破段 --- 白柳魅世①
二人分の足音が霊園を駆けていく。
君ヶ袋は毬愛の手を取って、白い息を吐きながら走った。
霊園の正面入り口を抜けて、道路に飛び出した瞬間だった。
パトカーの影に隠れていた八武崎の腕が君ヶ袋の胸倉を掴む。
「うひゃ?」
危険を察知した君ヶ袋が咄嗟に毬愛の手を放す。
八武崎はその隙を逃さず、背負い投げを狙って身体を懐へとねじ込んだ。
君ヶ袋は本能的に重心を引いて、技から逃れようとする。だが、素人の付け焼刃では、柔術家の技巧には敵わなかった。
「殺人鬼相手なら、手加減は不要ですね」
重心移動を見透かした八武崎は、即座に技を背負い投げから大外刈へと変える。足を払われた君ヶ袋は、背後の地面に叩きつけられた。全身を貫く衝撃で、心臓が止まりそうになる。
それでも逃げ出そうと暴れるが、八武崎は無慈悲にも極め技に移行し、殺人鬼はアスファルトの上で片羽絞という背後からの拘束を受けて静止した。
「はーい、聖女ちゃんはこっち。あのシスターの前だとやり難いのよね。霊園の外で待ち伏せさせてもらったわよ」
白柳が現れて、狼狽える毬愛の肩を抱いた。
君ヶ袋はその様子を見て、即座に抵抗を止める。
「もう暴れません。だから、お嬢さんを逃がしてください」
「……いいわよ」
「よくありません! その少女も、事件の重要参考人です!」
「縄張り争いは御免だわ。あのシスターの狙いに手を出すべきじゃない」
二人の言い争いは平行線だが、殺人鬼を抑えるのに手一杯な八武崎にはどうすることもできず、毬愛は解放された。
自由になった毬愛だったが、その場から動くことはできない。
「……このまま紳士さんを置いて行くことはできません」
「警察は僕を殺したりしません。だからもう、あなたの癒しを受ける必要もない。ここでお別れです」
君ヶ袋は努めて優しく諭した。
「それでも……」
「いいから逃げなさい!! あのシスターに捕まれば殺されますよ!!」
君ヶ袋の鬼気迫る声で、毬愛は身体を飛び上がらせた。諦めたように黙って頷いたあと、少女はその場を後にして走り出す。途中で名残惜しそうに何度も振り返るが、交差点を曲がって、その姿は見えなくなった。
白柳が君ヶ袋へと向き直り、手に拳銃を持った。セーフティは下がったままで、即座に発砲する意志はないようだ。
「さてと、やっとお話しできるわね血十字ちゃん。まずはお名前から聞こうかしら」
「君ヶ袋小路です! キュートでどん詰まりな名前でしょう。気に入ってるんです」
「清々しいほどに偽名ね。貴方を捕まえるかどうかはこの質問で決めるわ」
捕まえないなんて選択肢はないです、と八武崎が毅然とした態度で絞め技に力を入れる。
「問われたら答えるのが紳士です。なんなりと」
「ねえ、今すぐ私を殺してってお願いしたら、やってくれる?」
八武崎が息を飲む。質問の意図が読めず、彼女は冷や汗をかいて殺人鬼の回答を待った。
当の殺人鬼は、絞め技で動けないまま白柳を舐め回すようにまじまじと見つめる。
「質問を返して申し訳ないのですが淑女。あなたは善人ですか?」
「ごめんね。わたしは性悪説支持派なの。人間はもれなく悪人だし、自己評価もそうだわ」
その回答を受けて、殺人鬼は笑い出した。喜劇役者のように腹の底からわかりやすく、大げさな作り笑いだった。
「ハハッ、悪人に興味はありません。この地獄みたいな世の中で勝手に生きて、勝手に死んでくださいよ」
情緒不安定としか言いようがない緩急に、八武崎は圧倒される。
白柳はそれを意に介すことなく、尋問を続けた。
「あらそう、やっぱり善悪が拘りなのね。どうして善人ばかりを殺し続けたの?」
笑い声が止まる。
君ヶ袋は感心したような声を上げた。
