破段 --- 天辺毬愛①
旭富総合病院は、埋芽市唯一の総合病院で市内で最多の診療科と病床を備えている。市民が怪我や病気で悩んだ時の最後の砦となるのがこの病院だった。
診療、救急、入院など用途に応じた全5棟で構成されており、広大な敷地には100台は停められるほどの駐車場と、タクシーやバスが停留するロータリーまで完備されていた。
既に消灯時間を過ぎた病院では、救急や夜間受付に関する場所だけが明るく照らされており、建物全体は寝ったように静かだった。
「ほ、本当に見つからないんですか、これ……!?」
「紳士に二言はありません。信用してくださいお嬢さん。これでも週4できぐるみのバイトをしている達人です。子供たちの心を掴んだりローキックを食らったりと経験豊富なカエルです」
特に灯りが少ない入院病棟の裏口で、人間とは思えないシルエットがもぞもぞとしていた。
カエルのきぐるみの中にいるのは、君ヶ袋と毬愛だ。
君ヶ袋の発案で、彼のバイト先のきぐるみを勝手に拝借し、それを被って病院へと忍び込もうとしていた。きぐるみの顔の部分には、『明日の朝移動します。一晩置かせてください(小児科)』という張り紙が貼ってある。
「あっ、お嬢さん足音です! 人が来ますよ!」
「わ、わかりました! 座りますね」
通りかかったのは巡回の警備員だった。急に現れたカエルのきぐるみを見てギョッとしたものの、手元の懐中電灯で張り紙を照らして読んだところ、首をかしげながらも巡回へと戻っていった。
警備員が出入りしていた出口に鍵がかかっていないことを確認すると、カエルのきぐるみは院内に入り込むことに成功した。
「……バレ、ませんでしたね。まさか本当にうまくいくとは、信じられません」
「他部署の荷物って勝手に触れないのが人間です」
「紳士さんって意外と社会性があるんですね」
「当然です! 紳士という言葉はもはや社会性の塊という意味ですから」
要領の得ないやり取りしながら、二人はきぐるみを脱いだ。
身軽になったところで、君ヶ袋はカエルの肩にかけていた楽器ケースのようなものをとって、自分の肩にかける。
毬愛がその荷物について尋ねると、お守りのようなものですとはぐらかされた。
「それでは、ここからどうやっておばあちゃんのところまで行きましょうか」
「ナースステーションに行けば、入院患者の案内はあるかもしれませんが、リスキーですね。きっと夜勤の看護師がいます。確かおばあさんは末期がんでしたね?」
「……はい。大腸がんが転移して、全身に進行していると聞いていました」
「では緩和ケア病棟に行ってみましょう。こっちです」
君ヶ袋は周囲を毬愛を先導し、迷うことなく進んだ。もちろん看護師や入院患者に気づかれない様に慎重に移動していく。
階段に差し掛かっても足音を立てない様に細心の注意を払っていた。
「抜き足、差し足、紳士足」
「どんな足ですか……」
「流石お嬢さん、ウィスパーツッコミはニッチなASMRで非常に紳士的です」
「いよいよあなたの中の紳士像がよくわからないです」
相変わらずふざけている君ヶ袋を何とかいなしながら、二人は地上3階にある緩和ケア病棟へとたどり着いた。
緩和ケアとは完治が困難ながん患者に対して、治すことを目標にした治療ではなく、がんの進行に伴う身体の痛みや精神の負担に対する専門的なケアを行うことだ。
君ヶ袋は毬愛の探し人の病状を聞いて、この病棟にいると予想した。
「お嬢さんの探している人の名前は何ですか?」
「古橋さんです」
二人は病室の扉の横にあるネームプレートを見ながら廊下を進んでいく。その間で、毬愛は気になっていたことを質問した。
「あの、紳士さん。どうして、この広い病院の中で、がん患者がこの棟にいるとわかったんですか?」
「それは簡単なことです。ボクがこの棟によく通っていたからですよ」
