転段 --- 君ヶ袋小路①
古びた団地が並ぶ人気のない町の一角に、幽霊マンションはあった。
錐尾と呼ばれるこの地域には、ほとんど住民が住んでおらず、薄暗い建物の影が続いていた。
マンションの1階部分は大半がコンクリートに囲まれているが、ガラスの無い窓から月明りが差し込んで、ドアのないエントランスへと風が抜けていく。
無骨な壁に背を預けるようにして、二人の男女が寄り添っていた。
少女と紙袋。
紙袋の右目部分は涙を流したように血に濡れていて、その奥には閉じた目蓋と空洞の眼窩があった。
肌寒い12月の気温の中で、ひとつのブランケットに身を包んでいる。足元には充電式のランタンが置いてあり、淡い光が二人の足元を照らしていた。
「車で送ってくれたあの人は、誰だったんですか?」
毬愛が隣の君ヶ袋へと問いかけた。
「学生時代の後輩です。同じ吹奏楽部にいて、楽譜をすぐに覚える僕のことを羨ましがっていました」
「昔から仲が良かったんですね」
「そんないいものじゃないです。ただお互い少し冷めた性格で……気が合っただけの話です」
「でも、助けてくれたじゃないですか。毛布にランタンまで置いて行ってくれて」
「……真意はわかりません。でも、僕がこの顔になったときも、彼に助けてもらいました」
「いいなぁ、時間が経っても先輩後輩として繋がっていたんですね」
「お嬢さんにはそういう人はいませんか?」
毬愛は少し返答に困り、足元の光を見つめた。どこからともなく現れた小さな蛾が、ランタンにぶつかって落ち、もぞもぞと地面を這う。
「同じ教会の孤児はいましたが……みんなは段々と里親が見つかって離れ離れに。それに、実は中学を卒業した後、そのまま教会の仕事をしていて、高校には行っていないんです」
同世代との繋がりが希薄なことを、毬愛は寂しく思っていた。
「お嬢さんの年齢ならまだ間に合いますよ。おいくつですか?」
「そうでしょうか……もうすぐ16歳です」
「大丈夫」
君ヶ袋はブランケットの中で、毬愛の手を優しく握った。
「だから、追手から逃げきって高校に通うんです。そこで先輩後輩同級生と、たくさん仲良くなってください。こんな得体の知れない紳士よりも、ずっと素敵で一生もの友人が出来るはずだ。お嬢さんくらいかわいい子なら、すぐに彼氏だってできます」
毬愛は顔を伏せて弱々しく手を握り返した。
「彼氏は、わかりませんけど……ワクワクする、明るい未来だと思います。でも、あのシスターさんの言う通りだとしたら、“魔女”であるわたしには、そんな権利はなさそうです」
君ヶ袋は少女へと向き直って、その両肩を掴んで力説した。
「そんなことありません! あなたはどこにでもいる一般的なお嬢さんだ」
「……わからないんです。この身体の中に、もしかしたら本当に2,000人分の痛みがあるかもしれない。それを否定することが、できない」
「――もしあなたが本当に“痛みの魔女”なのだとしたら、その“痛み”を僕が全部貰いましょうか」
毬愛は顔を見上げて、目を見開いた。
正面には、表情のわからない紙袋ある。
「あなた中から呪いを全て無くなって、そのあとは誰も癒さず、一切痛みを受け取らなければ、きっとお嬢さんは綺麗さっぱり普通のお嬢さんになるはずだ。誰にも魔女だなんて言われない」
「でも……」
「私のように歪んでいないあなたならまだ間に合う! 普通に生きて、普通の幸せをつかめるところにいるはずだ」
「そんなこと、できません。もし私が魔女でなくなったとしても、痛みをお渡ししたら、紳士さんの命の保証は」
「その紙袋頭、血十字だな」
マンションの暗がりから、低くうなるような男性の声がした。
足音が月明りの差し込む場所まで迫る。
姿を現したのはネイビーのスタジャンに身を包んだガラの悪い男だった。坊主に丸めた頭には独特の剃り込みがデザインされており、その表情は鋭い眼光と怒りに染まっている。
「永輔が俺を探してるって連絡来て、溜まり場を周ってたらよぉ。まさか仇本人と出会えるとはな」
ゆっくりと君ヶ袋を目がけて歩み寄ってくる。明かるい場所でよく見ると、彼の片腕はギブスで固定され、包帯が巻かれていた。はた目には骨折しているような大掛かりな処置だ。
君ヶ袋は立ち上がって一歩前に出る。毬愛を守る様に彼女へ背を向けた。
「紳士さん、逃げましょう……!」
「大丈夫ですよお嬢さん。はいはい、不良のお出ましですか。治安の悪い場所だ。どうぞお家へお帰りください」
「俺の面よく見ろ。廃工場での件、忘れたとは言わせねえぞ」
男と君ヶ袋が手の届く距離で相対した。君ヶ袋は納得したように声をあげる。
「ああ! ボロボロ不良3人組の! 君は性根が悪かったので、右腕だけチェーンソーで切ったんでしたね。髪も切りましたっけ?」
「髪は自前だクソヤロウ。この剃り込みを見れば、この辺りの不良共は一発で俺が桑島勇誠だとわかんだよダァボが」
桑島は残された左拳に力を込めた。
「遼太と健吉の仇討ちだ。そのふざけた頭殴り潰す」
直後、君ヶ袋の顔面に拳が叩き込まれた。
のけ反った身体が何とか直立を保って、再び正面を向いたところで、今度は首めがけてエルボーが叩き込まれる。間髪入れずに裏拳が突き刺さり、紙袋の内側で君ヶ袋の意識は乱反射して明滅する。