「ワァオ。まさか、気づく人がいるなんて。名探偵か何かですか?」
「なめんじゃないわよ。こっちはね、異常な事件には慣れっこなの」
君ヶ袋も相手が只者ではないと理解したようで、凶行の理由について語り始めた。
「性悪説と言いましたか……この世が悪人ばっかりなのは同意見です。しかし、心底哀れなことに、一握りの善人が取り残されているんですよ」
語り口調の語気が段々と強まっていく。
「可哀想だと思いませんか? 可哀想ですよねこんなのおかしいですよね、伝えてあげないと誰かが天国に行きそびれた善人がこんなところで苦しみ悶えながら人生をさ迷っていますよと。いつ悪人に搾取されて、辱められて、惨殺されてもおかしくないですよと――善い人ほどド派手に殺して、神様に気づかせなきゃ」
殺人鬼の論理は狂気の末に破綻している。間近に聞いた八武崎は身震いをした。
ふぁわ、と白柳は興味がなさそうにあくびをする。彼女にとって、殺人に至るロジックはさほど重要ではないらしい。
「毛程も共感できない暴論にはコメントしないでおくわ。それじゃあ最後にもうひとつ。殺したの6人だっけ? 驚異的なスコアだけど、人殺しの光景は覚えてる?」
「……ええ。断末魔の音程から、血飛沫の数まで鮮明に覚えていますよ」
殺人鬼は淡々と話した。さっきまでと打って変わってふざけることなく、噛み締めるように自分の殺人を受け止めていた。
それは殺人鬼の狂乱から程遠く、白柳はついに頭を抱えた。
「あーダメね、不合格よ血十字ちゃん。人を殺す技術はあっても、それを生業にする資質がない。そんな今にも壊れそうな殺人鬼、ウチには要らないわ」
残念そうに肩を落とす。彼女にとっては血十字事件はこの問答にかかっていたようだ。君ヶ袋は彼女の求める殺人鬼ではなかったらしい。
あとは好きにして~、と手をひらひらを振って、八武崎に丸投げするような仕草を見せる。
「技術と資質……あぁ、その言い方、“悪鬼會”でしたっけ?」
白柳は振り返って、目を見開いた。
「……どうして知ってるの?」
「物覚えだけはいいんです」
「誰から聞いたかって言ってるの!」
「その昔、僕にこの名前を用意してくれた人から、この顔でも受け入れてくれる働き口として紹介されました。犯罪を取り扱う裏組織だと。でも興味が無くて断ったんです。なのでアナタは2度目の玉砕ってことで、その勇気を称えましょう」
「ちっ……誰かが既にツバをつけてたなんて。もういいわ。八武崎ちゃん、そいつ警察で持ってって自由にしていいわよ」
「……よくありません」
八武崎は君ヶ袋の拘束を緩めなかった
「容疑者君ヶ袋小路。その“悪鬼會”とやらについて、知っていることを今ここで吐いてください」
「そんなの署でゆっくりやんなさいな」
「この殺人鬼の勧誘が不発に終わった以上、白柳さんはもうこの事件に関わる理由がない。あなたは署に戻る前に姿を消すのでは?」
珍しく白柳が言葉に詰まる。その指摘は図星だった。
「だから今、白柳さんが同席しているここで尋問します。君ヶ袋小路、悪鬼會とは何ですか?」
「紳士的にお答えしましょう! ズバリ『必要悪の犯罪管理機関』です」
君ヶ袋は調子よく説明を始めた。白柳は諦めたように息を吐く。どうやら止めるつもりはないようだ。
「必要悪……? 所謂公安ですか」
「公安はテロやスパイを相手に、その暴挙を未然に防ぐのが仕事でしょう。ですが悪鬼會は民間犯罪を人為的に起こすのが仕事です」
「はぁ? 犯罪を人為的に起こす……? なんの、ために?」
八武崎は驚嘆した。言葉の意味は分かるのだが、彼女にとってその意味は受け入れられないほどに歪んでいる。
