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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
急段

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42/54

急段 --- テレーズ・ダ・リジェ①


 『マルコによる福音書』や『マタイによる福音書』には地獄についてこんな記述がある。

 最後の審判の日、正しき行いをしたものは天国へと導かれ、悪しき人は地獄へと落とされる。

 地獄では消えることのない業火に身を焼かれ、死なないうじに腐敗した肉体を蝕まれ続ける。

 この苦しみは昼も夜も休みがなく続いて、永遠に終わりがないとされている。



「いい加減、殴られやがれ!!」

「貴方こそ、目を醒ましなさい!」

 桑島の拳を紙一重で避けたテレーズは、反撃のハイキックを側頭部にお見舞いする。

 鋭い一撃によろめいた桑島だったが、即座に1匹の蛾が彼の頭に止まると、その痛みは奪われた。本来なら戦闘不能になってもおかしくないダメージが一瞬にして回復している。

 桑島は再び拳を握ってテレーズへと迫った。

 その攻撃を回避しながら彼女は思案する。

 何度怪我をしようと完治し、また怪我をする。まるで終わりのない永遠の苦しみ。死ぬことすら許されない辛苦。


「この町を丸ごと地獄に落としたようですね」


 夜蛾に囲まれた魔女を睨む。

 彼女の指先や肩に蛾が止まるたび、だんだんと彼女のやつれ具合が回復していった。既に病的な様子はなく、健康的に見える。

「すごい……すごい……! どんどん満たされていく。たくさん“痛み”が集まってくる」

「止まりなさい天辺毬愛! このまま続ければ呪いの被害が増えるばかりだ。貴女はそれを良しとする人格ではなかったはずです!」

 毬愛は諦めたように力なく笑った。

「ごめんなさいシスターさん。あなたの言う通り、頭ではわかってるの。あなたに殺されるべきだって」

 その言葉の直後、毬愛の周りで羽音が一層強くなった。

「ああ、やっぱり……そう理解したら、あなたを排除しようと、この子たちが勝手に動いてしまう」

 痛みと魔女にしか近寄らなかった蛾たちが、突如目標を変えた。不規則に舞う先にはテレーズがいる。

 直感で迫ってくる蛾を回避すると、さっきまでテレーズがいたコンクリートの床に1匹が激突し、爆発のような衝撃が走った。

 土埃が立ち込めて、床が抉れている。

「飢えが満たされて、余裕が出てきたみたい……だから、その子たちの持ってきてくれた“痛み”は、回収していない」

 その意味を理解して、テレーズが驚愕した瞬間だった。

 不規則に舞う蛾が一匹、彼女の腹部に止まった。

 ナイフで切りつけられたような鋭い痛みが走る。

「うぅっ……この、痛みは……!」

 体制が崩れて膝をついた。

 その隙をつくように、彼女の右肩に2匹の蛾がぶつかる。

 爆薬が爆ぜたような痛みの爆発。

 自動車に激突したかのような衝撃を受けて、テレーズは床を転がって、打ちっぱなしの壁に激突して止まった。

 痛みの魔女は眷属が運搬してきた“痛み”を取り込まず、そのまま爆弾の様にぶつけることで攻撃手段にしている。

(呪いの扱いがうまくなっている……!)

 壁に手をついてテレーズは立ち上がった。

 彼女の視界には数十匹の蛾が縦横無尽に飛び交っていた。

 どの蛾がどんな痛みを持っているかはわからない。小さな痛みでも、衝撃の隙が生まれて複数の蛾に捕まれば痛みの掛け合わせで致命傷に達する可能性もある。

 テレーズには蛾の群れを見て、刃物や鈍器など自分を傷つける凶器の羅列を想起した。

「虫嫌いになりそうだ」

「嫌だ……やりたくない。こんなの、どうみても普通のお嬢さんなんかじゃない……もう、元には戻れない」

 毬愛に殺意はなかった。しかし一度暴走した魔女の呪いは、本人の意思に関係なく周囲に影響を及ぼす。

 痛みを抱えた蛾が飛来する。

 走り抜けるテレーズの背後で、激突した壁が爆ぜてコンクリートを抉り、穴を空けていく。結果だけを見れば、ガトリング砲の掃射から逃げるような光景が幽霊マンションの1階で繰り広げられた。

(腕が万全であれば、呪いを跳ね除けられるのに……!)

