転段 --- 香坂明①
駅前からほど近い喫茶店は、昼下がりでコーヒーやスイーツを楽しむ客で店の半分ほどの席が埋まっていた。通りに面したガラスには町行く人々の姿が見えている。
そこに突如現れた非日常な異邦人が、喫茶店のドアを開けて入店した。
服装は修道女が着る黒いワンピースに頭を覆うヴェール。そして右手には鞘に納められた日本刀というアンバランスな組み合わせだ。更にブロンドヘアーに同じ色の瞳が、店内の視線を一挙に集める。
そんな彼女に声をかける男がいた。
「やあテレーズ! 悪いね、わざわざ来てもらって。バーは都合が悪くなっちゃって」
テレーズを呼び出した男は、テーブル席でブレンドコーヒーを飲んでいた。
涼やかな笑みを浮かべて、彼女へと手を振っている。
手を振り返してしまいそうになるが、テレーズの脳裏には菖蒲の発言である『確定でクズ』という言葉がこびりついていた。
(『隙を見せたら豹変する』とも言っていました。菖蒲を連れてくることはできませんでしたが、友人の意見を取り入れて、対魔女並みに警戒します)
テレーズは店内を進み、敢えて座ることなく立ち上がったまま話しかけた。
「アキラ、メールを読みました。魔女と殺人鬼の居場所を知っていると。一刻も早く教えてくだ」
「――待ってくれ」
香坂明はテレーズの言葉を遮って立ち上がる。
「どうしたの、この怪我は」
包帯の巻かれた右腕を持ち上げ、傷に触れない様にそっと手を添えた。
よく見ると、黒い修道服にもほつれや傷が目立ち、テレーズが苦戦したことが予想できる。
「殺人鬼とこの妖刀にやられました。ですから、アナタが場所を知っているなら早急に……アキラ!?」
明はその両目から静かに涙を流していた。
本題に入ろうとしたテレーズだが、慌てて明の涙を手で拭う。
「ど、どうして泣くんですか!? アキラ、落ち着いて」
焦るテレーズの表情を見ると、顔にも切り傷があることに気づいて、明はその頬に触れた。
「好きな人が傷ついている姿を見ると、こんなに苦しいんだね」
店内は異様な雰囲気に包まれた。異邦の麗人であるテレーズと、爽やかな美形の明がお互いの顔に手で触れて見つめ合っている。
「怪我の、具合は?」
「ええっと、一番酷いのは峰打ちをくらったあばら骨のヒビですが……右腕以外は今までの任務でもよく怪我をしますので、そこまで心配する必要はありません。だからどうか泣かないで」
泣いた子供をあやすことくらいなら、テレーズにとって難しいことではない。しかし、異性が自分のことで心を痛めて涙を流すという経験には慣れていなかった。動揺が勝ったために、テレーズの警戒は緩んでしまう。
「これまでも過酷な戦いを潜り抜けてきたんだよね……この一瞬くらいは君の安らぎになれるといいな。何か飲まない?」
明は自然とテレーズをソファ席へとエスコートして、メニューを手渡した。バーテンダーの手腕が活きており、いつの間にか相手をもてなしている。
「……では、アキラと同じものを」
テレーズは慣れていない日本語を読むことを避けて、目線の先のコーヒーを指さした。
彼は軽く頷くと、涙を拭いて店員に声をかけた。
2人は喫茶店でコーヒーを飲みながら会話を続けていた。
「それにしても、まさか聖人テレーズの右腕まで傷つくなんてね。これまでもそういうことはあったの?」
「いえ、私は初めての経験です。ですが、他の魔女狩りのメンバーが、同じように偶像崇拝の神聖を突破されることはあり……おや、私はアキラにこの右腕のことを説明していたでしょうか?」
「君からは聞いていないよ。でも僕は君に恋焦がれる情報屋だから、調べるのは当然のことだね」
彼はテレーズの協力者である平井神父を脅して、ある程度の情報を得ている。