「僕が受けた説明では、犯罪がこの世に及ぼすメリットをコントロールすると言っていました」
「犯罪によるメリットなんて、存在しません……!!」
「あるわよ」
白柳が会話に割って入る。八武崎は反論したい気持ちを抑えて、次の言葉を待った。
「血十字ちゃんが全部を知ってるとは思えないし、そろそろ説明してあげるわ」
白柳はトレンチコートの内側から、タバコとライターを取り出して火をつけた。吐息と紫煙に続けて、彼女は語り始めた。
「私たち悪鬼會が犯罪を提供する理由は主に3つ。わかりやすいところから言うとひとつは『防犯意識』の醸成ね。この血十字事件で八武崎ちゃんも感じたでしょう? パトロールに防災無線、集団下校に深夜の外出を控えるなどなど……誰かが酷い目に遭わないと、人は自分が被害者にならないように努力する必要性に気づけない」
「事件による市民への影響は広義の被害でしょう! とてもメリットだなんて……」
八武崎の言葉を遮るようにタバコの煙が顔面を襲ってきた。巻き込まれた君ヶ袋と一瞬に咳き込む。
「――煙を避けないあなたが悪い」
「どう考えても、煙を吹きかけてきた白柳さんのせいでしょ!」
「あなたそれ、喫煙室でも同じこと言うの?」
そう言われて、八武崎は反論する言葉を見つけられなくなった。
彼女の言う『防犯意識』について、なんとなく理解させらたことが悔しくて歯噛みする。
「煙を浴びたくないなら、火のあるところに近づかないのは大前提。犯罪は根絶不可能という観点では、災害と何ら変わりないわ。法治国家なんて聞こえはいいけどね、人は人に殺される恐怖を忘れて生きるべきではない。自衛や防災を怠って被害を受け入れるのは、アホのやることよ」
八武崎も全てを否定することはできなかった。どれだけ警察が注意喚起しても、それに従ってくれる市民は少ない。平和ボケと言えばかわいく聞こえるが、それはたまたまその日が平和だったから言えることだ。
「次は加害者側への『制裁認知』ね。悪いことしたやつは必ず掴まって、実名報道されて、刑罰を受けて、まともな人生を剥奪される。人の振り見て我が振り直すって言うでしょ? 誰だって被害者になることを避けるし、加害者になるべきではないと知る機会が必要なのよ」
白柳の説明には一理がある。いわゆる報道心理学と呼ばれる観点において、適切な犯罪報道は新たな犯罪を防ぐために効果的だとされている。
「さぁて。最後のメリットに行く前に、ここで八武崎ちゃんにクエスチョン。法律と犯罪はどっちが先にあると思う?」
突然指を差された八武崎は言葉に詰まる。だが、解の無い問題だと考えた彼女は、訝し気に白柳を見つめた。
「そんな鶏と卵みたいな話で誤魔化さないでください」
「あら残念、答えは明確よ。人間の作る法は全部後手。起こったことのない犯罪に対して法を定義することはできないの。ここまで言えば、3つめのメリットはわかるかしら」
再び八武崎に解答権が渡る。考えたくもないクイズだったが、彼女は今までの話を整理して思案する。その途中で絞め技に力が入り、紙袋がひしゃげて腕がタップされるが、その力が緩められることはなく君ヶ袋は足をジタバタさせてた。
「苦しい……刑事、さぁん! セー……ジカ!」
「黙っててください。締め落としま……え、今何と?」
会話をするために、少しだけ君ヶ袋の喉元に自由な余白が与えられた。
「政治に関係があるはず、悪鬼會は警察庁や法務省のお偉いさん方と繋がってると聞いてます。きっと彼らのやりたいことはそこに関係してる」
狂った殺人鬼が突拍子もない言葉を吐いていると思った。だが、確かに白柳は警視正と電話でやり取りをしていたことを思い出して、八武崎の中で何かが繋がった。犯罪のメリットとは言い難いが、犯罪の影響として被害者と加害者を超えて最も大きな結果があるとすれば、白柳の言った法律だ。
