起段 --- 君ヶ袋小路②
「……もしいるというならば、わたしは神を恨みます」
か弱い声でそう答えたあと、聖女は気を失って地面へと顔を落とした。
その奥から大柄な神父が近づいてくる。
「退きたまえ。同僚にカルト教団の首魁を任せてきたので、早く戻りたいんだ」
神父は少女の背中からナイフを抜き取った。それを男へと差し向けて威嚇する。
殺人犯は歪な姿勢のまま立ち上がった。紙袋の奥にある得体の知れない感情で、神父の視線を受け止める。
「フンフンフンフーン、ひょひょひょーい」
ヴィイイイン、ヴィイイイン、と。明らかに場違いなタイミングで殺人鬼は鼻歌を再開させて、チェーンソーを鳴らした。
ジジジジ、とまた音をたてはじめた街灯の光が、破裂音と共に突然消える。
ナイフが地面に落ちて、金属音が鳴る。
暗闇の中に腕を振り抜いた格好の神父の姿が浮かび上がった。
目にも見えない速度でいつの間にかナイフを投擲し、街灯を破壊したらしく、遅れて破片が地面に降り注いだ。
「耳障りだ……その演奏、ベートーヴェンにでもなったつもりか?」
「うひょ、よぉく気づきましたね! 運命的だ」
適当に音を鳴らしていたのではなく、本人としては楽曲を演奏していたつもりらしい。神父が気付いてくれたことで彼は上機嫌に拍手をした。
「独奏会なら他所でやってくれ。見ての通り、瞬時に君を殺すことは容易いが、夜な夜な徘徊する奇人とはいえ一般人だ。手荒なことをする前に自ら立ち去って――」
「はぁ?」
殺人犯は突如右腕を振りぬいた。
チェーンソーは鳴らず、鈍い音が神父の顔面に突撃する。
神父の視覚と聴覚と痛覚が一度に襲われた。
「徘徊老人じゃないんですけど! そこらへんの一般人じゃないんですけど! ボクだって投げられるんですけど!? そんでもって“殺人鬼”なんですけどぉ!? あ、今から殺すので、貴方とは被害者と加害者の関係ですね。紳士たる者挨拶は欠かせません。これからどうぞよろしくお願いしますねさようならァ!!」
あまりに突然の出来事に、神父は後れを取った。
顔面の痛みを感じた直後には、体に飛びついてきた殺人犯が両足で神父の身体を挟み込んでいる。
次の瞬間、エンジンが唸る重低音が神父の身体に鳴り響いた。
その日、新聞に載らない血十字殺人が、もう1件あった。
辺りのアスファルトに夥しい量の血が飛び散った。生体反射で暴れていた神父の両手両足が、次第に大人しくなる。
エンジン音が鳴りやんだ。
殺人犯がチェーンソーを動かしたのは縦に一回、横に一回。裂かれた死体の上下左右に、刃の回転に乗って撒き散らされた血が線を描いていた。
倒れた地面に十字架を背負って、神父は絶命した。
「紳士的に悪人は殺さない主義なんですが、そっちが殺る気なら無視する方がマナー違反ですよねぇ。マナーを守るのは善行ってことで今日は良い日だなぁ、ほら空気も澄んでて星もキレイですし!」
死体の傍に立ち上がり、夜空を見上げながらくるくると回転する。
上機嫌な様子で、殺人鬼は少女の下へと戻った。
男は少女の肩を掴み、身体を起こして仰向きにさせる。
栗毛色の長い髪に包まれた顔はまだ幼く十代だと思われる。
額に滲んだ汗は珠のようにふくらみ、その表情は苦しげで、彼女は目を閉じてただ浅く呼吸を繰り返している。
ふと、見下ろした少女の胸元に、月明かりを跳ね返して何かが光った。
鎖が擦れる音がする。
「……ロザリオ……十字架」
無意識に手が伸びる。
返り血にまみれた右手が掴んだ十字架は、血で汚れてしまった。
血に濡れた十字架。血十字。
「うひゃ……うひゃ、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!」
静けさを壊す笑い声が響いた。
男はひとしきり腹を抱えて笑った後、少女を左の肩に担いだ。
人々が寝静まった暗闇のなかに、軽快で奇妙な鼻歌が再開する。
「フンフンフフンフーン、うひょひょひょーい」
何かの縁を感じていた。男は上機嫌でまた闇夜に笑う。
人の道を外れ、獣とも似つかぬ化け物にまで歪んでしまった男と、
“魔女”と呼ばれたもうひとつの歪みが、重なり始めた瞬間だった。




