転段 --- 八武崎礼①
八武崎礼は病室で静かに眠っていた。
窓の外には枯れ木が立ち並んでおり、冬の物悲しさが静かな病棟を包み込んでいる。
ベッドの隣で来客用の簡素な椅子に白柳魅世は座っていた。八武崎を覗き込むように背中を丸めている。
その隣に八武崎の上司にあたる大鋸屋警部が立ちすくんでいた。
彼は一枚の書類を取り出すと、そこには弾道鑑定の結果として『未登録の旋条痕』と記載があった。
「おい、魅世。お前霊園で発砲しただろ」
「したわよ。5発」
白柳の脳天に拳骨が直撃した。
「いったぁーい!! この昭和気質!!」
「撃つなら事前に言え! 少なくとも事後で報告しろ!」
大鋸屋警部は悪童を叱る様に言いつけた。白柳が普段から拳銃を持ち歩いていたことを知っていたようで、それを取り上げたり深く追求することは無かった。
「……殴って終わり? 八武崎ちゃんがこうなったの、私のせいなんだけど」
「この怪我は事故だろ。そこに怒っても仕方ねえ」
すると、白柳の丸まった背中を軽く叩いた。
「起きたら謝って、八武崎に寄り添ってやれ」
「……私を叱れるのはオジ様くらいよ」
「じゃあまだまだ引退できねぇな」
大鋸屋警部はもうひとつ来客用の椅子を取り出して、白柳の隣に座った。
二人は昨夜のことや、血十字事件について話し始める。
「それで、殺人鬼を見つけたけど、取り逃がしたんだって?」
「ちゃんとスカウトは終わったわ。悪鬼會に向いてないところまでははっきりしたけど、その流れで八武崎ちゃんにも悪鬼會のことは説明した」
大鋸屋警部は口元を抑えて「そうか」と短く返事をした。正義感の強い八武崎にとって、悪鬼會の存在は許せないものだっただろうと、彼は想像する。
「そのあとはイレギュラーに次ぐイレギュラーよ。宗教組織のいざこざに呪いの妖刀まで絡んできて、ファンタジーかっての。わたしはしがない裏組織の一員なのに」
「自分も大概だろうが……話は聞いたところで警察が対応はできない事案だらけだな。その怪獣大戦争の中で、八武崎の命が無事でよかったよ」
部下の身を案じていた大鋸屋警部は、張っていた気を緩めて、優しい視線で眠る八武崎を見つめた。
「で、そっちはどうなの。別ルートで捜査してたんでしょ?」
「ああ。個人的に情報屋の協力を得て、独自の捜査で血十字事件を追ってた。共有するよ」
「私はもう興味ないけど、八武崎ちゃんのために聞いておくわ」
「犯人の名前は姫路君忠。27歳男性。現在は偽名を名乗ってるらしい」
白柳は「ひめじ」と苗字の部分を繰り返して呟いた。彼女の脳裏には、昨晩殺人鬼が暴走を止めた際に、墓石を見つめていた場面が思い出されている。確か、そこに彫られていた名前が姫路だった。
「この男を追って、過去の勤務先である新聞社に行ったんだが、実は過去に一度俺と会ってたらしい。お前も絡んでた事件だよ。3年前、調査に来た神隠しの件があったろ」
「高校の裏山のやつだっけ?」
「そうだ。15年隔てて同じ犯人が同じ現場で2人を殺した。高校の裏山に時代の違う白骨死体が2つ重って見つかった難事件だ」
白柳は何度か首肯しながら、「あれね」と事件のことを思い出し始めた。
「調査当初は、未発見事件の死体に、第三者が死体遺棄を重ねた巧妙な仕掛けかと勘繰ったけど……蓋を開けてみれば同一犯。オカルトに固執した気色悪い教師の犯行だったわね」
「その調査のときに、地方新聞の記事を探してくれたのが姫路君忠だった。行方不明扱いで警察に被害者の詳細データが無かったもんで、地方の新聞社に出向いたんだ。15年前の新聞が欲しいって言って、事件の概要を伝えたらすぐに1冊の新聞を倉庫から持ってきてよ。徹夜で新聞の山を掻き分けるつもりで行ったのに、ありゃ腰が抜けるかと思った」
姫路君忠は大まかな年代、高校名、行方不明者の名前や年齢だけで該当する新聞を即座に発見したらしい。通常ならあり得ないことに、大鋸屋警部は驚いていた。
「その記事の取材がヒントになって、犯人は15年前の死体の学生の同級生だと判明した。大手柄だったよ。今日また新聞社で元同僚に話を聞いたら『映像記憶』だっつってたな」
「別名、瞬間記憶能力ね。著名な画家や作家が持ってた話は聞くけど……お目にかかったことはないわ」
「ああ、見たものを映像や写真のように正確に記憶して、いつまでも忘れない。画像も文字も、なんでも覚えてるって。どこにでもいそうな普通の兄ちゃんだったけど、すげえ特技だった」
大鋸屋警部からの報告が一区切りついたところで、白柳の携帯が鳴った。
彼女は画面に表示された連絡先を見て舌打ちをする。そこには黒杭警視正と表記されていた。