 駆けながら日本刀を強く握る。

 聖人の右腕を持つテレーズには、偶像崇拝による信仰が結集している。本来であれば魔女の呪いを全て打ち砕くはずの彼女の右腕が、現在は宗旨の違う妖刀の呪いを相殺することで、制限を受けている状態だ。

(思い切って投げ捨てる……? しかしもしあの不良少年が拾ったら、アヤメとの約束を違えることになってしまう。それに魔女が拾った場合は、どうなるか考えたくもありません)


「おい、俺との喧嘩も終わってねぇぞ」


 背後の爆発音に気を取られていたことで、テレーズは正面から現れた桑島に気づくのが遅れた。

 咄嗟の出来事に彼女は無意識に右腕を盾のように使って、桑島の殴打を防ぐ。

「痛っ……!」

 本来なら感じることのない右腕のダメージ。妖刀のせいで剛体ではなくなっているテレーズの右腕に鈍い痛みが走る。

 余裕のなくなってきたテレーズは、桑島の身の安全を二の次にすることにした。

「十分に忠告は済ませましたので、手荒にしますよ」

 テレーズは日本刀を空中に放り投げた。1階部分の天井すれすれまで浮き上がり、落下し始める。

 その僅かな時間で、テレーズは桑島を圧倒した。

「やってみろよ!!」

 降りかかる拳を、テレーズの右手が受け止めた。

 少し遅れて骨が砕ける音が鈍く響く。それは偶像崇拝の力を取り戻したテレーズの握力が、桑島の拳を握りつぶした音だった。

「な、んだそりぅあッァ!?」

 驚く桑島の拳を握ったまま右腕を掲げると、まるで旗を振るように軽々と桑島の身体が持ち上がり、中空に弧を描いた。

「蛾の治癒により戦闘不能にできませんので……邪魔をするのなら、ご退出ください・・・・・・・

 テレーズは桑島を振り回しながら幽霊マンションのエントランスへ身体を向けると、左足を踏み込んで、大きく振りかぶった。

 投擲された桑島は一直線に空を切って、マンションの外へと放り出された。

 テレーズが手を差し出すと、そこに日本刀が落下してきて再び彼女の右手に収まった。

「邪魔者はいなくなりました」

 部外者をひとり排除したテレーズだったが、彼女のもとに次の攻撃が迫っていた。

 その場を跳び去ると、再び蛾が不規則な軌道でテレーズ目がけて激突してくる。コンクリートが爆ぜて破片と土埃が舞う。

(蛾の細かい軌道は予測できない。大雑把に走るしか……いや、遮蔽物があれば使えるかもしれませんね)

 彼女はフロア内にある大きな柱に気づき、そこへ身を隠した。

 背中を預けた柱から断続的に衝撃が伝わってくる。大人4人が手を繋いでも囲えない程の大きさの柱だ。簡単には崩せないとテレーズは考えていた。

 しかし、回り込んできた数匹の蛾が、テレーズの眼前に現れた。

 咄嗟に身を屈めると、頭上で爆発が起こる。

 退避して振り返ったところで、柱に大きな穴が開通して崩れ落ちた。

 その奥には今までテレーズが逃げてきた軌跡が破壊の跡ととして残っている。

 砕けた柱。窪みだらけの床。風通しの良くなった壁面。

 その破壊の通り道を見渡して、テレーズにはある策が浮かんだ。

「なるほど……試してみましょう」

 彼女は離れたところにある柱の影へと繰り返すように逃げ込んだ。

「その程度の遮蔽では、この子たちは防げない……あなたもここから逃げた方がいいですよ、シスターさん」

 蛾が殺到して衝撃が連鎖し、2本目の柱が倒壊する。

「逃げる……それは私の信念から最も遠い行いです」

 瓦礫となった柱の影からテレーズが飛び出して、エントランスに近い3本目の柱へと向けて駆けた。今までと違う点として、彼女は右腕に掴んでいた日本刀を、柱へ向けて放物線を描くように放り投げている。

「この建物含め、この一帯は廃棄された建造物だらけで住民はいない……だから、こうなっても構わないはずだ!!」

 妖刀を手放したテレーズの右腕に、再び剛体の特性が戻る。

 走りながら右腕に力を込めて、彼女はその勢いのまま3本目の柱へと拳を叩き込んだ。


聖拳鉄槌マレウス・マレフィカルム!」


 一撃でコンクリートに亀裂が入り、柱が砕け散る。蛾の衝撃と比べても比較にならない威力で、テレーズは幽霊マンションの支えとなっている柱を粉砕した。

 後ろ手に右手を伸ばして、自分が投擲した日本刀をキャッチすると、彼女は即座にエントランスに向けて走り出した。

 1階フロアの中心にいる毬愛を一瞥する。

 その最中で、支えを失った幽霊マンションの構造が歪み始める。

 建物全体が揺れ、天井の一部が傾いた。ひび割れた破片がパラパラといくつも落ちてきて、地鳴りのような轟音が大きくなっていく。

 毬愛は座ったまま一歩も動くことなく、天井を見上げていた。

 続けて、巨大な金属が裂け、ねじ切れるような音が響く。耳の奥を突き刺すような金属音が空気を張り詰める。

 テレーズがエントランスを駆け抜けるとき、その真横で穴だらけの壁面に巨大な亀裂が入ってくの字に折れ曲がった。

 夜空と月明りの下に出たところで振り返ると、さっきまでいた場所から大量の土埃が吐き出される。

 腹の底まで響くような重い振動が続いたあと、遅れて地面がわずかに揺れた。

 

 幽霊マンションは地面に沈むように形を失い、完全に倒壊した。

 

 

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