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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
起段

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5/55

起段 --- 八武崎礼①



「うわぁ……こいつぁひっでぇな……」

 定年間近の老刑事が死体の様子を見て呟いた。

 時刻は朝の7時前。場所は埋芽市一番の繁華街である『珠逢たまあい通り』から駅前の間に位置する袋小路だ。

 見つかった死体は激しく損壊していた。被害者はスーツ姿の男性で、珠逢たまあい通りで夜遅くまで飲んで、酔っぱらったところでも襲われたのだろうか。

 これまでの4件と同様に、凶器はチェーンソーらしい。頭から下腹部にかけて、また胸の中心から両腕へかけてと抉り、引き裂かれた傷が、鑑識の到着を待たずともその凶器の正体を強く物語っていた。

 傷は当然ながら、何よりも異様なのは、夥しいほどに飛び散った血だ。

 死体は袋小路の最奥の壁に座り込んで背中を預けていた。おそらく壁に押し付けられた状態で致命傷を受けたのだろう。縦横に描かれた返り血。箱の内側に飛び散ったように、壁に沿って曲がり、唯一止める者の無い上方向にだけ高く伸びる

 見えるのはまるで、十字架。


 今日こんにち、埋芽市で起きている連続通り魔殺人事件――通称、血十字殺人だ。


 死因は失血性ショック死だと推測される。出血多量に達する前に事切れたに違いない。

 「惨すぎる」と、これまでの現場を見た刑事たちはそろって口にした。




 ◇◆◇◆◇




 まだ明るくなったばかりの、閑散とした繁華街を駆け足でゆく。

 早朝の冷たく澄んだ空気と、吐き出される白い息が混ざる。

 石畳を叩く足音が近づいてきて、飾り気のないスーツに、地味な配色のトレンチコートが二人分並んだ。

「そっちはどうだった、八武崎やぶさきちゃん」

 先輩刑事と合流して、私たちは殺人現場へと向かっていた。

「真夜中に聞きなれないエンジン音のようなものを聴いたとの情報がありました。時刻は正確ではありませんが、大方午前3時から4時だそうです」

「前回までと同じ手口なら、凶器のチェーンソーの音だろうね。大鋸屋おがや警部に報告よろしく頼むよ」

「はい。日元ひのもと先輩はどうでしたか?」

「浮浪者や着ぐるみ、路上引き語りや野犬の声……事件の関係がないものばかりだね。犯人の特徴が分かってないと、市民は思い思いに怪しいもの全部教えてくれるから、選別が大変だ。おっと、現場の袋小路はここからかな」

 年季の入ったビルとファミリーレストランの間を通る細道へと入り込むと、警告色のテープが張り巡らされているのが見えた。

 現場では私たち2人の上司である大鋸屋おがや警部と、他数名の同僚が現場保存のために奔走していた。

 立ち入り禁止テープをくぐって現場に入る。念のために純白の薄い手袋をはめた。

「おおう、戻ったか日元、八武崎」

「お疲れ様です、警部」

「聞き込みはどうだった?」

「はい、私から一件だけ」

 先程先輩に伝えた内容を繰り返す。大鋸屋警部は神妙な表情で聞き入っていた。

「ま、その時間帯でひとつでもまともな情報があったなら上々だな。あとは鑑識が着くまで現場保存。お前ら二人はテープの外で人除けだ。それと入り込んだ路地だから、鑑識の車が来たら案内を頼む」

 声を揃えて返事をする。

 しかしその後、先輩が素早く踵を返すその隣で、私は動けないでいた。

 視界の隅に捉えたのは明るい青色。

 私の視線は、死体を覆っているビニールシートへと釘付けだった。

「ん……? どうした、八武崎」

 警部に不思議そうな顔で声をかけられる。

「いえ、その……死体を確認してもよろしいでしょうか」

 躊躇いはあったが、不安や恐怖はなかった。

 自分の覚悟を固めるために、必要なことだと思った。

「え……ちょっと八武崎ちゃん、いきなり何を言い出すんだ? 君も知ってるだろう、この通り魔がどれだけ残虐な奴かってことぐらい。止めておいた方がいいよ!」

 戻ってきた先輩が私の両肩を掴んで説得する。

「日元の意見に賛成だな。さっき確認したが、例えるならあれは箸で焼き魚を食うときみたいに、人間の身体を無理矢理こじ開けた状態だ。30年近く現場にいる俺でも、こんなに血も涙もない殺し方は見たことがない」