「出た方がいいぞ」
大鋸屋警部が促すと、「わかってるわよ」と言って彼女は渋々通話ボタンをタップした。
『おい、定時連絡からどれだけ時間が超過してるかわかってるのか……? 事件介入のときには報告を怠るなと何度言えばわかるんだキサマという女は』
「はいはい、今病院だから手短にね。看護士来たら怒られるから」
『……は? 病院だと? まさか、怪我でもしたのか』
「私のことが好きだからって心配しすぎなのよ。私は無事。借りてた警察官がちょっとね」
『だ、誰がお前のことなんか好きになるか!? とりあえず、お前が無事ならいい。それで、事件の進展はどうだ』
白柳は返答に悩んだ。もしここで血十字事件の犯人は悪鬼會の鬼になる素質がないことを伝えた場合、この事件への介入特権を剥奪されるだろう。そうなれば八武崎に寄り添うことが出来なくなる。
「報告遅延と虚偽報告って、どっちの方が黒杭警視正の好み?」
『どちらも吐き気がするほど嫌いだ。あのな、わかってるのか。悪鬼會なんて最悪の組織を事件介入させている警視庁の身にもなれ。私はお前が勝手な行動をしていないかどうか心配が胃に穴が……』
面倒くさいなぁと半眼で黒杭警視正この言葉を聞き流していたときだった。薄めた目の視界の隅で何か白いものがもぞもぞと動いた。
布団の下で八武崎が動いたのだと気づいて、すぐ立ち上がる。
「ごめん急用! 切るわ!」
『はぁ!? おい、白やな』
スマホを放り出して、白柳は急いで八武崎に寄り添った。
「八武崎ちゃん……! 起きたのね。ここは病院よ。分かる?」
八武崎は上半身を起こして、虚ろな瞳で白柳を見つめた。しかし特に反応は無く、ゆっくりと周囲を見渡す。
まだ意識がはっきりしていないようだ。
彼女の本来の瞳の色は濃いブラウンだった。しかし右目は殺人鬼君ヶ袋小路から移植されたため、彼の黒い色の瞳がそこにあった。
不意に、その黒い瞳の方からだけ、涙が零れ落ちた。
八武崎が頭を抱えて小さく震える。
「まど、か……、円架? 円架は、どこ。僕は、私はどうして、ここに?」
震える手が八武崎自身の頬に触れた。続けて彼女は何かを確かめるように、顔全体をべたべたと触り始める。その異様な光景を見て、白柳と大鋸屋警部は唖然とすることしかできなかった。
「鏡、鏡はありますか!?」
鬼気迫る剣幕で、八武崎は鏡を要求した。白柳は焦りながらも、戸棚に置いてあった手鏡を渡す。
彼女はそれを受け取ると、しばらく自分の顔を見つめて、信じられないという様子でつぶやいた。
「傷が、ない」
八武崎は顔の横でゆっくりと拳を握り、直後に手鏡を叩き割った。
乾いた音が病室に響いて、パラパラと鏡の破片が散らばる。彼女は手鏡に残った鋭利な破片をつまみ上げた。定規ほどのサイズのそれを握ると、鋭い部分を自分の右目へと向けた。
危険を察知した白柳が身を乗り出す。
八武崎は躊躇なく、自分の――昨日まで殺人鬼君ヶ袋小路のものだった――右目へと鏡の破片を突き刺した。
純白の布団の上に、鮮血がポタリと落ちる。
「……セーフ。起きて早々、何してんのよアンタは……!?」
鏡の破片は、白柳の左手に突き刺さって静止していた。間一髪のところで自傷を防ぐことができた。
そこでようやく八武崎は白柳の存在に気づいたらしく、まっすぐに彼女を見つめた。
「白柳さん、私はもう……私じゃありません」
彼女のブラウンの左目からも、遅れて涙が溢れ出した。
日元陣作は後輩である八武崎の見舞いに来ていた。食事量の多い彼女が喜ぶだろうと大玉の果物を取り揃えて病室に向かうと、中がやけに騒がしかった。
「どうしたんですか?」
ドアを開けると、そこには奇声を上げて暴れる八武崎がいた。白柳と大鋸屋、他2名の看護師が取り押さえようと奮闘している。
しかし彼女は柔道の有段者であり、数人がかりでも拘束するのに苦労していた。
「おい日元! ぼさっとしてないで手伝え! 一旦落とす(・・・)ぞ!」
「は、はい!」
日元が加わったことにより何とか八武崎は取り押さえられた。しかしその後も大人しくする様子が無かったことから、日元の絞め技により意識を落とされることになった。
「はぁ……はぁ、何なのよ、もう、元気過ぎるわこの娘」
「よくやった日元。いいタイミングで来てくれた」
「あの、僕には何が何だか。入院中ですよね……?」
「俺らにもさっぱりだ。だが……おい魅世。さっきの話の続きだ」
大鋸屋警部は白柳の肩を掴み、耳打ちをする。
「八武崎がつぶやいた『円架』ってのは……姫路君忠の、先立たれた妻の名前だ」




