転段 --- 八武崎礼②
しばらくして、再び目を醒ました八武崎は落ち着いていた。
主治医の診察が始まっても彼女は大人しく問診と検査を受けて、その後は静かに病室で横になっていた。
白柳は検査結果を聞くため、別室の診察室へと赴いた。大鋸屋警部と日元刑事は八武崎の病室に残って様子を見ている。
「手の調子はいかがですか? 災難でしたね」
彼女の手は包帯で巻かれていた。鋭利な鏡の破片が突き刺さっていたが、ここが病院だったこともありすぐに適切な治療が施された。
「おかげさまで無事に動くわ。それで、八武崎ちゃんの容体はどうなの?」
医者は結果を淡々と話を始める。
「結果は正常。貧血で倒れたのかなってくらい。今はどこにも異常がないですよ」
血液検査の結果や頭部のレントゲン写真を広げる。
頭蓋骨には貫通した穴のあとすら残っていないように見えた。
“癒しの聖女”の能力は紛れもない本物だと、白柳は感心する。
「ただ、彼女の右目だけはよくわからない」
追加で、左右に色の違う瞳の写真が置かれた。
「衝撃を受けたことによる虹彩異色症ですかね。珍しいことに目の色が変わっているようだけど、視力は2.0で非常に良好。問題は本人が暴れた原因である、記憶の混濁です」
「記憶ね……先生は何が原因だと思う?」
白柳は先程の八武崎の発言を思い出す。彼女は知らないはずの姫路円架の名前を口に出した。
「おそらく精神起因のPTSDでしょう。色が変わった右目の方の視界で、経験したことのない映像が幻覚のようにおぼろげに見えると本人は言っています」
手元のカルテに書かれたメモを医者は順番に読み上げていった。
「首を吊った女の死体。傷だらけの顔の男。チェーンソーで生きたまま切り裂かれる人間の身体。しかも7人も……大量殺人ですね。これじゃあサイコスプラッタ映画のダイジェストみたいだ。最後に修道女に死んでも死んでも殴られ続けるっていうのは、悪霊の見る悪夢みたいで、これだけジャンル違いですね」
外科医である彼にとってこの病状は門外漢だ。嘆息してカルテを机の上に置く。
決定的だった。白柳は唇を噛んで気持ちを抑える。
八武崎礼の中にある記憶は、移植された右目の持ち主である君ヶ袋小路……もとい、姫路君忠のものだ。
彼女が弾丸によって受けた傷の様子を、白柳は思い出していた。右目に空いた赤黒い孔の奥で眼窩と側頭骨に加えて、脳の一部までもが損傷しているように見えた。
癒しの聖女による治癒の原理は不明だが、代用品としてはめ込んだ右目から再生が始まった場合、八武崎礼の脳の一部は、姫路君忠の細胞が混ざり補完した可能性がある。記憶の混濁の原因はそうとしか考えられなかった。
この話は医者に伝えたところで信じてもらえるわけがない。白柳は追及することなく、別の話題を出した。
「どうしたら幻覚を抑えられるかしら?」
「右目を開けていなければ症状が抑えられると言っていたから、衝撃を受けた右目の視界と、PTSDがリンクしているようですね。今は眼帯をつけて様子を見て、しばらくは右目を使わない方がいいでしょう」
「眼帯ね。外さないようにと、伝えておくわ」
白柳はお礼を言って、診察室を後にした。
◇◆◇◆◇
白柳が病室の扉を開ける。
部屋に入ると、そこには患者依からスーツに着替えている途中の八武崎がいた。
「ノックしてください。私が下着姿だったらどうするんですか」
「どうもしないわよ。昨日キスまで済ませたんだから」
八武崎は怪訝な顔をしたが、白柳が救命措置で人工呼吸したことを伝えると、「なるほど」と納得した。
「外科、内科的には問題ないから、退院していいってよ」
「当然そのつもりです」
そう言った彼女の右目には眼帯が装着されており、白柳はそれを見て胸を痛めた。
