転段 --- 君ヶ袋小路②
「紳士さん!!」
戦いは終わり、毬愛は君ヶ袋の下へと駆け寄った。
君ヶ袋も膝を折って崩れ落ちそうになる。急いで彼を抱きかかえた。
仰向けにすると、臍の横に深くナイフが突き刺さり、柄の部分まで肉に埋まるほど押し込まれている。傷は内臓に達していると思われた。
「ナイフを抜くと同時に癒します。そうすればまだ助かりますから、抜く時の痛みだけ我慢してください」
彼女は必死に君ヶ袋の命を繋ぐことを考えていた。
しかし、彼はゆっくりと首を横に振った。
「もう、治さなくていいです。これでちょうど、8回だ」
「8回? 何を、言ってるんですか?」
言葉の意味が分からず、毬愛は聞き返す。急がないと彼の命が終わってしまうと、彼女は焦っていた。
それでも君ヶ袋はナイフから手を離さず、毬愛の治療を拒否し続ける。
「シスターさんに病院で2回、飛び降り自殺を1回挟んで、森で3回、霊園で1回殴り殺されて……最後に、この仇討ちで1回」
指を折って彼は死にかけた回数を数えていく。
「私が殺した人数と同じだけ、致命傷を貰いました。きっと、これが殺人鬼として人を殺めた私への罰だ」
流れる血が止まらない。地面に出来た血だまりはどんどん大きくなっていく。
「それで許されるとは、ちっとも思ってはいませんけどね」
彼は痛みなんてそっちのけで、自嘲気味に笑った。
そんな自戒を込めた発言を聞いて、毬愛はずっと気になっていたことを尋ねることにした。
「どうして、ですか? どうしてそんな風に罪を思えるのに、たくさんの人を殺したんですか?」
毬愛は信じられなかった。
自分を何度も助けてくれたこの男は、確かにどこか狂っているけれど優しさも持っている。人が死ねばどうなるのか、わからないような人物ではないはずだ。彼女には納得がいかなかった。
「何度か言ったでしょう。この地獄みたいな現実から、善人を天国へ送るために……」
「嘘です」
毬愛は君ヶ袋の発言を遮った。
「嘘、じゃないのかもしれないけど……そんな破綻を他人に押し付けるにしては、あなたの性根は優しすぎます。きっかけがあるはずです」
返す言葉に迷っているようで、君ヶ袋は口を閉ざした。
毬愛はどうしても彼のことを知りたかった。
「顔を、見せてください」
膝枕で彼の頭を支える。ぼろぼろになった紙袋を真ん中から裂いて、素顔が現れた。切り傷で覆われた顔面と、落ち窪んだ右目。
少女はその顔をそっと両手で包んだ。
「この顔の古傷と関係がありますか?」
君ヶ袋は左目を閉じて意思疎通を断った。
「話してください。話さないと、お腹の傷を無理矢理治します!」
「ふ、ふふふ。初めて聞く、かわいらしい脅し文句だ」
根負けをして、君ヶ袋は頬を綻ばせた。
「……誰にも、言ったことがありません」
「私が聴きます。偽物の聖女だけど、あなたに何度も守ってもらった分、懺悔だって全部許しちゃいます」
君ヶ袋は少し迷ったあと、諦めたように深く息を吐いた。
「じゃあ……お願いです。どうせこのナイフで死ぬんだ。だから話したら、最後にあなたの抱える“痛み”を全部ください。そして普通のお嬢さんとして、幸せに生きていくんです」
彼は先程話した内容を繰り返した。自分が痛みを引き受けることで、毬愛の今後の人生を守りたいと考えているらしい。
毬愛は迷う。彼にそれを押し付けて都合よく生きていくのは、虫が良すぎるのではないかと逡巡した。
「お嬢さんの未来を想っています。でもそれだけじゃない……痛みが欲しいというのは、これから話すことにも関係がある、個人的なワガママなんです」
君ヶ袋は少し恥ずかしそうに目を逸らした。その表情を見て、毬愛は心を決めた。
「わかりました。このまま何も知らずに紳士さんを見送ることなんてできない。出来るかわからないけど、話を聞いたら、やってみます」
二人は合意した。君ヶ袋は満足そうに笑って、意を決して口を開く。腹部からの流血は止め処なく続いていた。
「私には、心の底から愛した妻がいました。でも自分よりも大切だった妻に、先立たれてしまった」
彼は昔話を始めた。最愛の人を喪うというのは、苦しい話だがよくある悲劇だ。すぐには立ち上がれないほど不幸だとしても、時間と共に風化して、他の幸せで人生を埋めることはできる。
しかし、姫路君忠にとってそれは出来ない相談だった。
彼は薄く目を開けて虚空を見つめる。
「この眼は、一度見たものを忘れることができません」
