転段 --- 永浦永輔①
マンションの一室でチャイムが鳴る。
部屋の中から足音が聞こえて、すぐに玄関のドアが開いた。
「も~誰よ。これから出勤なのに……は?」
「おう、おはよう梨々香」
ドアの前には永浦永輔が申し訳なさそうな顔で立っていた。その背中には目を閉じた菖蒲がおんぶされている。更に背後には傷だらけのシスターテレーズが日本刀を手に持って、心配そうに梨々香の反応を伺っていた。
「……なにコレ、夢? ほっぺた借りるわよ」
「痛いぃぃだいでぁいッ!!」
混乱した梨々香が永輔の頬を思いっきりつねる。
「夢じゃないのね」
「自分のでやれよ!!」
梨々香は諦めたようにため息をついて、3人の客人を部屋へと招き入れた。
出勤前の支度をしていたらしく、ブラウスの上からジャケットを羽織る。
「どうしたらこういう状況になるのよ」
「えーっと、休む場所を探してて、梨々香の部屋が一番近かったんだよ。とりあえず菖蒲を寝かせてやってくれ」
梨々香はぐったりとした菖蒲を受け取ると、永輔のヘアバンドを掴んで下ろした。「着替えさせるから」と言われて、永輔は視界を奪われたまま大人しく床に座る。
汚れの目立つ制服を脱がせて、手際良くもこもこくまさんルームウェアへと装いが変わる。
「あとはそっちの日本に居なさそうなシスターさんは? 傷だらけだけど」
「初めまして、RIRIKA@仕事病む」
「この人は菖蒲を助けてくれた恩人だ」
「……じゃあこの無礼は一回帳消しにしてあげるわ。それで、勇誠は?」
永輔はバツが悪そうに答える。彼女は桑島のことを一番に心配していた。
「悪ぃ、病院には行ったけど会えなかった。俺一人でも、また探しに行くから」
梨々香はそれ以上は追及しなかった。
手際よく菖蒲を寝かせたかと思うと、ものの数分で3人分の朝食を用意する。更にシャワー用のタオルを手渡して、テレーズには救急箱から消毒液と絆創膏まで案内する仕事振りを見せた。
その後出勤用のカバンを手に取ると、玄関でヒールのかかとを地面に叩きながら、永輔に部屋の鍵を投げた。
「じゃあアタシ仕事行くから。出ていくなら鍵はポストにでも入れといて」
そう言い残すと、颯爽と出勤していった。
テレーズは閉まったドアを見つめたまま呟く。
「あの女性、施しの精神が極まってませんか……?」
「言っただろ、あれがRIRIKA@面倒見良いだ」
◇◆◇◆◇
「か、可愛すぎます……!! このもこもこ、ファンシー、ゆるふわ、落書きみたいなお目目、レザー生地のお鼻、フェルトの牙、どれをとっても非の打ち所がない神秘的な愛くるしさ!!」
シスターテレーズはベッドの隣で悶絶していた。
目の前にはもこもこくまさんルームウェアを着て、熊の顔部分に当たるパーカーを被って眠りにつく菖蒲がいる。
「写真に撮りたい……でも、今撮ったら盗撮になってしまう……ダメ、我慢するのですテレーズ。聖人の名を預かっておいてそんな犯罪は出来ない。だからアヤメが起きたら絶対お願いして撮らせてもらいましょう」
テレーズは可愛いものに目が無かった。ガラケーを持つ手が震えているが、何とか欲望に打ち勝ったらしい。
そんな迷える信徒の後ろ姿を、シャワーから上がった永輔が見つめていた。
「寝てる間だけだぞ。そいつが素直に可愛い顔してるの」
「ひゃぁ!?」
永輔に気づいていなかったテレーズが驚く。飛び上がった拍子にガラケーが床に落ちて音を立てた。
そんなやりとりがあっても、菖蒲はぐっすりと眠ったまま目を醒まさなかった。
梨々香が同じように可愛さに狂うのを見ていたので、永輔は息を荒くしているテレーズのことは特に気にならなかった。
「にしても起きねえな。6時間以上は経ってるのに」
心配して菖蒲の顔を覗き込む永輔の表情を見て、テレーズも息を整えた。
「きっと、寝ても覚めても殺人衝動と戦っていたはずです。アヤメの疲労は限界だったのでしょう」
「ありがとな、シスター。アンタが止めてくれなかったら危なかった。なんて礼を言ったらいいか」
「……もしかしてエースケ。アヤメに気がありますか?」
予想もしていなかった問いかけに、永輔は噴き出した。
「はぁ!? 何言い出すんだよ!」
永輔にとって菖蒲は暴走する年下の少女であり、恋愛対象ではなかった。それどころか命を狙ってくる敵だった存在が、今はようやく敵でなくなったばかりだ。
「アヤメを大事に想う気持ちから出たお礼かと」
「知らねえよ。感謝してたら適当に言うだろ」
「そういえば……昨晩もアヤメを助けようと命を懸けていましたね。2日も行動を共にしていたなら、何度も殺されかけたでしょう。あなたもよく頑張りました」
テレーズは隣にいる永輔へと手を伸ばして、頭を撫でた。