しかし聖十字教の暗部を探ることは、一国の諜報機関を相手にすることに等しい。本国から遠く離れた日本で、教会の機密を調べ上げることなど不可能だとテレーズは考えていた。
「……やはり、アナタは警戒すべき相手のようですね」
「心外だけど、組織の性質上無理もないか。でも安心して、君の不利益になることはしないよ」
ある意味その情報収集能力は驚嘆に値する。更に都合のいいことに、テレーズの味方であると明は表明している。自身が抱える問題について、相談してみるのも良いかとテレーズは思い至った。
「では、ひとつ相談に乗ってください」
彼女はテーブルの上に日本刀を置いた。しかし右手は掴んだまま離さず、明にも触れない様にと注意する。
「この日本刀を隔離保存できる場所はありませんか? 私が運搬し、私が魔女罰殺後に回収しますので」
「僕がこの場で預かるというのは?」
「アナタは即座に殺人衝動に駆られ、少なくとも廃人になるでしょう。最悪の場合私に討伐されることになります」
「なるほど、妖刀か……僕は殺されてもいいけど、テレーズの困り事が解決しないとね」
明は日本刀を眺めながら腕を組んで思案する。
「鍵のついた部屋を手配しようか?」
「……それでは足りません。厳重な金庫のようなものが望ましいです」
テレーズは誰かが妖刀に触れること恐れていた。完全に隔離された状態でなければ、呪いの被害者が増える可能性が残る。
「手配できなくはないけど、厳重さは貴重さの裏付けになる。悪党に目をつけられて、鍵のピッキングや電子ロックのハッキングされるリスクを考えれば、君個人より堅牢なセキュリティはないと思うよ」
そう言われて、テレーズは納得させられた。
「う、確かに……この手を離れること自体がリスクですね」
これから魔女と殺人鬼を追うテレーズにとって、この妖刀を持ったままだというのは都合が悪い。だが、もし日本刀が別の人物に渡った場合の被害を考えると手放すことも憚れらた。
議論は停滞して、明は改めて日本刀を見定めていた。テレーズにお願いして、少しだけ鞘をずらし刃を覗き込む。波紋や反りなどの造りから情報を得ようとしているようだ。
「専門じゃないからわからないけど……南北朝、下手したらそれよりも前の鎌倉時代の作かな」
「それは西暦にするといつ頃になりますか?」
「1200~1400年あたりだね」
「なるほど」
テレーズの短いリアクションを見て、明はそれを納得によるものだと推察した。
「年代を気にするということは、そうか。君の腕は当時の信仰にも左右されるのか」
明は右腕に巻かれた包帯を盗み見る。テレーズはバツが悪そうに右腕に触れた。
「……鋭すぎるのも考え物ですね」
「ドラキュラだって元々クリスチャンじゃないと、十字架を怖がるなんて道理が合わないよね。これが本当に妖刀だというのであれば、込められた怨念はきっと宣教師が日本に来る前の時代に死んでいった武士たちだ。神を知らないモノには神聖を理解できないという論理だね」
明は組み立てた推理を披露した。ファンタジーは苦手だと発言していたが、一定のルールがある場合はパズルを組むことは容易いらしい。
テレーズは首肯することは避け、釘を刺すにとどまった。
「その情報、絶対誰にも売らないでくださいね」
「テレーズのお願いなら、いくらでも守るよ」
明はなぜだか満足そうに顔をほころばせた。
会話はひと段落して、明の手元のカップからコーヒーがなくなっていた。
そこで彼は諦めたように少し長く息を吐く。
「本当はもっとこうやってお喋りしていたいんだけど、時間が無くなってきたみたいだ。本題に入らなきゃ」
スマホを操作すると、テレーズの端末にメールが届く。それを開封すると一枚の写真が添付されていた。
テレーズの目に映ったのは、自動車の後部座席に並ぶ魔女と殺人鬼の二人だった。
