテレーズには聞き覚えがあった。この声は、御美ヶ峰教会で会ったあの生真面目そうな捜査官の声だ。

 なぜ眠っていないのか理由は分からない。しかし、きっと彼女はこの騒動でたくさんの被害を見ただろう。続く言葉は予想が出来た。


『町中を巻き込んで、数えきれないほどの人を傷つけて、きっと誰もあなたを許しはしない。償いきれる罪ではない』


 毬愛は顔を伏せる。突き刺さる言葉は、きっと彼女に人生の終わりに耐えられないほどの痛みを与えている。事実だが、死を向かえる人間をこれ以上攻撃する必要はない。こんな終わりはあんまりだ。罰にしたって過剰だ。

 もうこれ以上苦しむ前に、とどめを刺そうと、テレーズが腕に力を込めた瞬間だった。

 スピーカーから最後のメッセージが届いた。



『……でも、それでも、許されないもの同士だから。紳士的・・・に、ボクだけはあなたを赦しますよ、お嬢さん』



 女性の声のまま、しかしまるで違う魂が喋ったと感じるほどに別人に聞こえた。その声色と言葉には今までの糾弾とは打って変わって優しさが込められていた。

 スピーカーが途切れる音が鳴る。接続は切断されたようだ。

「う、そ……」

 毬愛は顔を上げた。

 その言葉を聞いて、絶望の最中死に向かうだけだった彼女の瞳に、光が宿る。

「おかしいな、あの人はもういないはずなのに……きっと幻聴だ。こんな都合のいい言葉なんて、聞こえるはずがない。私みたいな魔女は、喜んでは、いけないですよね?」

 目の前のテレーズに縋りつく。シスターは、毬愛の頭を優しくなでて、彼女を受け入れた。


「……ご安心を。あなたを咎める人は皆、もう眠りにつきましたから」


 毬愛は命が尽きる前の最期の時間で、笑顔を見せた。

 それはあの紙袋の殺人鬼と朝食を囲んだときに浮かべた、細やかな幸せを感じさせる、あどけない笑顔だった。

「シスターさん、もう少しだけ……お時間を頂けますか? わたし、紳士さんの前では、癒しの聖女でいなくっちゃ」

 テレーズが頷くと、彼女の周囲にひらひらと舞っていた蛾が町へ散った。

 しばらく時間が経った後、毬愛は満足そうにゆっくりとうなずく。

 その後、聖人テレーズは、天辺毬愛が絶命するそのときを、慈愛の眼差しで見届けた。





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