映像記憶。瞬間記憶能力とも呼ばれるその能力は、彼にとって楽譜や偉人の言葉、病棟の位置、町中で見かけた善人の顔を覚えることに役立っただけでなく、最愛の妻との約束の全てを脳裏に焼き付けて終わりなく想起させ続けた。
「あの人はもういないのに、どうしても忘れられないんです。何もかもが脳にこびり付いて剥がれない」
残った左目から涙が流れ始めて、身体が震える。毬愛は頬と肩へ手を添えて彼の独白を支えた。
「全てが今でも鮮明に思い出せる――初めて話した卒業式の日付、初デート日の天気、告白した時間、初旅行の新幹線の座席から、プロポーズで僕が言った言葉までも何もかも」
涙声でかすれた言葉が、コンクリートで囲まれた幽霊マンションに反響して溶けていく。
「忘れたくても、忘れたくても、忘れたくても、忘れたくても、忘れたくても……できない。どんなことをしても忘れられなかった。
顔を傷つけても。
名前を捨てても。
別人の様に生きても。
善人を切り殺しても。
老人を縊り殺しても」
彼の声は小さく細くなっていく。命の灯火が消える直前に、彼はようやく心を誰かに開くことが出来た。
「――怖い」
姫路君忠は、縋るように毬愛の手を握った。
「死んでも忘れられないかもしれない。地獄でも思い出すかもしれない。来世でも君の名前を呼ぶかもしれない」
その視線の先の虚空にはきっと、逃れられない美しい記憶があって、その輝かしい光の熱で今も彼の心を焼き続けていた。
「怖くて、苦しくて、寂しくて、虚しくて、悔しくて、痛くて……ずっとずっと終わらないんです。ねえ……お嬢さん、だからお願いします」
毬愛へと視線を向けた彼は、救いを求めて懇願した。
「あなたがもし本当に“痛みの魔女”なのだとしたら……世界で一番の“痛み”をください。もしかしたら、忘れられるかもしれない。記憶も何もかも塗りつぶして、消え去りたいんです」
そこにこの町を恐怖に陥れた殺人鬼はいなかった。毬愛の目の前では、哀れで救えない男が、命の最期に至るまで苦しみ抜いていた。
(ああ……この人の心は、わたしなんかとは比べ物にならないほど痛みに触れ続けて、歪んでしまったんだ)
涙と出血で彼の全身が乾いてく。残された時間はきっと幾ばくも無い。
毬愛は最低限の言葉だけを選んで告げる。
「これだけの人を殺したあなたはきっと、世間からは許されないだろうけど……あなたが守ってくれたおかげで、わたしは今も生きています。だから、わたしだけはあなたを慈しんだっていいはずです。罰じゃなくて、感謝を送ったっていいはずです」
彼の顔がよく見えるように、長く伸びた髪をかき分けた。
「あなたの願いを叶えたい……この“痛み”が紳士さんにとっての、“癒し”になるのであれば」
人の傷や病を癒し続けることだけをしてきた毬愛は、痛みを移す方法など知らなかった。
だが、ひとつだけ心当たりがあった。
毬愛が敬愛していた養父、岸和田神父が豹変したことにもし原因があるとしたらなんだろうと、少女はずっと考えていた。そして他の信者とは違う方法で、彼に触れたことに思い至っていた。
少女は岸和田神父の指先の傷を、口に咥えて治癒した。
呪いがより強い接触によって伝わるのだとしたら。
毬愛は彼の後頭部に手を添えた。もう片方の手で顎を上げて、最後に傷だらけの頬に触れる。
膝枕の状態から上半身を傾けて、ゆっくりと顔を近づけていく。
彼は何かを理解したように目を閉じた。
高鳴る心臓を押さえつける。
足元に伝わる血の温度がやけに鮮明に感じられる。
彼の浅い息遣いを意識しないように、少女は聖職者として自分の心を落ち着けた。
粘膜接触による呪いの授受。
癒しの聖女は、哀れな殺人鬼にお別れの口づけを送った。
パン、と何かが膨らんで弾けるような音が響いた。
毬愛の唇に触れた感覚が、失われている。
宙に浮かぶシャボン玉が陽の光を浴びて弾けるように。熟れ過ぎた無花果が裂けてその身を晒すように。空気を注ぎ過ぎた風船が、耐えきれず破裂するように。
2,000人分の痛みにただの人間の肉体が耐えられることはなかった。跡形もなく君ヶ袋小路の――姫路君忠の身体は弾けて、刹那の内に絶命した。
原理は不明だがすべては摺り潰されたドロドロの血液となって、肉塊や骨のような形は残っていない。
成人男性一人分の大きな血だまりの中心で、自身も血を浴びて真っ赤に濡れた癒しの聖女は目を開ける。
さっきまでそこにいた恩人への救済を祈り、さよならと誰にも聞こえない声で呟いた。
◇◆◇◆◇
