幕間 --- 姫路君忠
「看護士さんたちが言うんだ。お見舞い熱心で、すごく紳士的な旦那さんですねって」
「僕は一秒でも長く、君と一緒に居たいだけだよ」
「本当かなぁ? あんまり看護士さんたちには優しくしないでね。あなたは私だけに紳士でいてくれないと」
病室のベッドの脇で、僕は妻の手を握っていた。
静かな病室で円架は窓の外を見ている。視線の先には八分咲きの桜があった。
開いた窓から、風と共にひとひらの桜の花びらが舞い落ちる。
「懐かしいねぇ。同じ高校だったのに、初めて喋ったのは卒業式の日だった。こんな風に桜が咲いてて、帰り道で君忠が慌てて追いかけてきたの」
「……恥ずかしいよ。あの時は必死だったから」
「でも覚えてるでしょ? 何月何日の何曜日かな」
「3月3日の月曜日だよ」
円架は嬉しそうに僕の手をぎゅっと握った。
「じゃあ、初デートの天気は?」
「曇りのち雨。一本の傘で一緒に帰ったよね」
「告白した時間は?」
「18時35分。駅のホームで帰りの電車の時刻表を見てたから」
「初旅行の新幹線の座席は?」
「6号車の12AとB。円架が窓側にこだわってた」
「プロポーズのセリフは?」
「覚えてるけど、言わない」
「ケチ」
妻は口を尖らせたけど、僕が笑顔を向けるとつられて二人で笑った。
何度も繰り返したお決まりのやり取りだ。僕は大事なことを忘れない。いや、大事なことじゃなくても、この眼で見たものすべて何もかもを忘れることが苦手だ。
日付、曜日、天気、時間、文字、会話、行動……そのすべてが映像のように記憶に残っている。
「私って幸せね。大事な人が、思い出を何でも完璧に覚えていてくれるなんて」
「そんなすごいことじゃないよ」
手を動かして、今度は恋人繋ぎで妻の手を握る。袖口から、随分と細くなった腕が見える。
「やっぱり、学者やお医者様にでもなればよかったのに」
「物覚えがいいだけじゃなれないよ。僕は賢くないし、情熱だってない。それに、新聞社の仕事や紙の匂いが好きだから」
もしも君の病気が治せるのだとしたら、医者になる道を選んだかもしれない。
けれど、そんなのは手遅れで虚しい妄想だった。
「そうね。そうやって、自分の好きなものを大切にするあなたが好き」
弱々しい握力で、妻は僕の手を掴んで離さない。
お互いに縋りつくように、ぎゅっと。
結婚を約束した僕らの幸せは長く続かなかった。
婚約者が若年性の白血病だとわかったのは、円架が着るウェディングドレスを選んだ翌週のことだった。
二人の間から無限に湧き出ていた幸せは、そこで突然枯渇してしまう。
それから両家顔合わせも前撮りも結婚式も全部キャンセルして、円架は旭富総合病院に入院した。
結婚費用を費やして抗がん剤治療を繰り返しても、妻の病状が良くなることはなかった。
「こんなことになるなら、もっと早くに……幸せな時に死んでおけば良かったかな?」
「言わないでよ。そんな悲しいこと、僕は許さないよ」
「……私だって、愛する人の辛そうな顔、もう見たくないから」
頼みの綱のドナーは現れなかった。
いくらでもくれてやると思っていた僕の骨髄は、円架に合わなかった。
あらゆる治療の手は尽くして、医者にこれ以上の方法は無いと宣告された。
「治るなら痛くても我慢できたけど、治らないなら、もういいや」
窓の外の桜が散っていくのを眺めながら、妻は小さい声で言った。
それは死を受け入れるという宣言に、他ならなかった。
抗がん剤治療はストップして、緩和ケア病棟へと移ることになった。
緩和ケアとは完治が困難ながん患者に対して、治すことを目標にした治療ではなく、がんの進行に伴う身体の痛みや精神の負担に対する専門的なケアを行うことだ。
そこから2週間ほどして、治療薬の痛みから解放された妻が久々にわがままを言ってくれた。
「最期は、病院じゃないところで過ごしたいな」
医者は勧めなかったが、彼女に残された限られた時間の使い方として、本人の意思を尊重してくれた。
車椅子を押して、病院を後にする。
2人で入るはずだった新居は諦めて、僕は手狭な賃貸物件で質素に暮らしていた。
僕の生活だけが散らばる味気のない部屋に妻を招待する。
「あ! この食器一緒に買ったのだ! その写真も、あのときのピクニックのやつ!」
その部屋にあるひとつひとつを彼女は喜んだ。
何気ない備品や二人で取った写真を指さして思い出を確かめた。
「忘れないでね!」と念を押すように何度も何度も繰り返した。「忘れないよ」と当たり前の返事を僕は返した。
