起段 --- 君ヶ袋小路①
「フンフンフンフーン、ひょひょひょーい」
人々が寝静まった暗闇のなかに、軽快で奇妙な鼻歌が聞こえてくる。
ヴィイイイン、ヴィイイイン、と。鼻歌に合わせて唸りを上げるのは、男が手にする重々しい機械。
チェーンソー。それも、刃と本体は血で酷く汚れていた。
ぶら下げたチェーンソーのスロットルレバーを引く度に、エンジンの唸る音が響いて、夜道に血を撒き散らす。
夜空を覆う雲はなく、木々を鳴らす風もない。
そんな中に響く、鼻歌とエンジン音。
男はこの上なく上機嫌だった。
なぜか頭からすっぽり被った紙袋で表情は一切見えないけれども、その奥にはきっと、満面の笑みがあるはずだった。
襟の立てられたストライプのシャツに赤い蝶ネクタイ。少し擦りきれた黒いスラックス。そのどれもが返り血で汚れていて、今もまさにチェーンソーから血が飛び散っているのにも関わらず、いや、だからこそなのか。
男はこの上なく上機嫌だった。
町を賑わす連続猟奇的通り魔殺人犯。通称、血十字殺人とあだ名され、人々に恐れられている男は今日も一人の人間を殺し帰路についていた。
「フフンフフンフフーン、うひょひょい、うひょひょい、うひょひょーい」
ヴィイイイン、ヴィイイイン、と。右手に下げた機械が唸る。
暗闇と静謐の中で狂ったようにスキップをする様子は異質で、異常で、おぞましい。
タン、タン、と。不意に、アスファルトを鳴らす音が近づいてくる。
殺人鬼はチェーンソーを鳴らすのを止めて耳を傾けた。
タン、タン、タン、と。音は少しずつ大きくなってゆく。
目の前の十字路を曲がった先から聞こえてきているようだった。
リズムに合わせるように、交差点の切れかけの街灯がチカチカと明滅する。
その音は人が走っている足音だとか、その割には歪なリズムだとか、光の明滅と足音の拍(BPM)が合っていないだとか、そんなことは男にとってはどうでもいいことだった。
チェーンソーの回転刃に目を落とす。
近づいてくるその音の主に、今宵の2人目の犠牲者となってもらおうと男は思い立った。
仕方がない。鼻歌を邪魔されたのだから仕方がない。こんな姿を見られてしまったのなら仕方がない。こんな時間に出歩いていたのだから仕方がない。出会ってしまったのだから仕方がない。なんでもいいけど仕方がない。そう、仕方がないから殺すしかない。
ヴィイイイン、ヴィイイイン、と。右手に下げた機械が唸る。
明滅する街灯が、ジジジジジと耳障りな音を立てて伴奏する。
ついに足音は目の前まで近づいてきて、男のすぐ近くに来たところでそれは止まった。
男は大きく踏み出し、曲がり角から身を乗り出す。
「あっぁ……やめぇ、て……くだ、さい……」
そこにあったのは、2メートル近い大男が、一人の少女の首を片手で締め上げている場面だった。
明滅する街灯が、非現実を演出するように彼らを気まぐれに照らす。
「……うひゃ?」
突然の出来事に、流石の殺人犯も目を見張る。
外国人らしき大男は神父服を着ており、ピンと伸びた背筋やその気品ある所作から、神父のようだということがわかった。
首を絞めれられている少女は、白を基調とした服装だ。一見すると修道女のような出で立ちをしていて、この二人はついさっき教会から飛び出してきたかのような風貌だ。
それなのに、神父は修道女の首を捻じ切らんばかりに絞め上げて、今にも殺そうとしている。
神父の落ち窪んだ瞳が、ギョロリと向いて男を見つけた。
「“魔女”が余りにもしつこく逃走するので、領域から飛び出してしまったか」
神父は空いている片手を懐へと伸ばし、液体が入った小瓶を取り出した。
「人払いの聖香油を撒き直す……が、少し遅かった」
手早く液体を周囲に撒くが、その奥から人影が迫ってきていた。
「聖女様を離して!」
もう一人女性が駆け込んでくる。その手には短いナイフが握られていた。
凶器の先端が神父の背中へと迫る。
次の瞬間、神父は少女の首を手放し、彼女はアスファルトへと崩れ落ちた。
神父は素早く手刀を繰り出し、ナイフを持った手を叩き落とす。その後、即座に追ってきた女性を背後から拘束し、地面に組み伏せた。
目にも止まらぬ早業だった。
「異端を庇えば容赦しないと言ったはずだ」
地面に落ちたナイフに神父の手が伸びて、息をする間もなく、女性の心臓を背中側から突き刺した。
「うひょー……」
あまりのことに、流石の猟奇的殺人犯も面を喰らってしまった。
神父から致命傷を受けた女性は、痛みに苦しみながらも、最後の力で声を振り絞る。
「お願い、逃げて……聖女様……」
直後、ナイフの追撃で女性の首は断たれた。
「いかに“痛みの魔女”と言えど、首を落とせば治せまい」
弱々しく立ち上がった少女は、その光景を見て小さな悲鳴をあげた。
少女が背中を向けて走り出そうとした瞬間。
神父が投げたナイフが背中に突き刺さり、彼女は地面へと倒れこんだ。
怯える少女の瞳に映ったのは、不思議な格好をした部外者だ。
頭にすっぽりかぶった紙袋。血みどろのシャツ。手に掴んだチェーンソー。
それでも、少女は縋るしかなかった。
「たす……けてくださ……い」
相手が良識ある一般人だったならどれほど良かっただろうか。
不幸にも彼女が声をかけたのは、連続猟奇的通り魔殺人犯。この街で一番イカレた男だった。
殺人犯は膝を折り、ぐいっと思いっきり顔を近づけた。
「ひっ」
少女が小さく悲鳴を上げる。
目の前に迫ってきたのは、人間の顔ではなく、それを覆うくすんだ色の紙袋だ。
明滅する街灯が、少女と殺人鬼の影をアスファルトに描いては塗りつぶす。
乱雑に空いた二つの穴の奥で、瞳孔の開いた目がうるさいほどにまばたきを繰り返した。
「あなたは、神を信じますかぁ!?」
馬鹿みたいに大きな声だった。
深夜の住宅街に響き渡る迷惑な騒音。
それでも聖女は、その質問を無視できなかった。
「……もしいるというならば、わたしは神を恨みます」
か弱い声でそう答えたあと、聖女は気を失って地面へと顔を落とした。




