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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
急段

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急段 --- 天辺毬愛①


 

 天辺毬愛の正面には、不良少年の背中があった。

 彼は意識を失って、呪いに従うだけの奴隷となり、彼女を守るための盾として立ちすくんでいる。

 その少年を今にも斬り殺そうとしているのは、毬愛と同い年くらいの少女だ。

 レディースの特攻服に身を包んだ少女は、日本刀を掲げて今にも振り下ろしそうな状態で耐えている。

「止まりなさいアヤメ!!」

 毬愛を殺すために奮闘していたシスターも、今は十数名の奴隷たちに纏わりつかれ、動くことが出来ない。

 菖蒲と呼ばれた少女の精神は限界に近づいていた。悲痛な表情で、涙を流しながら不良少年を見つめている。

 毬愛はその悲劇を目の当たりにしながら、絶望の最中にいた。

(もう、たくさんです)

 癒しの力を手に入れて、舞い上がっていた自分を恥じた。

 こんなにも恐ろしい能力だとわかっていたのなら、早々に自ら命を絶つべきだった。

 生き汚く逃げ延びることなどせず、初めからシスターさんに殺されていれば良かった。

(わたしがこの力を恐れて、神を呪ったりしたから。だからこんな天罰が下るのですよね)

 無意識に彼女は祈りの手を組んだ。

 生まれてからずっと教会で育ってきた彼女にとって、それは身に染みついた所作であり、どんな場面でも神への感謝を忘れたことはなかった。

 この癒しいたみの力に翻弄されるまでは。

(普通の生活なんて、もう望まないから……神様、マリア様、どうかこの悲劇を止めてください)

 幽霊マンションの瓦礫の山の上にいた彼らの耳に、突如声が届いた。



『――聞いてくれ、愛しのシスターテレーズ』



 寒空に響く男性の声。

 市内の各所に設置されたスピーカーから、小さなノイズと共にその声は発信された。

 その声の主に心当たりがあったのは、名前を呼ばれたテレーズだった。

「もしかして、アキラ……?」

 続いて、菖蒲も呪いへ抵抗しながら小さく反応する。

「テレーズに公開告白って……もしかして確定クズバーテンダー……!?」


『先に懺悔しておくよ。これから流れる“音声”は、この事件が終わって君と離れ離れになっても、地球の裏側まで追いかけてきてもらうために入手したものだ』


 彼の言葉はこの埋芽市の誰にも伝わっていなかった。

 その不穏な発言に、テレーズの不安だけがかきたてられる。


『だけど今この状況なら、もっと有効活用できる。音質を落として調整済で、僕の身体でも試したが、効力は5時間程度に留まっているから、安心してくれ。これから行われることは、呪いなんかじゃない。歌詞のとおり、救いと祝福を届ける福音だ』


