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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
破段

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32/54

破段 --- 白柳魅世②

 

「これ邪魔なんで、食べちゃいます」


 その直後、君ヶ袋は拘束する八武崎の腕に噛みついた。

 八武崎が悲痛な声を上げる。

 食い込んだ犬歯が皮膚を裂いて、噛み跡から血がにじむ。

「まっずぃなぁ。悪鬼會なんてどうでもいいご飯派味噌汁部漬物課なんですよこっちは。人肉は食べ物じゃない裂いて殺すものだ」

「突然何を、言ってるんですか……!!?」

 痛みに耐えながらも、八武崎は極め技を緩めることなく、逆に強めていく。

 しかし君ヶ袋の言動は加速度的に暴走していき、その膂力も八武崎の拘束力を突破しようとしていた。

 汗をにじませながら奮闘する八武崎の目に、拳銃を取り出す白柳の姿が見えた。

「何をしてるんですか、白柳さん!! まだ尋問の途中なのに、殺してはダメです!!」

「私だって撃ちたいわけじゃないわ。でもさっきの日本刀を握ってからのこの男のパワーを見たでしょ?」

 先ほどの君ヶ袋とシスターの戦いを思い出す。少女や墓石を軽々しく投げ飛ばす光景は、とても人間業とは思えなかった。もしあれがまた起こり得るのなら、拘束は不可能だろう。

「あの日本刀は所謂妖刀の類……一度握った人間が、何の影響も無いなんて虫のいい話はないわ。これが暴れ出したら誰も止められない。せめて四肢の自由くらい奪っといた方がいい」

「だったら私が締め落としますから! これ以上の発砲はいぁッ」

 そこで八武崎の言葉は途切れた。暴れ出した君ヶ袋が再び腕に噛みついて、その腕を引き剥がそうと力を籠める。

 見境なく暴れる鬼が解き放たれようとしていた。

「……もし逮捕しても、警察が手に負える範囲じゃないわね」

 白柳が拳銃を操作して、安全装置を外した。

「いけません、セーフティを戻して……!」

「仮に逮捕後の留置、送検、起訴が無事に進んで裁判できても、この状態じゃ精神鑑定の末に責任能力無しで無罪になる。みんな徒労に終わるわ。それならいっそ、『出所不明の拳銃で自殺』っていう結末の方が、警察も被害者遺族もみんなスッキリするんじゃない?」

「勝手に推し量らないで! もしそれをやったら、私はあなたを一生恨みますよ」

「それで済むなら、安い買い物ね」

 白柳は表情一つ変えず、銃口を紙袋の中心へと向け、引き金に指をかけた。



「――紳士さんを、殺さないで!!!」



 パトカーの影から、少女が白柳の背中へと飛び込んできた。

 照準が暴れる。

 その正体はこっそりとこの場に戻って、遠巻きに様子見ていた聖女だった。彼女は話の流れまでは分からなかったが、白柳が君ヶ袋の脳天を撃って殺そうとしていることに気づいて、咄嗟に身体が動いたのだった。

 意識外からの衝撃で、白柳は体制を崩して前のめりに倒れこんだ。そこに重なる様に毬愛も地面へと崩れ落ちる。

 銃口の方角は地面から見上げるように、偶然にも殺人鬼の方を向いていた。

 白柳が無理やりにでも発砲しようとしていたわけではない。

 だが倒れこんだ拍子に、引き金に添えられていた指先に、無意識に力が入ってしまう

「危ないッ」

 銃口の向きに気づいた八武崎は即座に行動した。

 君ヶ袋を抑えていた絞め技を解除して突き飛ばす。

 彼女の頭の中にあったのは、犯人逮捕の四文字だけだ。その前に容疑者を殺させるわけにはいかないと、彼女の正義感が反射的に働いた。

 銃口から火薬の発光が瞬く。



 それが、八武崎礼の右目が見た、最後の光景だった。



 発砲音が響いたことに、一番驚いたのは白柳だった。

 暴発に近い。狙いの定まっていない状態で撃つつもりは無かった。銃弾がどこへ向かったのか、拳銃の持ち主である彼女でさえわからなかった。

 飛び込んできた毬愛に悪態をつく暇もなく、白柳は立ち上がって弾丸の行方を捜す。

 辺りを見回して彼女が見つけたのは、右目から血を流して倒れる八武崎の姿だった。

 柔道家の彼女が受け身も取らず、真正面から地面に倒れこんでいる。

「嘘でしょ……」

 白柳は即座に駆け付けて、彼女の身体を仰向けにした。


 空洞。


 顔面の右側に大きな赤黒い孔が空いていた。目玉があった場所がぽっかりと空いていて、その奥の骨を貫通して風穴が空いている。銃弾は斜めに八武崎の眼球と眼窩を貫いて、側頭部の頭蓋骨を抜けていったようだ。傷は深く、脳の一部にまで及んでいるように見える。

