急段 --- 白柳魅世①
紫煙が立ち上り、夜風がそれをほどいて溶かす。
タバコを咥えた白柳の横顔は、人を惹きつける艶やかさを持っていたが、それを見るものは誰もいない。
彼女は立体駐車場の屋上の縁に肘を置いて、夜景を見下ろしていた。
「やけに騒がしいわね」
正面から警鐘を含む消防車のサイレンが響く。それとは別に、背後からも救急車のサイレンが聞こえていた。
「取り逃がした血十字ちゃんが暴れてんのかしら」
既に興味を失っている追跡対象について、白柳はどこか他人事のようにつぶやいた。
すると今度は、足元から怒号が聞こえてくる。
見下ろすと、立体駐車場が面した通りで男二人が掴み合いの喧嘩をしていた。
「……この町、こんなに治安悪かったっけ?」
「白柳さん! 香坂明が、目を醒ましました!」
背後から大きな声が届く。
振り返ると、屋上に停車したパトカーの横で、八武崎がこちらを向いていた。
白柳は携帯灰皿にタバコを押し付けて、彼女の元へと急いだ。
「現在の時刻を教えてもらえるかな」
パトカーの助手席には手錠で拘束された香坂明が座っていた。
後部座席で白柳が腕を組んで構え、運転席の八武崎が腕時計を見て時刻を伝えた。
「随分と眠っていましたね。今は午後10時過ぎです」
「……5時間か。昏睡にしては軽度だ。音質調整後のぶっつけ本番にしては悪くない」
要領の得ない発言をする明に対して、八武崎は状況を説明する。
「あなたは路地裏で暴漢に殴られて気絶していたようです。その事情に興味はありませんので、こちらの聞きたいことを尋ねますね」
明は自分の頬にそっと触れた。わずかな腫れに気づき、昏睡前に殴られたことを思い出す。
「傷害事件を放置。加えて被害者を手錠で拘束とは……生真面目な貴女らしくないね、刑事さん」
「一介の警官に過ぎない私のことをご存じですか。本物のようで安心しました……では、ボトルの135番から一杯頂けますか?」
明は目を丸くして八武崎を凝視した。
古い数字の数え方で、1、3、5はそれぞれひぃ、みぃ、いつ。彼女は香坂明が情報屋『識名新太郎』だと理解しており、情報の買い方すらも認知していた。
だが、明はその強引さを警戒した。識名新太郎の認識の外で、識名新太郎の名前が知れているのは都合が悪い。小手調べに、その情報源を探ってみることにする。
「生憎一見さんはお断りだ。誰の紹介かな?」
八武崎はため息をついた。煩わしいやり取りを簡単に解決する手段として、彼女はベルトのホルスターに手を伸ばす。
機械仕掛けが噛み合うような硬質な響きが、香坂明の額に押し付けられる。
八武崎の手には、拳銃が握られていた。
車内に緊迫感が走る。その凶器の持ち主だった白柳も、まさか愛銃がこんなにも軽々しく登場するとは思わず、冷や汗を浮かべた。
「……警察官のやることとは思えない。哀れだね、どうしてここまで堕ちたんだい? 八武崎礼巡査」
「知ったような口を利くな、識名新太郎」
その重苦しい声色は相手を威圧するために発せられた。彼女らしい規律正しい様子は失われ、攻撃性がにじみ出ている。
「私は姫路君忠の全てを知っている」
八武崎は白い布製の眼帯を剥ぎ取って、黒い瞳を露わにした。
「姫路君忠と香坂明は高校時代、吹奏楽部の先輩後輩だ。姫路がユーフォニアムで、貴方がホルン。楽譜の覚えが早い先輩のことを、よく羨ましがっていましたね」
「……同級生に聞けばわかることだ。その程度で」
彼女は明の発言を遮って続けた。
「彼が最愛の妻を失って人生に絶望したときに、『君ヶ袋小路』という別の名前を与えたのが貴方だ。偽装屋と呼ばれる公文書偽造を得意とする人間と繋がっていますね。その後、彼が路頭に迷わないように新居や働き口まで口利きをした。妻の死亡保険の半分も払わされた」
「……ちゃんと友人割はしたよ。でも、確実にヒメ先輩と僕しか知らないことだ。どうやって?」
「貴方に質問の権利はない」
明の額に触れる冷たい銃口。八武崎の容赦のない尋問は続く。
「安心してください。あなたが血十字殺人に関与していないことは分かっています。あれは狂った男の単独犯だ。
私が知りたいのはとある組織のことです」
とある組織、というワードを聞いて白柳はまばたきをした。彼女には心当りがある。
「姫路に新しい名前を与えた貴方は、傷だらけの顔でも働ける場所をいくつか提示した。結局彼は着ぐるみのアルバイトを選びましたが……ひとつは、貴方たち情報屋の仲間」
八武崎の脳裏には当時のバーの場面が浮かび、香坂明の発言が一言一句正確に思い出されている。
『先輩の映像記憶は、僕たち情報屋の仕事にすごく向いてるよ。一緒にやらない?』
香坂明は姫路の能力を高く買っていた。加えて世捨て人となる事情は、裏社会の業務への適正になる。それ故に斡旋された仕事には常人には到底不可能な職業が含まれていた。
その中のひとつに、八武崎が探る組織があった。
「『悪鬼會』という組織について、知っていますね?」
『もし本当に世捨て人になるのなら……鬼ヶ島の鬼でもやってみる? シナリオ通りに、人を殺して桃太郎に退治されたらいいんだ』
