急段 --- 霧崎菖蒲①
「幽霊マンションが、無ぁああああい!!」
バイクから下りてきた永輔の叫びが空虚な冬空にこだました。彼の青春時代の一部を構成していた溜まり場が瓦礫と化している。
彼は肩を落としながらも、テレーズと菖蒲に合流した。
「すみませんエースケ。壊してはいけませんでしたか……?」
「いや、まあ別にいいよ……元々廃墟だし。それより傷増えてるな、無事か? 殺人鬼は?」
「……殺人鬼はもういません。敵はあの魔女です。特に蛾は危険でして、爆弾だと思って、触れない様に気を付けてください」
「蛾だって? そこら中にいるけど……」
「永輔、危ない」
彼の背後に迫っていた蛾を、菖蒲の突きが両断した。
「そっちの方が危なくないか!?」
耳元で日本刀が通りすぎる音を聞いて、永輔は身を竦めた。
文句を言いつつも、菖蒲に迫っている蛾に気づいて声をかける。
「あ、おい菖蒲の近くにも一匹来て……」
「ん……? これは大丈夫だよ」
菖蒲はそう言うと、片手で宙を舞う蛾を掴んで、握りつぶした。その手からもげた翅と潰れた体が落ちる。
その様子を見てテレーズは驚愕した。
「もしかして、“痛み”を持っている蛾とそうでない蛾の区別が……?」
菖蒲は頷くと、夜空を舞う蛾を指さした。
「蛍みたいに光っている蛾がいる。色は赤色だけど……たぶんそれが危険なやつだと思う」
「呪いへの適応度が上がっていますね。もしかして」
テレーズは菖蒲の状態を見て、ある推測を立てた。彼女に近づくと、右手でその腰にある日本刀に触れる。
その瞬間、テレーズは自分の右腕の信仰の力が相殺されるのを感じた。
「なんてことを……貴女が持ってきたこの2本も、すべて魔剣ではないですか……!?」
菖蒲は手にしていた妖刀を鞘に納め、特攻服の腰のベルトに3本の日本刀を揃えた。
直後、そのうちの一本を抜いて、テレーズの背後に迫っていた蛾数匹を一息で切り伏せる。
「一刀貪欲、初實剣理方一流――刎截」
腰を低く落とし、下方から斬り上げる独特の居合斬り。両断された蛾が地面に力なく落ちていった。
剣を一振りして鞘に戻した菖蒲はテレーズへと振り返る。
「うちに伝わる妖刀は3本あったの。名前は貪欲、瞋恚、愚癡。この3本を同時に持つとき、一時的に呪いを相殺して人格を保てる。それが妖刀の唯一の制御方法だよ」
妖刀が冠する名前は仏教において貪・瞋・癡、いわゆる三毒と呼ばれる煩悩の根源的悪徳だ。作り手も年代も違う三本だが、人を斬りすぎたことや、真っ当な剣士に巡り会わなかったことなどいくつかの悪縁が重なり呪物化してしまった。霧崎家は由緒正しき剣術の担い手として、そのような取扱いに困る刀の保管を引き受けていたのだ。
「一本でもあれだけ残滓が悪さをしていたのに、そんなことをしたら、貴女の身体は呪いから抜け出せなくなります!!」
「それでも、わたしにとってはテレーズさんにすべてを任せて逃げるよりマシだった」
テレーズはその言葉を受けて絶句する。
菖蒲の横に並んだ永輔が、彼女の肩を持った。
「こいつの実力は何度も殺されかけた俺が一番わかってる。役に立つぜ? あとすげえ頑固だ」
余計な一言で永輔は肘鉄を貰った。しかしその一言でテレーズも菖蒲を退けることはできないと決心した。
「まだ子供だと思って侮っていた私を許してください。あなたに背中を預けます」
恩人の言葉を受けて、菖蒲は嬉しそうにうなずいた。
「うん! 任せてテレーズさん!」
三人は並んで瓦礫の上へと視線を送る。
その先には月を背景に、痛みの魔女と彼女を取り囲む夜蛾がひらひらと舞っていた。
「妖刀の三つ巴は長く持たない……短期決戦でいくよ。蛾を操ってるのはあの娘だよね」
「ええ。痛みを持つ蛾を落とすサポートをお願いします。魔女へのトドメは、責任を持って私が」
「俺はあんまり手伝えることなさそ……う、あれ、何か見覚えのある坊主頭が……」
永輔が月明りの逆光に目を細める。その先にいた彼の宿敵と目が合った。
不良の言葉を使うとすれば、「ガンをとばす」という状況であり、にらみつけて相手へ敵意を示す行為だ。
魔女の隣にいた男が駆けだして、瓦礫を下りながら因縁の相手へと威嚇を返す。
「この……クソダサヘアバンド三白眼古臭ジャージコラァァアッ!!!」
「んだとこの勘違いオシャレ気取り剃り込み坊主スカジャン野郎ォ!!」
喧嘩を吹っ掛けられた永輔が、反射的にノータイムで暴言を返して大股で歩き出す。