「……お嬢さん? どうして、ここに」

「ごめんなさい、ごめんなさい……こんなつもりじゃ。私はただ、紳士さんが心配で、助けたくて」

 聖女のすすり泣く声が聞こえる。それに君ヶ袋が寄り添っていた。彼女の姿を見て、妖刀の影響が薄れたようだった。

 彼らも力なく地面に横たわる八武崎の姿を見つめている。

 即死だと、その場にいた誰もが思った。

 白柳が急いで八武崎の首筋に手を当てると、微かな拍動があった。だが呼吸は止まっている。いずれ酸素の供給不足で心臓も停止するだろう。

 まだ死んでいない。

 白柳は急いで人工呼吸を始めた。唇を重ねてため込んだ空気を八武崎の肺へと送り込み、その後心臓が弱まっていないか確かめる。

 救命措置を行いながら、横目で聖女を捉え、声を荒げた。

「御美ヶ峰教会の聖女様はなんでも治せるって触れ込みでしょ! この傷は治せないの!?」

 大声に驚いて毬愛の身体が跳ねる。

「で、できます! できますが……無いものは戻せません。その人の右目は、完全に失われています。出血は止められても、瞳はもう……」

 白柳が周囲を見渡すと、原型を失った肉片が地面に転がっているのを見つけた。おそらくは八武崎の右目だったものだ。

 彼女はその肉片を手でつかんで、八武崎の隣まで運ぶ。

「これで治らないの!?」

 ひしゃげた目玉らしき肉片を見て、聖女は言葉に詰まった。

「あ、ぅ……わからない、です。昔、片腕の人を癒しても、腕は生えませんでした。人間本体から分離した肉片、それを損傷部位に無理矢理戻しても治る保証は……」

 毬愛の後ろから、紙袋が顔を出した。

「では綺麗な代替品があったらどうですか?」

「……まだ、その方が可能性は高いです。臓器移植後の拒絶反応を癒した経験なら、あります」



「じゃあ、これ使ってください。ボクはもういらないんで」



 気味の悪い音がした。

 グジュ、クチュ、グチュと。何度かそれが繰り返されて、君ヶ袋の足元にいくつもの血の跡が増えていく。

「どうぞ」

 君ヶ袋の手のひらには、指で無理矢理ほじくり出した右目が乗っていた。

 毬愛が小さく悲鳴をあげる。

「刑事さんは僕を庇ってこうなったんです。紳士らしく、お礼をしなければ」

 紙袋に空いた孔の片方が、赤い涙を流すように血で染まっていた。その奥には、覗き込んでも底が見えないほどの狂気と血肉の空洞があった。

 白柳は急いで差し出された右目を手に取って、八武崎の損傷部位にそれを埋めこんだ。人体模型のようにむき出しの血肉に、借り物の瞳がはめ込まれる。

「聖女ちゃん、やって! 早く!! この子が死んじゃう前に!!」

「……わかりました!」

 毬愛は意を決して、八武崎の顔を両手で包み込むように触れた。




  ◇◆◇◆◇




 白柳の膝枕の上に、八武崎の頭は乗せられていた。

 彼女の右目の瞼が持ち上げられる。

 その奥にあった瞳にスマホのライトを当てると、瞳孔が収縮した。

 対光反射と呼ばれる生理的な反応だ。彼女が生きていることと、視神経と脳幹が正常に接続されたことを示している。

「ここまでキレイに治るなんて……」

 見た目には傷は癒えている。跡も残っておらず、癒しの聖女の圧倒的な治癒能力に白柳は驚いていた。

 八武崎は目を醒まさないものの、心臓の鼓動と呼吸は安定している。

 一命を取り留めたと言っていい状況だった。

「パーツさえ揃っていれば、多少の欠損部位は補完されます。脳細胞の一部や側頭骨も修復されているはずです」

 そう言いながら、毬愛は君ヶ袋の顔から手を離した。

 癒しを受けた君ヶ袋の右目の空洞は、傷口が塞がるだけで、瞳が戻ることは無かった。

「私の銃弾が彼女を殺すところだった……原因もあんた達だけど、救命に協力してくれたことには感謝するわ」

「それではこれでおあいこということで! 僕たちはお暇させていただこうかなと思うんですがいかがです?」

「その暴挙を許したら、八武崎ちゃんが目覚めた時にいよいよ殴られるわね」

「じゃあ助けなきゃよかった! 仕方ない、また追いかけっこのはじまりはじま……りゃ?」

 君ヶ袋が言い終わらないうちに、双方の間に一台の自動車が割り込んできた。

 どこにでもある5人乗りのセダン型。両サイドの窓がスモークになっていて、車両の中はよく見えない。

 片方の窓が開いて、君ヶ袋と毬愛へと向けて運転手が話しかける。


「迎えにきましたよ、先輩。早く乗って」


 青年はファー付きのモッズコートを羽織り、その中の服装はバーテンダーの制服だった。

 君ヶ袋は短く「ワォ!」と声をあげるとすぐに毬愛を抱きかかえ、自動車へ飛び乗る。

 突然の出来事に、白柳は呆気にとられた。

「ちょ、ちょっと待ちなさい、あんたたち! 逃がすつもりは」

 言葉の途中で、自動車は急発進する。

 白柳は急いで拳銃を取り出して銃口を向けた。

 見る見るうちにその後ろ姿は小さくなっていって、曲がり角の奥に消えていった。

 照準を合わせるよりも早く自動車は視界からいなくなってしまった。

 霊園の入り口に残されたのは、一台のパトカーと気絶した八武崎、そして天を仰ぎ見る白柳だけだった。

 浅く呼吸を繰り返す八武崎の頬を、人差し指でつつく。

「あ~もう、起きたら絶対怒るし……このまま私も勝手に帰ろうかしら」

 言葉とは裏腹に、白柳は取り出したスマホで119番へと通話を始めた。

「もしもーし。私の優秀な秘書が死にかけたので、明来木霊園の入り口まで救急車一台。大至急お願いしまーす」



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