「そういえば、さっき目が覚めた時、驚きました」
「何よ。驚いて私の手をぶっ刺したの?」
「違いますよ! その件は、錯乱していてその……申し訳ありませんでした」
八武崎は深々と頭を下げて謝罪した。
白柳は短く「いいわよ」とつぶやいてベッドの隣の椅子に腰かける。
「それで、何に驚いたの?」
「……白柳さんって看病が似合わないですから。お見舞いに来てくれたことにびっくりでした」
「そうかしら? ナース服なら着こなせる自信があるんだけど」
「確かに、それは似合いそうです」
八武崎は座り込んだ白柳の姿を見た。このスタイルの良い美人であれば大抵の衣装は似合ってしまうだろう。
まじまじと見られた白柳は居心地が悪くなってくる。それでも、意を決して心中を吐露した。
「……私の方こそ、申し訳ないと思ってるのよ」
八武崎はこの2日間で、こんなにも弱々しい口調の白柳を見たことがなかった。
「狙ったわけじゃないけど、私の撃った弾丸があなたを殺しかけた。命が繋がったのは偶然だし、移植による後遺症も含めて、責任を取るなら私しかいないわ」
昨夜何があったかについては、大鋸屋警部から先に八武崎へと説明が済んでいる。
彼女が一連の事実を受けて、白柳のことをどう思っていても仕方がないと考えていた。
「恨んでませんよ。拳銃はもう止めて欲しいですけど」
意外にも、八武崎は気に留めていないようだった。
「あなたが必死な顔で覗き込んでいたのはうっすらと覚えてます。白柳さんも、そんな焦った顔するんだなって」
八武崎はブラウスのボタンを留めて、上からジャケットを羽織った。ネクタイを一度手に取ったが、彼女はそれを使わず机に戻す。元々ひとまとめにしていた後ろ髪も、今は解かれたままだ。
「そんなに急いで支度して、どこへ行くの?」
「もちろん捜査の続きです。殺人鬼が捕まっていない限りは、まだ事件は終わっていません。申し訳ないと思ってるなら、協力してくれますよね?」
その言葉には白柳は断らないだろうという確信が含まれていた。
「……私の方はもう血十字ちゃんに興味はないわ。だから、今度捕まえたら八武崎ちゃんに譲ってあげる」
支度を終えた八武崎が白柳の目の前に立つ。
「じゃあ、もうひとつわがままいいですか」
「聞くわよ。何でも叶えてあげるわ」
白柳も立ち上がって、八武崎の目の前で腕を組んだ。
八武崎は手のひらを表にして、白柳の前に差し出した。
「拳銃、貸してください」
白柳はしばらくその手のひらを見つめた。
押収ではなく、貸してくださいと彼女は言った。白柳はその意味を理解して戸惑う。
「これから私がこの拳銃を撃つときがきても、1発だけそれを止めないでください」
「……撃つ相手が、誰であったとしても?」
「ええ」
八武崎の眼は冗談を言っているようには見えなかった。拳銃を私用することについて黙認を求めている。
白柳は一瞬ためらったが、彼女の眼帯に覆われた右目を見て、拳銃を手渡すことに決めた。
「約束するわ」
「絶対ですよ」
八武崎は更にホルスターを受け取って、ベルトに拳銃を固定した。
2人は連れ添って病室を出た。
今までは白柳が先導して、八武崎がついていく順番だったが、今ではそれが逆になっている。
先をいく八武崎に対して話しかける。
「それで、捜査再開のアテはあるの?」
「姫路君忠の足跡を追います」
「足跡って……元職場は大鋸屋のオジ様が調べちゃったわよ」
「君ヶ袋小路を名乗ってからは住処を変えました。その住所へ行きましょう」
「……は? なんで、そんなことがわかるのよ」
八武崎は振り返って眼帯をずらした。
「この眼で見てきたことは、忘れないんです」