香坂明は組織名の名言を避けたが、当時の姫路君忠に対して悪鬼會と思われる業務を紹介しようとしていた。その記憶に目を付けた八武崎は、香坂明から悪鬼會について探ることを狙っていたのだ。
「貴方はそれを必要悪の犯罪組織と説明しました。殺人がきっかけに進む立法、法改正、社会規範の是正……悪鬼會の活動と符合する」
「それについては私から説明しようか?」
後部座席で白柳が手を上げると、八武崎はそれが気に食わなかったらしい。
「信用できるわけがないでしょう!! 白柳さんには、この男の発言について正誤判定という役割がある。二人で発言中に示し合わせたり、合図して私を出し抜こうとするのは許しません」
八武崎は疑心暗鬼に陥っていた。
警察組織への忠誠心と、自分の信じる正義の瓦解。右目に埋め込まれた異物と、脳に刻まれた他人の不幸。彼女が正気を放棄する理由はいくつでもあった。
「発砲の権利を保証された。銃口は貴女に向けたっていいんだ」
白柳が諦めたように両手を上げた。八武崎を説得するのは不可能に思えた。
「知りたいことを尋ねてもらうのはいいけどさ、支払いはできるの? 普段はいい金額を貰ってるんだけど」
「この銃が見えないんですか……?」
八武崎は明を睨みつけて、銃口を更に額へと押し付けた。
「私はねぇ、紳士的にやってるんですよ!! 鉛玉の先払いが欲しいのなら、今すぐ脳天にぶち込んだって構わないんだ。そのことを理解した上で行動することをお勧めします」
自分のものではない口癖混じりに、彼女は感情を爆発させる。
それまで軽口を混ぜる余裕を見せていた明も、ついには全面的に従うことを選んだ。
「オーケー、安全が買えるなら喜んで情報を払うよ」
その言葉を聞いて、八武崎はいくぶんか落ち着いた。運転席に深く座り、息を整える。その間も銃口は明に向けられたままだ。
「ダッシュボードを開けてください」
明は指示に従って、パトカーの助手席のダッシュボードを開いた。そこには青色のリングフォルダが5つ格納されていて、タイトルには日付と地名、そして番号が振ってあった。
「これは……警察の事件簿か?」
「はい。調書・報告書・写真・証拠目録などがまとまったフォルダです。それら5件が、私が任官してからこれまで関わった殺人事件の記録になります」
警察署から事件記録を無断で持ち出すのは、当然のことながら服務規程違反となる。彼女は懲戒覚悟でそれを持ち出してきたらしい。
「その5件が悪鬼會が関与した事件かどうか、答えてください」
八武崎は確かめたかった。
仮に悪鬼會という組織が実際に存在していて、大義のために犯罪を利用していると仮定する。次に考えてしまうのは、自分の担当案件だ。
せめて自分が正義を成すために汗水たらした事件だけは、悪鬼會の作った茶番であってほしくない。この世のどこかで戦争が起きているのと、戦火に巻き込まれる当事者になるのは全く別次元の話だ。今ならまだ、八武崎は秘密を知っただけの部外者でいられると思いたかった。
明は指示通りに5つのファイルに目を通す。明は表情ひとつ変えず読み進めていく。ページをめくるたび、静かなパトカーの中で緊張感が高まっていく。一冊当たり2分、5冊で10分程度の時間が流れた。
最後のファイルが閉じられて、5冊分が積み上げられた。
「結論から言おう、これらの事件に悪鬼會は関わっていない」
明は淡々と告げた。白柳もほっと胸をなでおろす。
「根拠は?」
八武崎はまだ納得せず、銃口を向けたまま説明を求める。
明は押し黙った。根拠を示すということは、悪鬼會の秘密の一端を開示することに他ならない。それを悪鬼會の局長のひとりである白柳の前で暴露するのは憚られた。
彼の視界の端で白柳が小さく首肯する姿が見えた。
「……悪鬼會の事件には特徴がある。何かが架空なんだ。①事件そのもの②被害者③加害者、このどれかは悪鬼會が用意したもので、実際には存在しない被害者が死んだり、加害者の過去が空白だったりする」
八武崎が白柳へ視線を送ると、「その通りよ」と短く答えた。
「あとは社会影響が目的だから、過度な演出によりセンセーショナルに喧伝されることが多い。八武崎巡査の担当事件は、『カプセルホテル立てこもり事件』『幽霊マンション連続高校生突き落とし事件』の2件は派手にニュースになったけど、TV中継、多数の学生証言、獄中自伝など前後の確証が強く、悪鬼會のシナリオとは思えない」
言い過ぎだ、と感じた白柳は表情をピクピクと動かしたが、この状況では静止することもできない。自然に遮るべく発言する。
「貴女の正義の邪魔はしてなかった。これでもう満足したでしょ、八武崎ちゃん」
八武崎は香坂の説明には納得していた。悪鬼會の特性とこの5件が噛み合わない部分が多いのは確かだ。自分が任官されてからの直接関与についてはひと安心出来たのかもしれない。
「そうですね。では……最後に、こちらも」
彼女は運転席のドアポケットから追加でひとつのファイルを取り出した。