「えっ、それって……」
「あ! お嬢さんありましたよ、この部屋です!!」
君ヶ袋が指を差したプレートには、『古橋サチエ』と名前が記載されていた。
病室は個室だった。電気の消えた部屋には月明りが差し込んでおり仄暗い。患者はベッドに横たわり、点滴に繋がれていてやせ細っていたが、安らかに眠っているように見えた。
毬愛と君ヶ袋はベッドの脇に立って、古橋サチエを見下ろしている。
少女は優しくおばさんの肩を揺らして、声をかけた。
「おばあちゃん、起こしてごめんなさい。約束通り治しに来ましたよ。御美ヶ峰教会の毬愛です」
しばらく繰り返していると、老婆のまぶたがゆっくりと開いた。
弱々しい動きで頭と視線を動かして、毬愛を見つめるとかすれた声で返事をした。
「おおぉ、おお、聖女さま」
「吹奏楽部のお孫さんのコンサート、来週ですよね。元気になったら見に行きたいって、言ってましたよね」
毬愛は膝をついて、老婆と目線の高さを合わせた。しわくちゃになった手を両手で包み込むように握って、優しく声をかける。
「最後にあなたの願いを叶えたい。叶えさせてください」
その言葉を聞いて、老婆はほんの少しだけ口角を上げた。その様子は、悲しそうにも見える複雑な表情だった。
「聖女さま、ありがとうねえ。こんなところにまでこっそり来てくれて。だけどもういいんだよぉ」
「えっ……な、なんで、どうしてもういいなんて言うんですか? わたしならきっと治せます。その痛みを、取り除けるんです。もうお金だって要らないし、教会に来なくてもいいですから、だから」
「孫は、深幸ちゃんは死んでしまった。通り魔殺人だって。殺されちまったんだよ」
驚くほどに静かな病室で、誰かが息をのむ音が聞こえた。
毬愛は予想もしていなかった事態に、うまく言葉を紡げない。
「う、そ……それじゃあ、あの……吹奏楽の、コンサートは」
「行かないよもう。私の主役がいないんだもの」
老婆を安心させようと握ったはずの手が、震えていた。古橋サチエは申し訳なさそうに、少女の肩に手を置いて語りかけるように続けた。
「こんな死にかけの老いぼれよりも早く、かわいいかわいい孫娘が逝っちまうなんて。人生の最後にこんな不幸ってあるのかねえ。だからね聖女さま、もういい。もういいんだよ。私の病気は治さなくてもいい」
その諦めを少女は受け入れられなかった。もう一度手を強く握る。
「そんな悲しいこと、言わないでくださいおばあちゃん。わたしには痛みを取り除くことしか出来ないんです。せめてそれだけでもさせてください!」
「そんなことないよ。アンタはたくさんの人を救ってきたって、岸和田神父から聞いてるよ……ああ、そうだ。どうしてもっていうなら聖女さま、あんたに頼みがあるよ」
毬愛は大きく頷いて、「言ってください」と促した。
老婆はゆっくりと腕を持ち上げて、自身に繋がれている点滴を指さす。
「看護士も家族もダメだっていうんだけどね、この点滴を抜いてくれるかい?」
言葉の意味がわからず、毬愛は返事が出来なかった。老婆は構わずに、語気を強めて理由を話す。
「深幸ちゃんが待ってるのよ。突然家族と離れ離れになっちまって、天国でひとり寂しく泣いてるはずさ。誰か追いかけるっていうなら、この老いぼれしかいないよ」
「……できません。わたしは、治しに来たのに、それじゃあ死んでしまうじゃないですか」
「点滴じゃなくても、首を締めて、折ってくれたっていい。お願いだよ」
明確な自殺幇助だった。老婆は生きる希望を失っている。
治療を積極的に行わない緩和ケア病棟に移ることも、孫を失ったことをきっかけに古橋サチエ本人が希望したことだった。
受け入れられない毬愛は、立ち上がって声を荒げた。
「いやだ! 出来ませんよそんなことっ、わたしは貴方を救いにきたのにこれじゃ約束がちが」
「ちょいと失礼」
