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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
急段

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47/54

急段 --- 白柳魅世②


「そうですね。では……最後に、こちらも」

 彼女は運転席のドアポケットから追加でひとつのファイルを取り出した。


 先程の5つと違ってくすんだ色合いで、時代を感じさせる事件簿だった。タイトルの日付を見ると、今から15年ほど前に起きた事件の記録だとわかる。

「私が中学生だった頃に起きた事件です。聞き込み調査で優しく声をかけてくれた大鋸屋警部もまだ白髪がない頃……警察官を志すきっかけになった出来事です」

 手渡された明はそのファイルを開いて、しばらくページをめくったあと手を止めた。

 明が逡巡する様子を見せたことで、白柳が助け舟を出した。

「……識名新太郎、遠慮しないでいいわよ」

 彼女は八武崎への負い目から、包み隠さないことを決めている。

 その言葉を受けて、明は説明を始めた。

「直感の感想は、悪鬼會らしいというものだ」

 八武崎の表情が一層険しくなる。

「自殺願望者に声をかけて、心中と見せかけて殺人を繰り返した凶悪犯。狡猾かつ捜査の攪乱が上手い。3件やって足が付かなかった相手だが……」

 明はページをめくり、犯人を追い詰めた証拠の写真を指す。

「4件目の犯行で残した毛髪のDNA検査から芋づる式に繋がって、事件に使われた品や通信記録から過去の事件まで含めて立件が可能となった――だが、本人は一貫して4件目の関与を否定している。『誘いをかけた人間は、待ち合わせ場所のサービスエリアに来なかった』とね。死体があるから、相手にされなかったけど」

 白柳へと視線が集まる。明は臆することなく推理を突き付けた。

「ハメたんだろう、悪鬼會。4件目はこの犯人の犯行じゃない」

 対して白柳が、目を伏せたまま淡々と回答した。

「ウチの手法ね。ボロを出さない犯人を引きずり出すために、架空の類似事件を作って、決定的証拠を添える」

 八武崎は嫌悪感を露わにして、吐き捨てるような視線で白柳を見つめた。

「常軌を逸している……吐き気すらします」

「本当の4人目の被害者が出るよりも、そっちの方がマシだと思わない? 量刑論、永山基準でも複数人の殺人は極刑相当。3人だろうが4人だろうが、どっちにしろ犯人は首を括られたわ」

 白柳は悪びれもなく続けた。彼女にとってはこれは大義と論理の筋が通った業務であり、いくら誹りを受けようとそれを覆すつもりはないらしい。



「4人目の被害者、種田たねだ奈津季なつきは私のクラスメイトでした」



 その言葉に、パトカーの中の空気は凍り付いて、白柳すらも息を飲んだ。

「対して仲良くもない。クラスでも浮いていて不登校気味だったし、自殺願望があったと言われても納得できるような雰囲気でした」

 八武崎のブラウンの瞳に、涙が溜まっていく。冷たかった声に、段々と抑えきれない感情が溢れ出した。

「でも、だからこそ、私が一言声をかければ何かが変わったのかもしれないと後悔する気持ちと! 『気にやむことは無い、警察がもっと早く逮捕出来ていれば良かった』と言った大鋸屋警部の言葉が! ずっと私を正義に向かわせてきた……なのに……なのにッ!!」


 八武崎は、自分の側頭部に拳銃を突きつけた。


「私の志は、茶番だった」

 彼女にとっては、その原点を穢されることが何よりも耐え難かった。

 たとえ右目を失って、心に殺人鬼が混ざろうとも関係ない。自分が正義を貫くと決めた志だけが八武崎礼を八武崎礼たらしめていた。

 でも違った。

 そんな事件は存在しなかった。

 人生丸ごと踊らされた。

「もういいですよ」

「待って!!」

 白柳が身を乗り出す。

「約束しましたよね。一発だけ止めないって」

 それを八武崎は鋭い視線と拳銃を受け取ったときの約束を持ち出して静止した。

 ここまで見越していたのか、と白柳は圧倒され、押し黙ってしまう。

 明もこの状況を前に微動だにすることができない。

 八武崎礼の精神は完膚なきまでに叩きのめされて、生きる希望を失った。


 死ぬ。

 自殺。

 殺意。


 引き金に力を入れようとした、瞬間。

 八武崎の脳の奥が熱くなる。

 正確には、右目とその奥に連なる、自分自身のものではない細胞組織。

 自分自身を“殺す”という思考が、右目の奥の君ヶ袋小路の細胞にこびりついた、ある呪いの残滓を呼呼び起こした。



 ――殺意に呼応する怒りの妖刀、瞋恚しんにの呪い。



 「他者を殺せ」と囁く、根源的煩悩の極致が、八武崎の行動を支配しようと暴れ出す。

 引き金に指をかけたまま、八武崎の行動は時間が止まったように静止した。

 その緊迫した時間がたっぷり30秒ほど流れて、白柳と明は一言も発することなく血走った瞳の八武崎を見つめることしかできない。

「…か、つく」

 しかし、どれだけ時間をかけても、殺意は育たなかった。

 彼女に取り憑いた呪いは、あまりにも小さかった。残滓の更に片鱗に過ぎず、八武崎の思考や行動を乗っ取るほどの効力はなかった。

 ただ何の影響もなかったわけではない。殺意の片鱗が怒りとなって、八武崎の失意や諦観の思考に、水を差した。

「……ムカつく」

 八武崎は銃口を側頭部から離すと、目の前のフロントガラスに向けた。

 彼女はついに、人差し指へと力を込めた。

 発砲音がパトカーの中を乱反射して耳朶を叩く。立体駐車場の屋上から、夜空に向けて乾いた破裂音が響き渡る。

 繰り返し、何度も。


「何が、悪鬼會だ。何が、情報屋だ。何が、魔女だ。何が、妖刀だ。何が、殺人鬼だ……ふざけるな! ふざけるなぁ! 私の邪魔ばっかりしやがって、いい加減にしろぉッ!!!」