 福音という言葉に、テレーズと毬愛が同時に顔を上げた。

 彼女たちにとってそのセリフがどんな意味を持つのか、明はよくわかっていた。

 その後、その後スピーカーから聞こえてきたのは、ノイズ交じりで音質の悪い女性の声・・・・だった。

 伴奏の無いひとりきりの歌声。

 それは母が子を眠りへと導くときに口ずさむ、子守唄だった。



『静かな夜(Silent night)、聖なる夜(holy night)』

『全ては静まり(All is calm)、全ては輝く(all is bright)』



 まず初めに、永輔と桑島を含む魔女の奴隷たちが全員脱力して、地面へと倒れこんだ。聴いたものすべてを眠りへと強制的に堕とす呪いにより、テレーズの全身に自由が戻る。

「これは……眠りの魔女、ルルット・フラゴナールの子守歌!?」

 テレーズは自分の顔面を右手で叩く。

 彼女の視界では、菖蒲が日本刀を下ろして、今にも倒れそうにふらついていた。

 即座に駆け寄って、後ろから抱きしめる。その際に妖刀を掴むことで、菖蒲を支配していた殺意から解放した。

「もう大丈夫ですアヤメ。よく耐えてくれた……あとは任せて、眠ってください」

「テレーズさん、あり、がとう……」

 菖蒲は全身を預けて気を失った。

 テレーズは感謝の気持ちを込めて、もう一度菖蒲を抱きしめてから、彼女を地面へと寝かせた。

 スピーカーから流れる歌は続く。


『聖母と御子を包み込む(Round yon virgin mother and child.)』

『とても優しく、穏やかなる聖なる御子よ(Holy infant, so tender and mild,)』



 テレーズが振り返ると幽霊マンションの敷地内では、増え続けた魔女の奴隷100名近くの誰も彼もが、横たわって寝息を立てていた。

 彼女には見えないが、視界に映る遠くの夜景の中で起きていた数多の暴動も、この子守歌の中では全てが沈静化している。

 あれだけ町中を包み込んでいた喧騒が一瞬のうちに消え去ってしまった。

 眠りの魔女の子守唄は、平等にすべての人間を眠りへと誘う。

 痛みを求めて暴れまわる魔女の奴隷も。

 それに怯え惑う罪なき人々も。

 抵抗を示した勇敢な彼らも。

 同族の魔女と天敵である聖人を除いて、埋芽市には文字通りの静謐な夜が訪れた。



『天国のような安らぎの中に眠りたまえ(Sleep in heavenly peace,)』

『天国のような安らぎの中に眠りたまえ(Sleep in heavenly peace.)』



 テレーズは聞こえてくる子守歌に集中しながら、夜空を見上げた。

「アキラ……とんでもないことをしてくれましたね。本来なら許されない最悪最低な方法です」

 彼女が想うのはこの音声を流した張本人だ。

 罰殺済の魔女の呪いを無断で持ち出して、町全体を巻き込むなんてことは前代未聞の大事件だ。

 『神からの呪いアナテマ』の関係者なら卒倒してもおかしくない。

「ですが、今は感謝の気持ちしかない。本当に、アナタはすごい。私には絶対にできない方法で、私の信念を貫かせてくれた……この恩は、一生忘れません」

 もうこの町のどこにも、痛みに苦しむ人間はいない。誰もが寝息を立てて夢の中にいる。

 目を醒ましているのは二人だけ。

 テレーズは瓦礫の頂上で、毬愛へと向かって歩き出した。

 子守唄は2番へと進んだ。きっとマイクの前の香坂明すら眠っていて、誰にも歌は止められない。



『静かな夜、聖なる夜(Silent night, holy night,)』

『羊飼いたちはその光景を見て震える(Shepherds quake at the sight)』

『栄光は天の彼方から降り注ぎ(Glories stream from heaven afar,)』

『天使たちは讃美歌を歌う(Heavenly hosts sing Alleluia!)』



 テレーズは歩きながら、羊飼いの女性ルルット・フラゴナールについて思い出していた。

 “眠りの魔女”は言葉を持たなかった。

 幼少期に口を縫われ、言語野の十分な発達の機会を得られなかったからだ。

 だが、幼いころから繰り返し聴いたこの子守唄だけは、言葉の意味はわからずとも暗唱できるほど記憶に残っていた。

 彼女にとって、発声とはこの『Silent night』だけだった。

 皮肉なことに、それは神の子の誕生を祝う讃美歌だ。

 魔女は歌いながら人々を眠りへと誘い、そして死んでいった。



『神の子、救い主がお生まれになった(Christ the Savior is born,)』

『神の子、救い主がお生まれになった(Christ the Savior is born!)』



 テレーズの目の前にいる“痛みの魔女”は、嬉しそうに手を組んで、祈りを高く頭上へと捧げた。

「感謝します、主よ。神の子よ。聖母よ! もう、誰もわたしを守らない。手段が尽きたんだ……だから、やっと殺してもらえる」

 まるで、テレーズを受け入れるように両手を広げた。

 その意を組んだ聖女は、己の拳に力を込めた。

「お願い、します」

 頷いた彼女は、目にも止まらぬ速さで拳を振り抜いて、天辺毬愛の胸の中心を貫いた。

 信仰が折り重なった剛体の右腕が、魔女の心臓を正確に狙った。

「……貴女を絶命させるには、これしか思いつきませんでした」

 歌は最後の3番へと差し掛かった。


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