「犯罪が起きて法が定義される、政治家、国会議員、立法……法改正?」
「正解」
白柳は満足そうに指を鳴らした。
「最近だと2021年ストーカー規制法、2022年侮辱罪の罰則強化、2023年配偶者暴力防止法……どれもこれも、悲惨な事件で何人も殺されてからようやく改正が進んだ。法律は人類の発展に置いていかれて必ず古くなる。それはいいけど、馬鹿正直に犠牲者を待たないと見直すことも出来ないなんて……アホらしいったらありゃしないわよね?」
これらの法律はテクノロジーの進化に対応する形で改正が進んだ。改正前は犯罪者がGPSやSNSなどを悪用しようとも、対応する刑罰が無いために適切な判決や命令を下すことが出来ないでいた。それが是正されるまでには、その悪用によって被害を受け、亡くなった人たちが数多くいたことは言うまでもない。
「どれだけ隣人が惨殺されようとも、どれだけ凶悪犯が死刑で首を括られても、どれだけ法律が書きしたためられても、人は忘れる……だからね、犯罪を供給して管理する。架空の事件でも、架空の殺人でも、架空の被害者でも雁首揃えて報道番組に並べ続けるのが、悪鬼會のお仕事よ」
悪鬼會という組織の目的が明かされる。その論理は筋が通っていた。だが、それが八武崎の正義感を言いくるめられるかどうかは別問題だった。
「でもそれを人為的にやったら、茶番じゃないですか……!?」
八武崎は納得できなかった。中学生のころから警察を志し、市民を守るために粉骨砕身してきた彼女にとって、そんなちゃぶ台返しはルール違反であり、とても認められることではない。
「あら、知らなかったの。この世は全部茶番よ。私の人生も、あなたの人生も、全部死ぬまでの寸劇」
その言葉には不思議な説得力があった。黒のドレスにトレンチコートを着て、右手に拳銃を構える白柳の姿は、舞台上の登場人物のように、まるで現実感がない。
八武崎は目の前の麗人を、違う世界の人間だと感じた。文化や言葉が決定的に違って、わかり合うことのできない異邦人のような存在だ。
「でもいいじゃない。茶番に気づかず幸せに生きて死ぬ大多数がいるなら、価値のある演目よ」
白柳の言葉は、嘘偽りのない本心からの意見だった。八武崎は彼女の表情からそれを悟る。
それと同時に、考えてしまった。
「私は市民を守るために警察になったのに……あったんですかね、私がこれまでに対応した事件の中に、その茶番劇は……?」
「……さあ、即答できるほど網羅してないわ」
「即否定できないほど、跋扈しているわけですね」
八武崎と白柳の間には、初めて会った時のような視線のぶつかり合いがあった。
決裂だと、はっきり自覚した。
そこまでに彼女たちが築き上げてきたささやかな信頼関係は崩れ、八武崎の目には敵意すら見え隠れしている。
「……殺人鬼。君ヶ袋小路、答えてください」
「うひゃい! なんですか!?」
突如耳元で名前を呼ばれた君ヶ袋が驚きの声を上げる。
「あなたが悪鬼會を紹介されたとき、具体的な仕事の斡旋はありましたか? この埋芽市で人殺しをほのめかすような、ヒントがあったなら教えてください」
「そ~ですねぇ。僕が聴いたのは悪鬼會という名前と簡単な説明だけでした。具体的な話に入る前に断ってしまったので。紹介のときには、そこの手先になって、人を殺したり殺さなかったり、殺したり殺さなかったり――殺したり、殺したい、殺したり、ころシたくなって、きた、良い気分だ」
突如、不具合を起こしたプログラムのように、君ヶ袋は支離滅裂な言葉を吐き続けた。
「これ邪魔なんで、食べちゃいます」