瓦礫から地面に降り立った桑島も肩で風を切って歩く。
視線をぶつけながら距離を縮めていった不良少年たちは、ついにメンチを切ったまま額を衝突させた。
体格差でやや勝る桑島が抑えつけるように上から額をぶつけ、負けじと下から永輔が突き上げる。
その様子を全員が遠回しに見守っている。特にテレーズと毬愛は、さっきまで洗脳されていたはずの桑島が自我を取り戻したことに驚いていた。
「おい桑島、喧嘩の前に2発殴れ」
「あぁん? 頭湧いてんのかてめぇ」
永輔からの突拍子もない提案に桑島は威嚇を強める。
「遼太と健吉の分、殴れって言ってんだよ。いつも3vs1だろうが」
「ナメてんのか」
「違ぇよ。気が晴れるとは思っちゃいねえけど、弔いは必要だろ」
謎の提案を疑問に思った桑島だったが、その理由はなんとなく腑に落ちた。
要するに、永輔は責任を感じているのだ。廃工場での喧嘩で3人がノックアウトした後、殺人鬼に襲われて2人は命を落とした。当然、そのことで永輔を恨むのは筋違いだが、無関係とはいえない永輔にとってわだかまりが残ったまま、未決着となっていた。
気持ちを汲んだ桑島が、拳を握る。
「……さっさと歯を食いしばれ」
永輔が準備をすると、間髪入れずその頬に桑島の重い拳が突き刺さった。その一撃は永輔の身体を軽々しく吹き飛ばして、地面を2、3メートル転がったところでようやく止まる。
(なんだ、コイツ……いつもより段違いに重い……!!)
裂けた口の中から唾液と血が混ざって垂れる。
簡単には立ち上がることもできず、永輔はしばらく地面に伏せた。
「永輔!? どうしたの? 桑島には負け無しって言ってたのに……!」
その様子を見ていた菖蒲が驚く。彼女が見つけたSNSの動画でも、永輔は桑島を圧倒して、攻撃を食らっても打たれ強くすぐに反撃していたはずだ。
隣のテレーズが解説を挟む。
「彼は痛みの魔女の呪いを受けて、痛みを集めるために凶暴化しています。きっと普段以上のパワーを発揮している」
永輔は震える足でなんとか立ち上がる。そこに桑島が腕を回しながら近づいた。
「おい、コラおしゃれ坊主。もう一発寄越せよ」
「ここで加減すんのは筋違いだよな。遠慮無しでいくぜ」
永輔が虚勢を張って両手を広げると、その身体の中心に再度拳が叩き込まれた。永輔は再び地面を転がって、フェンスに激突して静止する。
ピクリとも反応はなく、気絶したのかもしくは動けないほどのダメージを負ったようだった。
頬と胸への2発の打撲と、地面を転がっていくつも擦り傷のある永輔の身体は“痛み”でまみれていた。
夜空を舞う蛾が十数匹永輔へと飛来する。
菖蒲が焦るが、そこに危険の色がないことが彼女の視界で確認できる。テレーズへと目を向けると同意の相槌があった。
「大丈夫です。あの蛾は痛みを奪うために集まっている。その後はエースケも痛みを集める先兵として洗脳されるかと思いますが……この状況を見るに、洗脳の有無に関わらず彼らの行動は同じようだ」
永輔の身体から蛾が飛び立つと、彼はフェンスに手をついて立ち上がった。
身体の調子を確かめるように肩や首をまわしながら桑島の正面へと戻っていく。
「思いのほかスッキリしたぜ」
「……そりゃお互い様だ」
桑島にとっても、殺人鬼への弔い合戦は不完全燃焼だった。ここで彼らにとっての血十字事件はある種の終着を迎えることが出来た。だからこそ、ここから始まるのは純粋な殴り合いであり、彼らにとっての日常茶飯事だ。
「理屈はわかんねぇけど怪我は蛾が治してくれる」
「じゃ、飽きるまで闘れるってことだな」
テレーズの拳と菖蒲の妖刀では人間を一撃で殺しかねない。永輔が桑島を引き受けてくれたことは結果的に適切な役割分担だった。
殴り合いを始めた永輔と桑島を傍目に、テレーズと菖蒲は構えた。永輔から回収された痛みを持った蛾が空を舞い、こちらを狙っている。
「私には蛾の呪いは効きませんので、ある程度は任せてください」
「嫌だ。見えてるんだから、私が全部叩き斬るよ」
菖蒲はテレーズを先導する形で瓦礫へと向けて走り出した。
反論すら許されなかったテレーズだが、内心は助かったのも事実だ。呪いが直接は効かなくても、爆発の衝撃や、破片は右腕以外の身体にダメージを与えかねない。
白い長ランが風に吹かれて、その背面に刺繍された『花道一直線』の文字がはためいた。
彼女は頼もしい友人の背中を追いかけながら、その剣技を目の当たりにした。
「テレーズさん、一歩後ろに着いてきて!」