幽霊マンションのエントランスに、黒い修道服とヴェールに身を包んだ女性が現れた。右手には日本刀をぶら下げたアンバランスな出で立ちで、彼女は慎重に屋内へと入る。
鼻につくのは血肉の香り。冷たい鉄と温い肉の生臭さが空気に混じっている。
彼女は警戒しながら歩みを進めた。
マンションの1階部分の中心には、少女が座り込んでいた。
月明りが照らす天辺毬愛の身体は真っ赤に染まり、よく見るとその足元にも大きな赤黒い血だまりが広がっている。
少女は血の海の真ん中で、両手で顔を覆い、すすり泣いていた。
「遅かったようですね……」
テレーズは落胆したように話しかける。この場所で何があったのか、彼女には想像がついているようだ。
毬愛はその声を聞いて、顔を伏せたまま喋りはじめた。
「……何度もわたしを助けてくれた紳士さんを、殺してしまいました」
「呪いを解放しましたね。とても人間が受けきれるものでではない」
自分の顔を覆う指の隙間から、血だまりの赤を見つめる。
「あの人は、最愛の人を忘れられたでしょうか……?」
少女は自問自答する。事情のわからないテレーズはその問いには沈黙を返した。
「今度は、わたしが、紳士さんの最期の願いの通りに頑張らなきゃ」
その瞳はまばたきを忘れたように血だまりを凝視し続けて、やがて身体が震えはじめる。
「普通に生きて、人間として幸せにならなきゃ。親友や恋人をつくって、わくわくするような未来へ、進まなきゃ。きっと出来ますよね? シスターさん」
今度は沈黙を許さない、明確な問いが投げかけられる。心に傷を負った少女に寄り添うべき場面で、それでもシスター・テレーズは嘘をつくのが苦手だった。
「……その答えは、自分が一番理解しているはずです」
「――出来るって、言ってください!!!」
天辺毬愛が顔を上げる。
そこにあったのは、10代の少女とは思えないほどに病的にやつれた顔だった。身体の震えは止まらず、全身から噴き出す汗と、両目から落ちる涙で彼女の衣服はぐっしょりと濡れている。
テレーズはゆっくりと首を横に振った。
「もう誰も癒してはいけないのに……欲しい。
紳士さんと約束したのに、足りない。
どうしようもなく、痛みが足りない!!!」
そう叫んだあと、喉の多くから嗚咽が漏れて、呼吸が大きく乱れる。
毬愛は痛みを欲っして止まない、異質な飢えと戦っていた。
「“呪い”の離脱症状だ……魔女の一撃を使いましたね。痛みの魔女、天辺毬愛」
アルコールや麻薬を常飲する者にも、同じ反応が現れる。
離脱症状とは長期的に使用していた薬物や依存性物質を急に中止や減量した際に起きる身体的、精神的な症状だ。
本来体内に存在しない物質であるにも関わらず、脳は必要な成分が失われたと誤認し、それを強く求めてしまう。強烈な症状になると、けいれんや幻覚、体温や心拍にも影響があり、死に至ることすらある。
毬愛の身体は5年間以上も毎日一定の痛みを接種し続けていた。無痛症の本人は気づいていなかったが、その呪いは常に全身を満たしており、彼女にとってはそれが常態となっていた
それが失われた今、脳が痛みを渇望して暴走状態にある。
どんな手を使ってでも、どんな呪いを駆使しようとも、どんな理性が邪魔しようとも、痛みを食らいたいと考えてしまう。
彼女は魔女の性には逆らえない。
「だから間違っていると言ったじゃないですか――『地獄への道は善意で舗装されている』と」
テレーズは物憂げに告げた。かつて君ヶ袋が口にした善人を殺す理由は、出典となる名言から改変されていた。その誤りを、再び訂正する。
全身を掻きむしって悶える毬愛が、近くに落ちていたナイフを手に取った。血だまりの中に手を沈めて、手の甲に対してナイフを突き立てる。
裂かれた肉の隙間から、血液が流れ出て血溜まりと混じる。
ナイフを引き抜いた直後、少女の手の甲の傷は即座に完治した。
流れ出た血の影響なのか、血溜まりがもぞもぞと沸騰したように蠢き始める。
血が何かを象って、細い胴体と翅のようなものがいくつも浮かび上がった。直後、羽ばたきを始めたそれは、“蛾”によく似ているとテレーズは考察した。
注意深く毬愛を警戒していたつもりだったが、背後からいくつもの羽音が聞こえてくる。
振り向くとそこには蛾の大群が押し寄せていた。
幽霊マンションの入り口から室内に入り込み、テレーズはその奔流と羽ばたき音に飲み込まれる。
(蛾は月光に惹かれて飛ぶ夜の虫……この異常行動、痛みの魔女の眷属ですか……!?)