「君を呼び出した理由、魔女と殺人鬼の場所の件だけど、これを伝えるのにひとつ条件を飲んでもらいたい」
今まで明は無償の愛とも呼べる一方的な情報提供を続けてきた。テレーズに何かを要求するというのは初めてのことであり、それを聞くテレーズも心なしか身構える。
「彼らの居場所の情報と引き換えに――僕を守ってくれないか?」
言葉の意味を確かめるため、テレーズは質問した。
「守る、ですか……アキラは現在、危険な状態にあるということでしょうか?」
明は小さく頷くと、補足の説明を始めた。テレーズの端にあったガムシロップとコーヒーフレッシュの入れ物を積み重ねていく。
「自己紹介の時にも伝えた通り、僕はある情報屋のメンバーだ。でもここ最近の動きでいくつかルール違反をしていて、それを咎められている。ほとんど除名に近いのが実情だ」
それらは規則正しく並んで三角形の山が完成した。
「棟梁は厳しい人でね。『情報をタダで売るな』ってことに拘ってる。情報屋はあくまで状況を俯瞰してみるべきであり、公平を崩して誰かに肩入れすると、盤面の登場人物に成り下がってしまうって考えらしい」
10個ほどのパーツで出来た三角形の端から、ひとつのガムシロップが指で弾かれて転がった。
「もうしばらく自由にできるかと思ったんだけど、思いのほか早くお迎えが来たみたいだ」
喫茶店のガラス窓の外に、一台のミニバンが停車した。暗いスモークガラスで加工された窓からは車内の様子は見えない。すぐにドアが開いて、中から柄の悪い男が3人降りてきた。店内を指さして何やら会話をしている。
「僕は今、“弱者”と呼ばれる立ち位置にいる。だから君に助けて欲しいんだよ。弱者の守護聖人テレーズ・ダ・リジュ」
明は転がったガムシロップを拾い上げて、テレーズへと差し出した。彼女がそれを受け取るのを期待している。
男たちの中でも一際図体の大きな男が喫茶店の中に入ってきた。
その男は自販機ほどの巨躯の持ち主だった。肩で風を切って闊歩し、アゴにある青あざをさすりながら客席を物色する。
「なるほど、話はわかりました。確かに弱者を守ることが私の信念――ですが、お断りします」
テレーズは手のひらを向けて明を拒絶した。
明は平静を装うが、震えを隠せていない声で続けた。
「一応、理由を教えてもらえるかな……?」
対してテレーズは凛とした態度で毅然と回答した。
「理由は2つあります。私にとって弱者とは降りかかる災厄や困難を乗り越える力を持たず、傷つく者です。貴方は自分の機転や実力でいくらでも暴力を回避できるはずだ。私はアキラを過小評価しません」
想い人から誉められたことで、明の心音が早くなる。それを表情に出すことなく言葉の続きを待った。
「それに、貴方は私に助けられるためにその弱い立場を好機として受け入れ、利用している。それは弱者ではなく狡者です。私の守るべき対象ではありません」
「……ぐうの音も出ないね」
ある意味テレーズから評価を得た部分もあり、明はいくらか落ち着いた様子で一言こぼした。
「そしてもうひとつはこれです」
テレーズは再び日本刀を持ち上げた。
「先程も話した通り、この妖刀は持ち主を呪い、殺人を誘発する危険な呪物です。私の聖人の右腕は現在、この刀の呪いを抑える第二の鞘として機能しています。その間は腕から得られる偶像崇拝の神聖が相殺されている状況です」
「君に関わってオカルトにかなり寛容になったつもりだけど、まだ同じ速度ではついていけないな」
「端的に言うと、私は現在、聖人の力を制限されていて、見た目通りのただの修道女です。右腕は剛体ではなく、大男を屠る膂力はない一般人ということです」
「なん、だって……!?」
「見つけたぜ、バーテンの兄ちゃん。やっぱり識名新太郎の言った通りこの店にいたな」