気恥ずかしくなった永輔はすぐに身を引いて逃げる。
「や、やめろよ! ガキじゃねえんだからさ……」
「それで? アヤメのことが好きなんですか?」
追及を続けるテレーズに対して、永輔の語気も強くなっていく。
「ちっげえよ! こいつが操られたままだと、俺の命が危ないだろ! だから、自分が助かったことに対するお礼としてだな……」
永輔は必死に弁明する。殺しに来た相手に対して恋に落ちるわけがないというは、彼の中ではっきりしていたことだった。だがテレーズに撫でられたせいか、それとも恋バナに弱いのか、照れて顔が赤くなっている。
テレーズはそれに気づかず、残念そうに顔を伏せていた。
「……そうですか」
「なんで残念そうにしてんだよ!」
その問いに対して、今度はテレーズが恥ずかしそうに頬を紅潮させる。
「そんなに人の色恋沙汰が好きなのか? 聖職者のクセに俗っぽいというか、乙女なところもあるんだな」
「ふ、普段はそんなことはありません!」
テレーズは身を乗り出して必死に否定をした。敬虔な信徒である彼女にとっては、色恋にうつつを抜かすことは許されることではない。
「でも、今はちょっと困ったことになっていまして……」
あれだけ勇猛に殺人鬼を殴り飛ばしていたテレーズが、年端のいかない乙女のように小さく縮こまっていた。もじもじと視線を泳がせて、言葉にするのも苦労している。その様子を見て永輔が声をかけた。
「困ってんなら話が変わるな。助けてもらった身だ。事情くらいは聞かせてくれよ」
永輔は基本的に兄貴肌な男だ。最近は周りに男勝りな女傑が多かったために気づかれにくかったが、女子供が困っていると見過ごせない性分である。
だが、そんな永輔にも苦手分野はある。これはその類いの話だった。
「実は私、殿方から求愛を受けていまして」
◇◆◇◆◇
昼過ぎになってようやく、菖蒲は目を醒ました。
永輔が昨晩の明来木霊園での事の顛末を説明し、テレーズは預かっている日本刀を取り出して、妖刀の呪いについて補足した。
「もしかして、そのテレーズさんの傷はわたしがやってしまったの……?」
「いえ、違いますよアヤメ。これは魔女の味方をした殺人鬼にやられたものです」
菖蒲が直接手を出したわけではないが、テレーズの傷は殺人鬼が呪いの日本刀を手にしたことで負ったものだ。テレーズと永輔は事前に話し合い、そのことは伝えないことに決めていた。
誰も殺さないために奮闘した少女に対する、彼らなりの敬意だった。
菖蒲は梨々香が残していった朝食を食べる。永輔とテレーズは追加で買ってきたコンビニ弁当を昼食につつきながら、妖刀に操られていた時のことについて話した。
「薄っすらと覚えてるけど……自分の記憶じゃないみたいに、はっきりしないところもある……」
妖刀を抜刀しているときの記憶は曖昧らしい。刀から流れ込む無数の殺意に支配されて、視界に靄がかかったようで、他人事のようにそれを見る感覚だったらしい。
「でも、ありがとうテレーズさん。あなたのおかげで私は殺人鬼にならずに済んだ。エースケも、その、ありがとね」
「罪なき人々を傷つけまいと奮闘したあなたこそ称えられるべきです。私はたまたま手を添えただけだ」
「そのテレーズから、困りごとがあるっぽいぞ。恩返しのチャンスだ」
「何? 何でも言ってよテレーズさん!」
菖蒲はテレーズに身を寄せる。普段は人に懐かない性格の菖蒲だが、恩人であるテレーズのためにならと、両手の拳を握って言葉を待った。
テレーズは顔を赤らめると、たどたどしい調子で自分に求愛してきた香坂明という青年について話した。
「はぁ!? 一目惚れ!?」
コクン、とテレーズは黙ってうなずいた。
一通り話を聞いた菖蒲は、妖刀に支配されていたの時並みの鋭い視線になっている。愛娘の恋バナを聞く父親のような剣幕で腕を組んでいた。
「ねえテレーズさん、そいつってどんな見た目?」
「細身ですらっとしていて、着こなしのスタイルは決まっていました」
「顔は?」
「人種の違いもあって、あまり美醜がわからないのですが……顔立ちも整っていました」
「性格は?」
「初対面の私にも優しくしてくれた親切な人です」
「職業は?」
「バーテンダーです」
「確定でクズね」
「確定でクズなのですか!?」
「うん。間違いない。日本で3Bとは有名なの」
菖蒲は言い切った。女子中学生である彼女は恋愛経験は無くとも恋愛にまつわる話には目がない。そんな中で一番大事とも言える話題は、付き合ってはいけない相手だ。残念ながらバーテンダーは忌避される職業のひとつである。
永輔も「まあそう聞くけど」と話半分で相槌を打つ。
突如不安そうな表情になったテレーズが恐る恐る質問する。