君ヶ袋は右目を失ったことで視野と平衡感覚を著しく欠いていた。今の彼は立ってまっすぐ歩くことすらままならない状態にある。それでも毬愛へと危害が加えられない様に、彼は二本足で立ち続けた。
桑島の格闘センスは一般人を大きく凌駕していた。武道の裏付けはない我流だが、何年も永浦永輔と殴り合いを続けた影響で、その動きは洗練され、相手を重い拳で蹂躙することに特化している。片腕とは思えないほど一方的な展開で、君ヶ袋はついに地面へと仰向けに倒れた。
「なんだぁテメエ! 紙袋じゃなくてサンドバッグかぁ!?」
馬乗りになって殴打は続いた。紙袋はひしゃげて顔面の形にへばりつき、荒い呼吸がそれをわずかに押し返す。
しばらく打撃音が続いたあと、桑島はいらつきながら立ち上がった。
「ちっ……締まんねぇ。こんな無抵抗な奴ボコしたところで、殺された(・・・・)アイツらも浮かばれねえよ」
桑島は残念そうに踵を返した。
しかしその言葉を聞いて、君ヶ袋はゆらりと幽鬼のように立ち上がった。紙袋の穴の奥から、ギョロリと左目が揺れる。
「殺された……そうだ、工場の跡地で怪我していたあなたたちを私がころ殺したんで死たよね2人もそこで死んだんで死んだんで死んだんで死んだ方がいいんじゃないですか、あなたも急いで追っかけないと送ったげないと」
支離滅裂な言動が君ヶ袋の口から漏れ出す。
その背後で少女は怯えながら君ヶ袋の背中を見ていた。毬愛はその感覚を昨晩の霊園で感じたものと同じ、日本刀を手にした時の彼だと直感していた。
失った平衡感覚が戻り、君ヶ袋の思考は標的である桑島への殺意に満ちて支配されている。手放したはずの妖刀の影響が、殺意に関わるキーワードによって呼び起こされてしまった。
「はぁ?」
振り返った桑島の眼前には、君ヶ袋のつま先があった。
君ヶ袋は地上180cmの跳躍で跳び蹴りを放った。眉間に突き刺さる衝撃で、桑島は一時的に視界を失う。
たたらを踏んで下がるも、桑島は頬を釣り上げて笑った。
「ハッ! 急にやる気出しやがって!! 第2ラウンドやってやるよ!!」
「やりませんよ殺るだけなんですからぁ!!!」
桑島が迫ろうとしたところで、君ヶ袋は再び跳躍した。今度は低い軌道で、全身の回転を加えた回し蹴りが繰り出された。桑島は咄嗟に右腕をあげてガードするが、そこには稲妻が落ちたような痛みと衝撃が走った。
「ッァアア、ァアアアアアアア……!!!」
桑島が痛みに悶えて膝をつく。君ヶ袋が狙ったのは、ギブスで処置された右腕だった。その内側にはチェーンソーで肉を両断された絶対安静必須の大けがが包まれている。いくら固いギブスで守られていようと、衝撃の全ては受けきれず、少しの振動でも桑島には激痛となって襲い掛かった。
君ヶ袋を支配した殺意は、その隙を見逃さずに畳みかけた。
膝蹴りで桑島の鼻先を叩き折り、血を吹き出しながら仰向けに倒れる。更にそこへダメ押しのように飛び掛かった。着地の衝撃がまず桑島の内臓に響く。続けて右足を軸に一本足で心臓を圧迫し、左足はギブスを踏み抜いて何度も踵を叩きつける。やがてギブスの両端から、出血が漏れだして包帯を赤く染め上げていく。
幽霊マンションに絶叫がこだました。その反響は踏みつけが繰り返される間は止むことなく、桑島の喉が裂けてまともな声が出なくなっても続いた。
君ヶ袋が大きく息を吸って、両足を揃えて飛び上がる。痛みで前後不覚に陥っていた桑島だが、それを見てすぐに身体を転がして踏みつけから逃れた。
「ちくしょう……このイカレ紙袋ぉォオ!!!」
涙と涎をたらしながらも、桑島は何とか立ち上がる。腰に手を回すと、彼の手には折り畳み式のナイフが握られていた。
不良の流儀に乗っ取って殴り合いを挑んだが、殺人鬼相手に念のため凶器を持ってきていたらしい。
血走った彼の目線の先には、君ヶ袋とその奥で怯える少女が映っていた。
「その女が、お前の大事なもんか?」
刃が月明りを反射して光る。
「友達を二人もイカれてんだ。お前を殺すだけじゃ済まねえ。まとめて女の命も奪ってやるよ」
桑島ががむしゃらに走り出す。
これまでの行動から考えれば、君ヶ袋はそれに容赦無い殺意と暴力で対抗するはずだった。
だが、彼は毬愛の正面に躍り出るだけで、桑島の突進を真正面から食らった。
皮膚を突き破る感覚が、桑島の左手に伝わる。
「なんだ、そんなに守りたいのか……? だったら見てろよ。このあと何が起こるのかをよぉ」
桑島はナイフを引き抜いて、今度は毬愛を襲おうとした。
「……あ?」
しかし、その手は君ヶ袋の腹部から離れない。
目を向けると、腹に突き刺さったナイフを持つ手を、君ヶ袋が両手で力いっぱいに握りしめていた。
「あり、がとうございます。殺してくれたおかげで、戻ってこれた。だから、もう終わりに、お嬢さんには、何も……」
ナイフを更に奥へと自ら押し込んでいく。その異様さに怯えた桑島が手から力を抜いた。
その瞬間、桑島のあごに向けて君ヶ袋の額が直撃した。
頭突きを食らった桑島の意識は途絶え、彼は背中から地面に倒れ込んで動かなくなった。