魔女は何らかの権能と眷属を有することが分かっている。黒猫、蝙蝠、鴉、羊、蛇、百足、蜘蛛などの不吉な生き物たちだ。今までは使いこなせていなかったが、急激な渇望に応じて眷属の操作能力に目覚めたのだろうとテレーズは結論付けた。
蛾の大群は一度、毬愛の周囲に集まった。そこで血から生まれた蛾と混ざり、鱗粉を交わしているように見える。
直後、蛾の一部が少し離れた床へと急行した。
そこには、君ヶ袋との戦いで気絶した桑島勇誠が倒れていた。
「しまった、部外者がいたなんて……!」
蛾は桑島の全身を一度覆う。その後しばらくして飛び立ち、毬愛のもとへと戻った。
すると、桑島は目を醒ましゆっくりと立ち上がった。状況を理解できていないようだが、彼がおもむろに右腕の血に染まった包帯とギブスを外すと、そこには傷ひとつない右腕があり、それを不思議そうに見つめていた。
「……足りない。まだまだ足りない。こんな痛みじゃ全然満たされない!!!」
毬愛が激昂すると、蛾は幽霊マンションから飛び出して四方八方へと散った。
状況から察するに、毬愛はこれまで直接触れて痛みを奪っていたが、現在は渇望をきっかけとして呪いを拡張させて、眷属である蛾を媒介して痛みを集めることができるようになったらしい。
羽音が遠ざかった幽霊マンションで、テレーズが毬愛へと歩み寄る。
「呪いを拡散させる前に、あなたの息の根を止めます」
コンクリートを叩く音が繰り返される。
月明りが照らす血溜まりの中央で、魔女が呻く。
あと数歩と迫ったところで、彼女たちの間に割って入る男がいた。
「……退いてください。あなたは無関係の一般人でしょう。傷が治ったなら、安全な場所へ退避してください」
桑島は虚ろな表情をテレーズに向けて、完治した右腕を掲げるとその拳を握った。
危機を察知したテレーズが一歩退くと、そこに拳が叩き込まれて、空を切った。
「んだか知らねえが、あんたを痛めつけなきゃいけないみたいだ……恨みはねぇけど、殴られちゃくれねぇか」
「急に何を……いや、まさか……!?」
テレーズはその支離滅裂な言動に聞き覚えがあった。
自ら手にかけた御美ヶ峰教会の神父。
岸和田尊だ。
痛みの魔女の側にいた彼は、傷病者を毬愛へ献上することを生命活動の最優先事項として行動する奴隷となっていた。
彼はテレーズに命を奪われるその最期の瞬間まで、その日の癒しの儀式を行うことに固執していた。
それを疑問に思うことなく淡々と遂行する異常行動。
呪いによる洗脳だ。
「この不良少年も同様に……血を媒介にした粘膜接触で、奴隷を増やしたのですね。ますます、早急にあなたを……」
そこまで言いかけて、テレーズは言葉を止めた。
毬愛の下には数十匹の蛾が戻ってきていた。その蛾に触れるたび、少女の顔色は改善して、激しかった動機も少しずつ落ち着いてきている。つまり、既に痛みが町中の怪我人から奪われて運搬されているのだ。
テレーズの脳裏に最悪のシナリオが浮かんだ。
「痛みを奪われた人間が奴隷となって、今度は他人を攻撃しまた痛みを生む……?」
ドミノ倒しのように、痛みが連鎖して量産される。
それがこの町中で起きたら、加速度的に奴隷は増えていくだろう。
最終的には、痛みの魔女の効果範囲内の全ての人間が、他人を傷つけることだけを考える暴徒と化す。
「――地獄絵図だ」
呪いの感染爆発。
テレーズは今までに感じたことのない恐怖に包まれて、声を震わせた。彼女の脳裏にはゾンビ映画のような忘我の暴徒たちが狂乱する無秩序な世界観が想起されている。
その言葉を聞いて、痛みの魔女は無表情に返答した。
「こうすれば、きっと今まで以上に満腹になれると、わかっちゃったんです……だからわたしにも、もう止め方がわかりません」
廃墟に差し込む月明りの下で、ひらひらと舞う蛾が彼女を取り囲む。
聖十字協会の歴史上において、最悪とも呼べる魔女が観測された。
今晩、痛みの魔女の被害者は埋芽市人口の3/4を占めて、5万人を超えることになる。