 血だらけの現場を背に、真剣な顔で警部は言った。

 二人はきっと、女である私を心配しているのだろう。それは思いやりだ。

 でも私は警察官で、事件に関わったこの朝から、私の仕事は犯人を捕まることだ。

 思いやりなんていらない。

 仏さんの前でそんな情けない姿は晒せない。

「お心遣い感謝します。でも、この事件の担当刑事として、私は向き合っておきたいんです」

 先輩の両手をゆっくりと外して下ろし、青いビニールシートの前まで堂々と歩く。

 膝を曲げて、心と決意を込めて手を合わせる。

 ふと、隣で足音がした。

「後輩がその気なら、僕が怖気づいてるわけにはいかないよね……」

 日元先輩も私の隣で手を合わせた。署で一番の大男のくせに、青ざめた顔が引きつっている。

 それでも、合唱を終えて先輩は力強くうなずいた。準備は整ったと言うように。

「では、失礼します」


 大鋸屋警部の例えとは、少しイメージが違った。

 焼き魚を開いても、白い身が露わになるだけだ。

 しかしこの殺人事件では、生きた人間の皮膚を乱雑に切り裂いて絶命させている。

 遺体と衣服のほぼ全てが真っ赤に染まっていた。

 血。血。血。

 肉。骨。臓腑。

 ズタズタだった。直視はとてもじゃないけど出来ない。嗅いだことのない臭いがした。よくよく考えると、鉄と、生臭さが混じったような悪臭。

 仏さんの苦悶は、もう私には理解できない。

 せめてと思って表情を伺おうとしたけれど、その顔面すらももはや無残としか言いようのない状態だった。


 ビニールシートを、ゆっくりと下ろす。

 無意識もう一度だけ手を合わせた。

 必ず捕まえて見せる、と誓う。

 私が未だ名も知らぬあなたにしてあげられることはもう、それしか残っていないのだから。

 

「満足したか、八武崎」

 遺体から離れて戻ってきた私へ向けて、大鋸屋警部は場違いにも笑みを浮かべた。

「どういうつもりの顔なんですか、それは」

 上司相手にも関わらず、つい語調が強まる。

 彼は私の頭に手を乗せて、更に頬を吊り上げた。

「部下が頼もしくなったときが、上司冥利に尽きるってもんだよ」

 意味を理解した直後、つい気恥ずかしくなって、顔を反らしてしまう。

「褒めるなら、成果を出してからに」

 すると、突然背後から聞くに堪えない嗚咽が聞こえてきた。

 状況に気づいた警部が駆けだす。

「おぉい日元!? 馬っ鹿野郎、現場で吐くやつがあるか! どけ!!」

 首根っこを掴まれた大男は私の足元に投げ飛ばされた。ちょうど警部の姿と重なって見えないが、あの怒り様だとあそこにはモザイクをかけたくなるような光景が広がっているに違いない。

「おぁ、おおぇぇ……す、すみばせん警部……我慢、出来なくて」

 顔を上げた日元先輩は、心配する気も失せるような情けない顔をしていた。本当に、図体はデカいのに、メンタル面では頼りない男である。

「あああもう警官が現場荒らしてどうすんだおい日ノ元! さっさとここ掃除しろ! 鑑識に見せられねぇだろ!!」

「は、はい! すぐに!!」

 フラフラしながら立ち上がった先輩を呆れ顔で見送る。悪いけれど、吐瀉物掃除の手伝いはしたくない。

 まだ青い顔の先輩と、怒りで赤くなった顔の警部のやり取りを見つめていると、聞き馴染みのある警戒音が近づいてきた。

 パトカーのサイレンだ。

「おい来ちゃったじゃねぇか日元!」

「警部。私、表まで迎えに行ってきます」

「ああ、そっちは頼む! ほら手伝ってやるから急げ!」

 踵を返した瞬間だった。

 袋小路を抜けた先に突然パトカーが現れる。大音量のサイレンとブレーキ音が同時に耳へと突き刺さった。

 土ぼこりを巻き上げて停車したパトカーから、ドアを蹴り開けて人が降りてくる。

「いやー、間に合った間に合った! 鑑識より先に着いたみたいね、セーフ」

 現場の刑事たちの視線を一身に受けて、その女性はくるりと周りを見渡すように軽やかに回転して見せた。

 膝まである白のトレンチコート。その内側には結婚式の来賓でしか見ないような黒のドレス。とても警官とは思えない派手な服装の麗人だった。


 ――誰?


 殺人事件の現場に乗り込んできた場違いな女に対して、きっと現場の誰もがそう思ったに違いなかった。


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