 運転席から正面に向けて放たれた銃弾はベレッタ92X Compactのマガジン13発を撃ち尽くして、フロントガラスを粉々に砕いた。

 妖刀の呪いが焚きつけた怒りの火種は、あっという間に抑圧されていた彼女のストレスを決壊させて、倫理観を破壊した。

 乱射が終わっても彼女は引き金を何度も押し込む。空になった拳銃の中で鳴るカチ、カチという乾いた音と、荒い吐息が交互に聞こえる。

「ハァ……ハァ……!」

「やぶ、さき、ちゃん……?」

 頭を下げていた白柳が、恐る恐る運転席を覗き込む。助手席の明は窓へとへばりつくように身を避けて怯えていた。

 声をかけられた八武崎は、引き金を引くことを止めた。

「……私が25年間築き上げてきた大事な警官人生をめちゃくちゃにされて激しく怒っていましたが……撃ち尽くして、ほんのちょっとだけスッキリしました。返しますこれ」

 拳銃が後部座席へと放り投げられて、白柳の隣に転がった。

 ゆっくりと長く息を吐きだしたあと、両手で頬を叩く。

「こんな歪みきった奇妙奇天烈な連中に、私の生き方を台無しにされることが一番ムカつくので、この事件を全部片づけるまでは、とにかく抵抗してやります」

 一度は生きる希望を失った彼女だったが、妖刀の呪いが功を奏したのか、怒りを原動力に気力を取り戻したらしい。

 自殺を回避したことで、白柳と明はほっと胸を撫でおろした。

 しかし同時に、この状態の八武崎がどんな行動にでるのか予想は出来ないことは、気がかりで仕方なかった。




 明は一連の出来事を見て、小さい声で「クレイジーすぎるよ……」とつぶやく。

 それを一瞥した八武崎の視線に小さい悲鳴をあげた。

 だが、彼女が目を向けたのは明ではない。その奥の窓ガラスに人影が見えた。

 コンコン、と。助手席の窓をノックする音。

 窓を開けるまでもなく、風穴だらけのフロントガラスを通して声が聞こえた。

「おぉい、アンタら大丈夫か? すごい音が聞こえていたけど」

 先程の拳銃乱射を聞きつけてきた市民らしい。40代ぐらいの男性だ。明が返事に窮していると、八武崎が悪びれもなく告げた。

「ええ、お構いなく。ストレスを発散しただけです」

「なんだ。そうか無事なら、無傷なら、そりゃ良かった」

「はい。用が無ければ立ち去ってくだ」


 ――八武崎の視線の先で、男性が腕を振りかぶるのが見えた。


 彼女は咄嗟に明の胸倉を掴んで、運転席側に引き寄せる。

 直後、肘を叩き込まれた窓ガラスが割れて、破片が助手席へと降りかかった。

「どうだ、怪我したか? 痛いか?」

 男性は薄ら笑いを浮かべながら、虚ろな瞳で車内を覗き込んだ。

 脈絡不明な暴力に襲われた八武崎は、厳しい声色で返答する。

「どういうつもりですか。逮捕しますよ」

「あ、ありがとう八武崎巡査」

 明は八武崎の助けにより無傷だった。反対側の運転席の窓に額をぶつける勢いで引き寄せられ、彼の腰辺りを八武崎が抱えるように受け止められていた。

 誰も怪我をしていないことを、暴漢は残念に思ったらしい。

「避けたのか……じゃあ、今度は直接殴るのはどうだ?」

 砕けた窓から腕を差し込んで、明の足へと掴みかかる。

 後部座席からその異様な光景を見ていた白柳が、咄嗟に機転を利かせた。

 手を伸ばして助手席ドアのロックを解除し、続けてレバーを引いて半ドアの状態を作る。

「八武崎ちゃん、思いっきり蹴り!!」

 意図を理解した八武崎が、運転席から左足を引き抜いて、助手席のドアを靴の底で踏み抜いた。

 衝突音。

 続けて暴漢が悶える声が続き、開け放たれたドアの向こうに、転がっていく様子が見えた。

 立体駐車場の床に残る血の跡。

 暴漢は擦り傷を負った顔を上げて、薄ら笑いと虚ろな目を向けた。

 そこにどこからともなく数匹の蛾が飛来して、彼の顔にとまる。

 明がその様子を凝視していると、蛾が顔に張り付いた直後、その擦り傷が跡形もなく消えたように見えた。

「……怪我の治癒……癒しの聖女、いや、痛みの魔女」

 明は嫌な予感がして、咄嗟に八武崎へと声をかけた。

「ここから逃げろ!!」

「はい?」

「いいから運転して、この駐車場から出るんだ!」

 彼はガラスの破片だらけの助手席を避けて、後部座席へと移動する。

 その間に暴漢が立ち上がって、再びパトカーへと迫っていた。

 状況を見て、八武崎はエンジンを入れる。

 即座に発進させて、パトカーは立体駐車場の屋上から下り始めた。

「フロントガラスがヒビだらけで、前が見えないんですけど。ムカつきますね」

「それは自分が乱射したせいだろ!」

「ちょっと、まともなツッコミしないで! 八武崎ちゃんがまたキレたらどうすんのよ!」

「腫物扱いも、ムカつくんですけど……?」

 怒気の籠った声に、二人は小さく悲鳴を上げた。




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