「罪人、魔女、悪魔の順で例えるならどれくらいですか?」
「完全に悪魔よ」
天を仰いだテレーズの口から、本場の発音で「Oh my gosh」という絶望の声が漏れる。彼女らしからぬ砕けたリアクションだった。
「で、でも彼は私が面倒事に巻き込まれそうになったところを助けてくれて、連絡用のスマホまで渡してくれたんですよ? そのあともピンチのときに電話をくれて……」
「テレーズさん気を付けて。男は狙った女に初めは優しくするの。そして気を許した瞬間に豹変するんだから」
「豹変……!!?」
「ねえエースケ! 男ってそういうもんでしょ?」
暴走する女子中学生と涙ぐむシスターの視線が突き刺さる。どうも頷くしかない圧を感じて、永輔はとりあえず肯定しておいた。
「お、おう。男なんてそんなんばっかだ」
うんうんと理解者ムーブで場をやり過ごそうとしたが、女性陣の視線は突如、冷ややかに変わった。
「やっぱりアンタもか……」
「アヤメ、私の後ろに隠れて」
「なぁんで同意したのにこの扱いなんだよ!!」
狭いワンルームに永輔の悲痛な叫びがこだました。
「冗談はさておき」
「ええ、ジョークはこれくらいにしましょう」
女子は恋愛トークと男子を仲間外れにするときには揺るぎない団結力を発揮する。それが昨日出会ったばかりの外国人であってもだ。永輔はその真理を身をもって体感し、彼女たちに歯向かうことを諦めた。
「ねえテレーズさん。次にその香坂って男と会うときは私も同席する! 恩人に見合う人間かどうか見定めないと」
「感謝します、アヤメ!」
彼女たちは固い握手のあと熱い抱擁を交わした。
いつの間にか二人の間には友情のような結びつきが出来上がっている。異国から仕事で訪れたテレーズにとって、頼れる人間が増えるのは心強い。彼女は心からアヤメのことを友人と認めていた。
「――ですが、アナタはすぐにこの街から出た方がいい」
カチャ、カチャと何か硬いものがぶつかるような音が断続した。直後、永輔が菖蒲を羽交い絞めにして、テレーズから身を剥がす。
「……え?」
テレーズの言葉と、永輔の行動の意味がわからず、菖蒲は不思議な顔をしている。
だが、菖蒲の視界には自分の意志と反して、日本刀を掴んで離さない左手が映っていた。
「な、んで……」
抱擁の瞬間、テレーズの視界から外れた隙を狙って、菖蒲の左手は勝手にテレーズが預かっていた妖刀へと手を伸ばして奪おうとした。力の入った手は震え、鞘と鍔がぶつかりカチャ、カチャと音を立てる。
テレーズは聖人の右腕で日本刀を掴んで離さない。
菖蒲は放心していて暴れる様子はないが、その手が本人のコントロール下にないことは明らかだった。
「自分を責める必要はありません。呪いとの接触時間が長かったのでしょう。手放したとしても、アナタの中に残る呪いの残滓が、妖刀に引き寄せられているようです」
永輔はこの可能性について、事前にテレーズから聞かされていた。菖蒲が妖刀へと手を伸ばしたら、有無を言わさず拘束するというのが、二人の取り決めだった。
「残滓は簡単には消えない。呪いの影響を抑えるには、物理的な距離を取るのが有効です」
テレーズは妖刀を持つ右手をスライドさせて、菖蒲の手ごと鞘を包み込んだ。すると、段々と力が抜けて、するりと妖刀から手が離れる。テレーズは妖刀を下げて間合いを取り、菖蒲は自分の手を信じられないという様子で見つめた。
「私が右腕で持っている間は妖刀の呪いが誰かを狂わせることもない。この刀は私が預かります。アナタたちはこの街を出て、呪いから離れるべきです」
「で、でも……テレーズさんは逃げた殺人鬼たちを追うんでしょ? 助けてもらったのに、何もできないなんて……」
「その気持ちだけで嬉しいですよアヤメ。任せてください、私は一人じゃない。この腕には信徒たちの祈りが幾重にも折り重なっている。負けたりなんてしません」
負けないという言葉は本心から出たものだった。それと同時にまだ年端もいかない菖蒲をこれ以上戦いに巻き込みたくないという気持ちもあった。弱きものを守ることがテレーズの信条であり、一般人である菖蒲や永輔は庇護対象となる。
菖蒲としても自分が足手まといとなってしまう以上、わがままを言うことはできなかった。
部屋に振動音が鳴る。
テレーズは慌てて荷物を確認してスマホを取り出した。画面を確認して、一度は菖蒲の顔と見比べたが、何も言わずに立ち上がる。
「用事が出来ました。私は調査員と協力して魔女と殺人鬼を追います。ここでお別れしましょう」
テレーズは菖蒲へと手を伸ばし、慈愛の表情で菖蒲の頭を撫でた。
「アヤメならきっと、その身に残った呪いにも打ち勝つことが出来ると、信じていますよ」