毬愛の発言を遮る様に、君ヶ袋が割って入った。
言葉に詰まった毬愛が虚を突かれた隙にベッドに上がり、老婆を挟むように膝を立てて、両手を伸ばした。
「おばあさん、あなたみたいな善い人はやはり早く天国に行った方がいい。この世は地獄みたいなところ……いや、地獄そのものだ」
その両手が、やせ細った老婆の首を包み込む。
「紳士として、あなた望みを叶えます」
「ええ。ありがとうねぇ、心優しい紳士の方。やっとくれ」
直後、君ヶ袋の両腕に渾身の力が込められた。
「待って!? 紳士さん、いや、待って!!」
片腕にしがみ付く毬愛を意に介さず、君ヶ袋は老婆の首を絞め続けた。
毬愛が腕を剥がそうとするも力は及ばない。その反動で点滴のチューブが引き寄せられ、高い位置で輸液を留めていたスタンドが倒れて大きな音をたてた。
老婆の手足が、苦しみに悶えて小刻みに震える。
乾いた瞳が紙袋の奥の相貌と見つめ合っている。老婆は朦朧とする意識の中で、自分と同じ昏い目をしていると直感した。
頸動脈の血流が止まり、気管は締め上げられ、皺の寄った皮膚は握力によって歪んでいく。脆くなった頸椎が軋む感触が君ヶ袋の両手に伝わったあと、老婆の手足から力が抜けた。
望みを叶えた殺人鬼は、ベッドの上に座り込んだ。
毬愛は目の前で起きたことを受け入れられず、溢れる涙がいくつも床へと滴り落ちていく。
君ヶ袋は微動だにしないまま、少女へと話しかけた。
「……あなたの最後の約束を奪ってごめんなさいお嬢さん。でもボクには責任を取る必要があった。このおばあさんの孫を殺したのはボクです。ボクが血十字の殺人鬼なんです」
殺人鬼は懺悔した。
毬愛は理解できなかった。たった今、目の前で古橋サチエが殺害されたことも。その孫娘を殺した犯人が君ヶ袋だとことも。
「どうして……お孫さんを殺したんですか? どうして、おばあさんまで、殺さなくたって……」
その質問に対して、君ヶ袋は真摯に答えようとした。
「善い人は幸せになって天国に行くべきです。でも、この世はそういう仕組みで出来ていない……だから、確実に天国に行く方法は、悪人に殺されることだと思うんですよね」
「な、んで……? 善い人がこれから生きて得るはずだった幸せが、たくさんあるかもしれないのに」
「保障がない。誰も他人の幸せについて責任を取らないくせに。そんな理想論は卑怯者の世迷言じゃないですか」
一瞬垣間見えた君ヶ袋の深い憎悪に、毬愛は反論できず押し黙ってしまった。
「ボクは見たんですよ。幸せになるべき人が、不幸になってに死んでいく様を。言われたんです。こんなことなら幸せなときに死んでおけば良かったって……それじゃあボクが責任を持って送り出してあげるのが、紳士的だと思いませんか?」
「……わかりません、ずっと、会った時からずっと、紳士さんの言っていることがわかりません」
それ以上、二人の間に言葉は無かった。
毬愛はわからなかった。ただ膨大な失意の感情と、壊れてしまった男が目の前にいることだけが認識できた。
何もできないままに時間が流れていく。
深夜の病院は寂しさを感じるほどに、足音ひとつしない静寂だった。
そしてふと、どうして誰も来ないんだ?と毬愛は気づいた。
先程までのやり取りの中で、何度も声を荒げた。点滴のスタンドが倒れて騒音すらあった。
不思議に思って顔を上げると、君ヶ袋と目が合う。
窓から差し込んだ月明りが頭にかぶった紙袋を照らして、その奥の瞳がほんの少しだけ見える。濁りきった目は、生きているか死んでいるかもわからないくらいに表情が失われていたが、その目じりから一筋の涙が見えたような気がした。
「紳士さん……?」
声をかけた直後、月明りが何かに遮られる。君ヶ袋の肩越しに見えたのは、人影だった。
静けさを切り裂くように、窓ガラスが割れる音が響く。