その翌朝、円架は首を吊って自殺した。
朝目覚めると、妻の細い身体が目の前にぶら下がっていた。
歩くのも苦労していたはずなのに、最期の力を振り絞って彼女は縄を括り、椅子にのぼって、それを蹴飛ばしたらしい。
一字一句覚えている遺書には、「会ったこともない神様の気まぐれで殺されるくらいなら、自分から文句言いに逝ってくる。そして、君忠だけは幸せするようにって、直談判しておくから安心してね」と、か細い文字で書いてあった。
でも、そこから先のことは覚えていない。
覚えていないということは、きっと僕はこの眼で見ていないんだと思う。妻の死体が床に下ろされるところも、通夜と葬式の様子も、火葬されて骨壺に小さくなった円架が収められるところも、何も覚えていない。
警察や妻の両親が手配してくれたのだろう。最後の最後に、頼りの無い夫で申し訳なかったと思う。
2ヶ月以上も経て僕の精神状態が落ち着き、ようやく墓参りをすることが出来た。妻が埋葬された墓石に書かれた『姫路家の墓』という文字を見て、日が暮れるまでそこで涙を流した。
何もかもを忘れることができないと、その日再確認した。
翌朝、目が覚めたら自分の顔に乾いた血が張り付いていた。
いくつもかさぶたがあって、触れると傷が痛む。
どうして、僕は顔面に怪我をしているんだろう。
――痛い。
不思議に思って、洗面所へと向かう。
鏡には、ぐちゃぐちゃに傷ついた自分の顔面があった。
数えきれないほどの切り傷が顔を覆い尽くしている。
流し台に視線を落とすと、そこにはいくつかのカミソリが落ちていた。
そのすべてが血に濡れていて、顔面の傷と同じように乾いて張り付いている。
わからない。
覚束ない足取りで部屋に戻って、辺りを見渡す。
ふと、戸棚に飾ったピクニックの写真が目に入った。
妻と二人で撮った写真だ。レジャーシートの上に広げられた手作りのお弁当と青い芝生の背景が――痛い。
額を裂いた傷が痛んだ。
傷口にそっと触れる。視界に赤が見えた。お気に入りだったベージュのワイシャツの袖が、血だらけになっていることに気づいた。そうだ、これは妻が似合うと褒めてくれたから、お見舞いのときによく着て――痛い。
今度は瞼の傷に走る痛み。
ああ、そうだ。
思い出した。
思い出せない様に、しようとしたんだ。
円架との思い出があまりにも消えてくれないから。
何度でも思い出してしまうから。
その度に悲しみがあふれ出して止まらないから。
君との思い出を全部、痛みで上書きして消してしまおうと思ったんだ。
大事な思い出を思い浮かべながら顔を傷つけて、切り裂いて、ミンチみたいにぐちゃぐちゃにしてしまえばきっと、わからなくなると思ってカミソリを手に取ったんだ。
「……ダメだったみたいだ」
君との記憶は消えない。
それどころか、思い出すたびに顔の傷が連動して痛む。
顔面を抑えながら、思い出に囲まれた部屋から逃げるように飛び出した。
町をあてもなく歩く。
2人の行きつけだった喫茶店を通ると、顎につけた傷が痛む。
積もった雪で小さい雪だるまを作った公園を見ると、こめかみの傷がうずく。
待ち合わせに使っていた駅前の踊る銅像の前で、頬の傷がひりひりと騒がしい。
日も暮れて、朦朧と歩き続けた道は、いつの間にかゴミや吐瀉物で汚れた路地に変わっていた。
そこで聞いた覚えのある店名の看板を見つけると、何時間も何も口に入れていないことに気づいて、転がる様に地下へとつながる階段を下りた。
重い扉を押して、ドアベルが頭上で高い音を鳴らす。
まだ営業時間には早かったようで、誰もいない店内の中心に倒れこんだ。
心配して駆け寄ってきた人物は、何やら見覚えのある人物だった。
学生時代、吹奏楽部で一緒だった後輩だ。
そういえば、彼が『Sophia』というバーで働いているという噂を耳にしたことがあった。
水を受け取って、顔面の痛みに耐えながらやっとの思いで飲み干した僕は、錯乱していたのだろう。
事情も知らない彼に縋りついて、泣き喚きながら懇願した。
「忘れたくても、忘れられない……もう、たくさんだ。消えたい。この記憶と一緒に消えたい。僕ひとりが幸せになる人生なんて、何の意味もないんだ――いっそ、全く別の人間になれたら、いいのに」
無謀で狂った妄言だ。現実を受け入れられない哀れな男の駄々だった。
「――用意、できますよ」
予想外の返答に、僕は顔をあげた。
香坂明は僕の手を取って言葉を続ける。
「“自分”を辞めたいんですよね。名前と戸籍だけなら、偽装してあげますよヒメ先輩」