菖蒲は腰に差した3本の日本刀に、順番に触れた。
彼女の眼前には、魔女への接近を防ごうと、蛾の群れが不規則の軌道で波状攻撃を仕掛けてくる。その危険信号の赤色に目星をつけて、菖蒲は抜刀した。
「一刀貪欲、初實剣理方一流――刎截」
妖刀には鍛造された約700年前からこれまでの持ち主たちの殺意、怨嗟が込められている。
それと同時に、過去の使い手たちの戦闘経験も蓄積されていた。彼女は刀を手にしている間だけ、習得した覚えのない実在する剣技を扱うことが出来る。菖蒲はこの瞬間において、いくつもの戦場を経験した歴戦の剣士としての実力を有していた。
本来なら5年、10年と修行を積まなければ伝授されることすらない秘儀を、女子中学生が思いのままに駆使するという矛盾がそこに体現している。
「二刀瞋恚、示現流剣術――礒月・行」
振り下ろした刀が瞬時にトップスピードに至り、一閃に遅れて蛾が割れる。
本来なら殺意に飲まれ忘我に剣を振るだけであり、このような技術体系のみを都合良く抽出することは出来ない。
だが3本の妖刀を均等に使用することで、菖蒲に流れ込む3種の強力な煩悩は一時的に相殺される。3方向から波がぶつかって、調和する点が現れるように。不安定で、次の瞬間には壊れてしまってもおかしくない均衡を菖蒲は維持し続けていた。
「三刀愚癡、天眞正傳香取神道流――發之太刀」
瓦礫を駆け上がりながら妖刀を順番に抜刀して、痛みを抱えた蛾を的確に切り裂いていく。
その裁きは達人の域を超えて、目にも止まらぬ速さで幾度となく繰り返された。
月明りを遮る人影がすぐそこまで来ている。
気づけば魔女の座る頂上に迫っており、彼女の周りを舞う蛾も、数えるほどまでに減っている。
菖蒲は突きの構えを向けて、その背後から飛び出したテレーズも右手に力を籠める。
あと一歩のところで、痛みの魔女が口を開いた。
「――終わりたいのに」
毬愛は絶望していた。
自分の命の終わりに対してではない。
尽きることのない呪いの悪辣さに対して、毬愛自身も呆然とするしかなかった。
「やっと殺してもらえる……と、思ってしまったからでしょうか」
魔女の呪いは、本人の考えに関わらず呪いを効率的に集めるために作動する。更に、本体である毬愛を守るために、呪いを駆使して最適解を導き出してしまう。
幽霊マンションが倒壊した瓦礫の頂上からの景色は、菖蒲とテレーズを愕然とさせた。
人。
人間。
奴隷の群れ。
反対側から瓦礫を這いあがってきた人間たちが、痛みの魔女を守ろうと彼女を抱き寄せて、繭のように包み込んだ。
テレーズが洗脳された桑島の様子を見て予想していた通り、痛みを集める過程で蛾に触れたこの町の人間たちは、魔女の奴隷となっていた。幽霊マンションからほど近い場所にいた彼らは魔女本体を守るためにこの地に集まってきていたのだ。
女王を守護するハチやアリの行動に近い。彼らは命令するまでもなく、本能的に防衛行動をとる。
一人の中年の男性が、虚ろな表情で毬愛を守って立ち塞がった。
菖蒲の刀と、テレーズの拳が魔女を庇う男性に届く瞬間。
「おっさんどけコラァ!!」
永輔の蹴りがその中年男性を突き飛ばし、彼は瓦礫の下まで転がり落ちていった。
日本刀と拳が空を切る。
2人がホッと安堵したところで、永輔の怒号が飛んだ。
「バカ野郎菖蒲! 今まで殺さずに来たんだから、気を抜くなよ! あとこの期に及んで俺以外を殺そうとするな!」
前半はまともな叱咤だったが、後半に謎の嫉妬らしきセリフが続いた。
「どういう心境で言ってんの……」
「ふふ、いいバディですね」
3人が一時の談笑をしたのも束の間、後ろから追いついてきた桑島が永輔の首根っこを掴み、振り返ったところを殴りつける。
「てめぇこそ俺との喧嘩中だろうが!」
一発貰った永輔はバランスを崩し、瓦礫を転がり落ちていった。通常なら再起不能になる大けがを負う場面だが、蛾が集まって解散したあと、下方から桑島への文句が元気に聞こえてくる。
その間も魔女の奴隷たちは瓦礫の上へと昇り続けて毬愛を取り囲んでいった。更に段々と町から痛みを集めてきた蛾も補充されてきている。
「ここまで人が多いと接近できない……一旦退きましょう、菖蒲」
テレーズが菖蒲へと手を伸ばすと、そこへ数匹の蛾が飛来して瓦礫が爆ぜた。
土煙が立ち込めた中から、お姫様抱っこで菖蒲を抱えたテレーズが飛び出して、5メートル近い落差をものともせず瓦礫の下へと着地した。




